哲学の犯罪計画・その3 啓蒙、道徳哲学

前回のつづき。

「啓蒙時代は懐疑主義よりもはるかに攻撃的で恐るべきものである」

啓蒙

 啓蒙時代は懐疑主義よりもはるかに攻撃的で恐るべきものである。(略)
 啓蒙の戦いは逆説的にも、互いに対立し合う運動によって強化される。禁止されたり、あるいは抑圧すべく排斥されたりすることで、かえって力づけられるのだ。(略)
啓蒙主義はクモが獲物にそうするように、自分と対立する反対勢力を貪るのである。つまりかれらの実情あるいはエネルギー源は敵対勢力から得られている。それゆえ「[かれらの特徴である]純粋洞察は当初は中味がない……しかし否定的な者たちに対する否定的運動を通じて、純粋洞察が形成され内実を得ていくのである」。
(略)
まずは、大衆の盲信につけ込む司祭階級が否定され、同時に、群衆をこの詐りの知性、すなわち蒙昧主義に放置している専制政治も批判される。(略)
この複雑な、しかし都合の良い関係にあるがゆえに、この批判意識は自分が否定するものによってのみいまここにあるのだと言えることになる。批判が批判として成立するのは、それに対抗する者を通じてであり、また批判がそれ以外の内容を持つことができない、ただそのときだけである。批判の対象が消滅してしまえば、批判も一緒に消えていくのだ……。
(略)
そのニヒリズムが極限まで達すると、その破壊的狂気のもとでは次第に失われていく刹那的情熱がついに消え去り、こうなると啓蒙主義は自分自身を否定するしかなくなる。ちょうど自分で自分を食べる要領である。
(略)
 《神》がいまここにあるためには、人間が必要とされる。神は人間の夢であり、完璧な被造物であり、人間とともに死ぬ。人間はおのれが本能や欲求に還元されることを拒否し、自分の欲望を超える質的な飛躍ができる自分を見せたがるが、そんな執拗な拒否を表現しているのが《神》なのだ。宗教は人間精神から、その無限性を奪い、他方でその有限性は受け継ぐ。
(略)
批判精神が最高潮に達したこの世紀の「純粋洞察」は、人間がその深い奥底に抱え込んだものを強調することもなく、迷信に手を伸ばすところで満足してしまう。つまり、否定することで得られる快感が頂点に達するのはこのように、聖杯、聖体のバン、その他の御守りなどなどの、精神的な事物と取り違えられてしまった感覚的対象を小馬鹿にするときだったわけだ。
(略)
かつては神の見る世界のなかで人間のイメージが決定される、と言われていたが、啓蒙主義はそれを曲解して、共同体精神が自分自身から引っ張り出した意識を、下らない諸対象の考察へと取り替えただけだ、なぜそうなったのかといえばそれはかれらが、現実に作用しているものを、「《精神》によって捨てられた本質」として、つまり消費され、あげくに捨ててもいい一つの事物として切り取って描き出したからだ、という見方もあろう。
(略)
啓蒙主義は信仰のなかに自分自身の商業的対象への執着しか見て取らなかったのだ、と言うことも可能になろう。啓蒙主義が宗教や金ぴかに飾られたその儀式的対象へと向ける批判は、自分自身が財産や贅沢に愛着していることのカリカチュアなのだ。
(略)
ヘーゲルについでルードヴィヒ・フォイエルバッハもそう提案したのではないか。
(略)
信仰は、それを読む術を知っているものにとっては「人間の心に隠された宝」が発見される運動として現れてくるのだ。しかし、この宝箱は、そこに中身のない対象しか見出さない「純粋洞察」の批判の目にはあいかわらず死物でしかない。
(略)
 18世紀の唯物論功利主義は「対象」と「事物自体」の区別を把握していなかったがゆえに哲学の著作を残さなかった。もし感覚的確信の諸対象が人間と関係なくいまここにあるものならば、宗教という諸事物は逆に人間のなかにしか、おのれ自身について考えるものの内側でのみ、いまここにあるということになろうし、あるいは人間の条件の彼岸に、きらめく出来事というかたちでのみいまここにある、とも言える。自己について思惟するものは、おのれがそうであるもの、その功利主義的ないまここにあることの条件へと還元されたり、力があるのはリベラルな権利だけという人間の――人間的な、あまりに人間的な――下劣さという凡庸な話へと還元されたりすることはありえないだろう。
 啓蒙主義はどうしてもおのれの無意味さに直面できず、どうあっても金銭と金銭の流れの力を借りて有限性から逃れようとする世界にしかまなざしを向けようとはしない。(略)
啓蒙主義はしっぽに噛みつく蛇に似ている。「純粋洞察」はもはや価値創造が不可能だということに過ぎない。単なる価値の切り下げであって、いかなる再評価もなければ、代わりが来る見込みもない。そうなれば「そこに無しか見て取らない」がゆえに、「精神に訴えてくるものは、非本質的な現実や、かつておのれが捨てた有限的なものでしかない」。そして唯一の気休めとして、功利的な実益に思いを馳せることで我慢するのである。

フランス革命とカタログ世界

 今われわれがあとにしたばかりのこの世界――「純粋洞察」の勝利する地である――には、もはや本当の意味では本質は含まれていない。その世界は複雑に組み合わされた日用品という名の物質におおわれている。(略)
ここにあるのは深みを欠いた世界であり、自由に手に入るありとあらゆる生産品に覆い尽くされている。そこを支配する技術については、『エンチュクロペディー』が数多く伝えているとおりだ。つまりは、本物の精神的な結びつきを持たない、カタログに掲載された豊富な品数の中に散乱した世界である。諸々の道具は連結されて横に拡がっていくが、それはもはや深さを掘り下げようとはしない。「信仰」が来世へと投影してきた本質が失われてしまうと、われわれは「事物自体」の持つ深みを欠いた宇宙へと直面することになる。百科全書という名の機械が「これらの散乱した痕跡を普遍的なイメージヘと」高め、「対象に関しては鋭い洞察に富んだ見解を一つの同じコレクションのなかに」整理する。結果として、「全体性なるものを未だに心に抱いている魂が……破滅していくのを見る」ことになるわけだ。
(略)
[参照システムをなぞっていくだけの]世界は人間の力能の思うがままだ。ここで言う人間とは、超越性から解放され、いまや決定的に、事物に対して働きかける自分の行為のもつ物質的な力のなかに位置づけられる人間なのである。
 人間の意志にいまなお逆らうものは何もない。
(略)
神秘のうちに閉ざされていた世界は存続できない。意識は外界のどんな物質もおのれの意図に従って専有し調整することができることが判明する。(略)
われわれの宇宙からは、距離や異他性は姿を消したのだ。(略)
人間の意識がついに、体系的なスペクタクルのうちに自然を出現させることのできる《神》のまなざしと対抗しはじめたかのようだ。知に関しては、こうした自由が獲得された。そしてその自由は、財産の没収や財産の平和的拡大にたいする政治的制約に反抗する人間の権力の獲得へと向かう。
(略)
 フランス革命はこうした吸収合併を政治的に変換したものである。つまり、現実的なものを理性的なものへと変換し、その変換がまた、こうして独立した事物として専有されまた破壊される現実的なもののなかに全面的に理性的なものを浸透させることで、折り返し保証されるというわけだ。
(略)
意志とは、もはや専制君主の手のうちにはなく、むしろ普遍的になり、啓蒙主義の著作によって万人に共有されるものとなった。そのなかでも、ルソーの『社会契約論』ではその帰結と政治化が表明されている。
(略)
「そんな高みは、現実の、あるいはむき出しの存在たちが失った自律という名の死体の上にあるだけだ。それも、ただただむっとするような、空虚な《最高存在》の悪臭としてのみ漂うガスに過ぎない」。死のガス、空虚が社会領域を奪取し、暦、祝祭の印にいたるまで一変させる。まるで限度無き蹂躙と否定に曝されたようなものだ。
 この自由はもはやいかなる作品も生み出すことはない。「残されているのはただ否定的な活動だけである。単なる消失への熱狂である」。ひとたびこの破壊的な怒りが、いまだ外部にあってそれに抵抗しているものに片を付けてしまうと、もう食い尽くすものは自分しか残っていない。

道徳哲学

その出発点となったのは(略)カントが提示する、啓蒙主義の批判的解読である。(略)
 テロルは、世界を取り込みそれを貪り食らう巨大な機械として登場する。(略)
この、いまだひどい混乱状態にある意志を乗り越えるのは道徳哲学の役目である。(略)
新しい形象を機能させることがその使命となる。ともかくドイツでは道徳哲学はそういうものとして登場した。道徳は、何からも自由であろう、何の原則にも依存すまいとする意識の独立性に端を発する。その内部には、否定の持つ盲目的力が宿っている。(略)
さしあたり、道徳が否定的なもののもたらすテロルを乗り越えることができるのは、いまここにあるものの様式を発見したおかげである。この様式とは、乱暴に「否!」と答える享楽から逃れて、むしろ飼い慣らされた自律性を肯定することへとつながるものだ。ここでは自律性とは、独立の夜の闇のなかで、機械的テロルから脱してみずからを法とする能力、ただそれ自体からのみ生じる一つの法を認めさせる能力と解さればならない。その法が、すなわち義務である! 道徳的義務を論じたこのデリケートな一章こそ、ヘーゲルが新たな世界観を演出すべく追求した犯罪計画の辿る道となる。その世界観は、現実を破壊し首をはねるのではなく、自己から発して現実を出現させることのできる道徳的世界観のはずである。
 「意識にとっては、義務は自分の見知らぬものという形をとることはありえない」。わたしを外部から縛り、わたしがすべきことをわたしに押しつけるものは何もない。法の命令はつねにわたしの願うところと合致する。自分で自分を規定するのが意思表示というものである。そして自己規定という面で言えば、意思表示こそが、世界を道徳的に見るようにわたしに働きかけるのである。かくあるべき、あるいはむしろ「かくあるべきであった」ものにしたがって現実に手を触れる一つのやり方と言ってもいい。それは科学のまなざしとも、政治のまなざしともいささかの共通点も持たない。
(略)
意志とはここではもはや、ただ自己を前にした意志そのものだけをおのれの実体としている。せねばならぬこと、おのれに義務を即すこと、それは自分自身を質料であると見なし、現実は自已に依存する、つまり現実を違ったように見たり、あるいは意志に沿って現実を変更したりするわれわれにのみ依存すると考えることである。われわれはこうして、奇妙なまなざしと関わることになる。(略)突然、主体と実体のあいだには明確な区別がなくなってしまったのだ。
(略)
兄の葬儀、臣従の誓い、気まぐれな富の流通、あるいは世俗のつまらぬ視線を避けて来世や信仰の世界を信じる、そういった機会ごとに、精神は混乱し、疎外され、自己が見知らぬものに思えてくるなどという錯覚を起こすかもしれない。ここでは、眼前にあるのはいっさいの超越性を解消するテロルであり、現実は飲み込まれていき、いまや均質化され、どの首が切られようが気にもとめないようなものに変わってしまう。こうなったとき精神は、自分はおのれの真理のなかいる、自分自身に向かい合っていると気づくのである。つまりこんな風に、おのれの意志が直接的に事物になることを望む意思に向かい合っていると感じるのである。そうした事物は、はじめは熱狂に満ちたものであるかもしれないが、しかしその意志のなかでおのれを否定することなく破壊をを続けることはできない。
 義務はこの均衡点を構成する。その均衡点は、意志を恐怖政治のあずかり知らぬ理性的な目的性に沿って、意志自身のなかに措定することができる。
(略)
存在の方が、意思の周りを回っている……。そのことは、なぜニーチェが「われわれはなぜ今なお道徳的なのか」と自問することになるのかを説明してくれるだろう。現実はこれ以降、永劫回帰というかたちで意思の周りを回るのである。ヘーゲルはそれを、終わりなきものと考えた。恐怖政治のときにそうであったように、たとえ存在がもはや存在をやめ、中心点の変更によって消滅させられてしまったとしても、事態は変わらないからだ。その新しい中心点を持つ軌道は、今後は主観性の条件によって決定される。この回帰によって、問題は単に否定性、すなわち他性の否定、他者の吸収、おのれの外にある全存在の隠滅といったものだけではなくなる。(略)義務が中心にすえられるというのは、欲動的な否定の否定と見なされねばならない。あるいは、絶対的に人間的な世界を自己展開する意思の肯定性によって生まれた創造物、自然のなかの第二の自然と見なされねばならない。そこでは、重力でさえ意志に従うのだ。
 ヘーゲルは、道徳と人間主義的な義務の中心化は乗り越えられねばならぬと証明した。それらはいまだに暴力と抑圧された動物的攻撃性に囚われているからである。(略)その核心にはまだ、いまそこから逃げ出してきたはずの否定的なもののテロルが住み着いているし、特におのれを客体化するという点に関しては、テロル同様に空虚なものだ。だから、あえてそれを現実化しようともせず、かと言って一つの「事実」へと変えようともしない。そのテロルが逃げ出してしまわないかが恐ろしいからだ。
(略)
自己の周囲の存在を飲み込んでいくこの回転運動は、欲動が対立し合う深淵に巻き込まれて細分化され、意志の革命は現実原則と直面できる状態には至っていない。理性に関しては、カントははっきり次のことを感じ取っていた。すなわち、幸福、あるいはむしろ浄福は理性のためのものではない、定言命法はその手を逃れていく一つの世界と衝突する。つまり自由を敵視する自然と衝突する。(略)
自然的因果性は別の領域から生じている。それは自律を夢見るわたしの率直な本性の論理とは別の論理に従うのだ。わたしの意志の指針が、普遍と合致したものであることをどれだけ意思しても無駄だ。普遍はわたしの外にあるものであり、唯々諾々とわれわれに従うものなど何一つない、自己の底では本能が無制限に対立しあってうごめいている、そういったことをわたしは忘れることはできないだろう。
(略)
道徳は現実に作用する存在とは決して関わることはなく、「あるべき存在」ないし現実として認めるべきものの表象、幻のような自我理想と関わっているからである。
(略)
道徳が信頼しているのは、まったく実行されていない一つの義務である。実行されているとしたらそれは「霧の彼方」であろうか。
(略)
では、義務を待ちわび、およそ道徳的ではない本性とはなんとしても関わるまいと利己的に――ということは本能的に――決意して、世の終わりまで指一本動かさずにただおとなしく待っているこの静寂主義から抜け出すには、どうしたらいいのだろうか?
 純粋義務に満足している存在は夢想家である。本当の意味でおのれを知るには、少々血気盛んに、いまここにあるもの同士の争いのただなかに身を置いておらねばなるまい。そうすることで、何かを意思し希望するだれかの気持ちになれるのだ。良心とは(略)そんなありかたを意味している。義務がどんなに困難であろうと、おのれの意思の純粋さと、改革された――本能的自然とは違った――世界との来るべき融和を夢見て、いまこそこの新しい人物像を登場させるべき時である。ヘーゲルはそれを「道徳的良心」と呼んでいる。
(略)
 ひとたび行動を起こすや、われわれの実現したものはみなすぐに、本来目指していた作品からねじ曲げられてしまい、こうして最悪の事態がわれわれを待ち受けることになる。
(略)
われわれが望んだように達成されるものは何一つない。わたしは善を欲する、しかし、あまりにも無邪気にこの世界に執着するがゆえに、わたしは悪をなしてしまう……。見直さねばならないのは、良き意図の価値ではないのか?
(略)
 自分自身だけを欲し、現実に働きかける試みはすべて回避してしまう、そんな意志へと逃げ場を探すことで、美しき魂は気取って見せているのである。そんな試みは常に、意図そのものを駄目にしてしまう運命へと変質してしまうというのだ。
(略)
 おのれの自由を制約するこの現実の抵抗を見て、美しき魂は内面の純粋性という形式へ目を向ける。それはある意味で、ひたすら内的なだけの良心である。
(略)
美しき魂は神聖な感情に包まれる。(略)
ただその告白のなかだけで神的なものと絶対的自由が交わることができるかのようである。
(略)
美しい魂はかくも不吉で先の読めない冒険の運に任せることを諦めて欲望された目的の美しさに集中することでしか、自己確信を見いだせない。
(略)
天使のような純粋主義に甘んじるほかない。それゆえ「おのれの作り出した中身のない対象を埋めるのは、自分自身の無意味さという意識である」。その無意味さは最終的には不毛さのなかに囚われ、ただ悪に関わることを認めることによってのみ「自己を一つの事物とし、存在を担う力」をもってしてそこから抜け出すことができる。
 悪はこうしたかたちで、つまり行為は不吉な結果を招く、という意味で理解されうる。何を試みようが、それは予期せぬ、しかも惨憺たる結果の暗雲に覆われる。
(略)
その悪とはつまり、口を出さず栄光ある孤立に引きこもる悪であり、世の流れの外から安易な非難を投げつけるという悪である。「美しき魂」のたちの悪さは、その行動がとかく不確実な結果を招きがちな「道徳的良心」のそれとまったく同じなのである。そのたちの悪さは、矜恃の高さや傲慢から生まれる。
(略)
「純粋さのなかに身を持そうとしても無駄なことだ。純粋さとは行動しないものだから。それは、判断するという事実が現実に作用する行為であると考えたがっている偽善なのである」。いまこそ「偽善の仮面を剥ぐ」べき時なのだ。
 ヘーゲルの手になる道徳の系譜学によって、ひとは場面がひっくり返り激変するのを、舞台袖で仕組まれた犯罪計画の筋書きに隠された仮面に光をあてるどんでん返しを目の当たりにする。
(略)
 悪は弱者の群れが手にする視野の狭い双眼鏡で拡大してやっと見えるものでしかない。不能が「判断する意識」に変わり、自分で動くことができないがゆえに、尊敬なり義務なりといった壮麗な動機をひねりだす、そういうときこそ、視線の逆転について論じることもできようというものである。この歪曲は、世界のなかでおのれを完成させようと求めている《精神》の尊廠には値しない。《歴史》のうえにあまりに非歴史的な視線を投げかけるが故に、ただ無力さだけが善だとされてしまうのだ。かくも邪悪な、しかし誰にでもありがちな判決によって、できるかぎり道徳的であろう、可能な限り無垢であろうと欲する意識は結果的には最大の悪の場として現れることになってしまう。そして意識が批判していた悪の方が創造行為と見なされねばならない。それゆえ犯罪は常に、人が批判するところには存在しないのだ。ヘーゲルはこの方向転換を弁証法と呼ぶ。それは、奴隷や下僕の道徳の背後に隠れたもっとも崇高な内奥に至るまで、仮面を剥ぎとらんとする批判的企てなのである。

残り少しだけど次回につづく。