民主主義のつくり方・その2

前回のつづき。

依存への恐怖

[近代の政治思想において]何よりも重視されたのは、個人が他の個人に依存しないことであった。
(略)
[市場を絶対視するイメージの強いハイエク]を突き動かしているのは市場メカニズムへの信頼という以上に、他者の意志に従属することに対する忌避感である。他の個人の恣意的な意志に振り回されるくらいなら、形式的で一般的なルールに従う方がはるかにいい。もっとも悪いのは、他者のさじ加減次第という状態に置かれることである。
(略)
ベーシック・インカム」論にしても、根底にあるのは他者へ依存することの恐怖ではなかろうか。(略)
全員一律の現金給付という仕組みには、他者の恣意的な判断が入り込む余地が一切ないように思われる点である。
(略)
[幼児期、老年期を考慮すると、人が「自立」しているのは一定期間に過ぎない]
人々は、ひとたび市民として政治に参加する以上、「私」の領域における事柄をすべて括弧に入れることが求められる。結果として、いつしかケアの問題は「私」の領域のなかに封印され、政治の領域から排除されてしまったのである。
 問題なのは、このような思考の下、人間がもつ脆弱性が見失われたことである。人間が本質的にヴァルネラブルな存在であることは隠蔽され、むしろルソーがいうように、「他の人間がいなくてはやっていけない」ことが悪とみなされるようになった。

依存のパラドクス

[『アメリカのデモクラシー』第二巻でトクヴィルは]二つのバラドクスを指摘している。第一は、すべてを自分で判断したいと願う民主的社会の個人が、実はかつてないほど、まわりの人間に動かされやすいという逆説である。(略)
 第二に、伝統的な社会的つながりから切り離され、自分の世界に閉じこもりがちな民主的社会の諸個人にとって、身のまわりのことですら、その隣人と協力して自ら処理することが難しくなる。(略)
[結果]遠い国家権力に依存することになる。たしかに民主的社会の個人は、特定の個人に依存することを非常に嫌う。それがただちに不当な権力の現れとしてみえるからである。ところが、遠くにある一般的な形式をとる権力に依存するのは、意外なほど平気である。それが非人格的なものにみえるため、人々のプライドを傷つけないからである。
(略)
結果として、国家権力の影響力はこれまでになく大きなものとなり、その「柔らかな専制」は、真綿で首を絞めるように、人々の自由を圧殺していく。トクヴィルはそのように説いたのである。

ロールズの政治哲学

宗教内乱から出発した近代の政治思想は、やがて人と人との直接的な接触を回避し、一人ひとりの個人が孤独な利益計算を行うことを推奨することで、暴力を回避する道を選んだ。
 このことが最終的にもたらしたのが、経済学的思考の優位であった。そして、この潮流が、ロールズの政治哲学にも流れ込んでいる。
(略)
[「バレート効率性」というモデル]において、人々は相互に関心をもたない。ただひたすら自己の利益の最大化を目指し、他者との直接的なかかわりを回避するのである。(略)
 しかし、問題なのは、このような個人のみによって政治を構想することができるのか、ということである。(略)
 あまりに狭まった政治の回路について、わたしたちは再考する必要があるのではないか。不信と無力感を乗り越える道は存在しないのだろうか。

習慣とは人と人とをつなぐメディア

 デューイによれば、習慣とは単なる機械的な反復ではない。習慣とはむしろ、人間がその生のさまざまな瞬間に遭遇する状況に対応するための「道具」である。(略)
 人は多様な習慣を身につける。ある意味で、その人の人となりは、その人の意志的な選択よりは、無意識的な習慣によって示される。さらにいえば、習慣が、その人の欲望を事実上形成し、人々の活動を生み出す以上、習慣こそがその人の自我であり、意志でもあるといえる。
(略)
 このようなデューイの考えは、知識とは社会的であると考えたパースや、人々の信念が社会を構成し、かつ社会を変えていくとしたジェイムズとともに、プラグマティズムにおける「社会的なもの」の思考法を形成している。
(略)
プラグマティズムの特徴は、個人と個人のつながりを実体化することなく、つねに具体的な情報や行為を通じて捉えた点にある。その意味で、社会を構成するのは、個別の個人ではなく、情報や行為によって媒介された人と人との諸関係であった。
 しかもその諸関係は、けっして静態的なものではなかった。むしろ習慣を介して、そのような諸関係はつねに変化していく。
(略)
一人ひとりの個人の信念は、やがて習慣というかたちで定着する。そのような習慣は、社会的なコミュニケーションを介して、他の人々へと伝播する。人は他者の習慣を、意識的・無意識的に模倣することで、結果として、その信念を共有する(略)
 社会全体としてみれば、習慣とは人と人とをつなぐメディアであり、多様な場所で行われた実験の結果を集積することで、変革への挺子となっていく社会的装置である。人々の信念がそれと自覚されることなく結びつき、結果として社会を変えていく。これはほとんど民主主義であるといってもいい。
(略)
 ハイエクはいう。「無名の人たちが変化した事情のもとでありふれたことを繰り返していくうちに、無数の些細な行動を重ねることから広くいきわたる型が発生する。これらの型はそれ自体として明白に認識されかつ伝達される主要な知的革新と同様に重要である」。

文化左翼」への敵愾心

いわゆる「文化左翼」に対して、ローティは敵愾心を隠さない。ローティのいう「文化左翼」とは、マルクス主義フーコーの哲学、さらにはラカン派の心理学の影響の下に、ジェンダーエスニシティに秘められた権力性を告発する左翼である。ローティは、「文化左翼」のうちに、理論志向と傍観者的態度を見出す。これに対しローティはむしろ、六〇年代以前のアメリカ左翼がもっていた「改良主義」的志向を重視する。
 ローティのみるところ、アメリカにおける真の左翼の伝統を築いたのは、ホイットマンとデューイである。ローティの定義する「左翼」とは、あくまで世俗主義の立場から、それでも社会正義を信じ、社会改良を目指していく立場を意味する。
(略)
 このような定義からすれば左翼とは、必然的に「希望の政党」になるとローティはいう。ホイットマンとデューイは、アメリカの使命を原罪の観念から解放し、むしろ未来において実現されるべき民主主義への信念と結びつけた。

 本書の出発点にあったのは、無条件に人々の集合的な意志を前提にできないこと、そしてそもそも人間の意志とは、行為に先立って自明に存在するわけではないということであった。場合によって、人々は行為の後になって自分の意志を発見する。行為の最中にははっきりしなかったものが、終わってみてようやく「自分はこういうことをしたかったのだ」とわかることがあるのである。
 そうだとすれば、行為の前にその理論的根拠や格率を探すよりは、むしろ行為を通じて人々が自らの意志を確認していくことの方が重要なのかもしれない。そして、そのような人々の意志が、行為を通じて相互に影響を及ぼし、社会全体のダイナミズムを生み出していく過程にこそ、注目すべきなのかもしれない。