フランス革命と身体―性差・階級・政治文化

初めと終わりだけ読んだ。

第2章 エリアスとシュミット

ノルベルト・エリアスによって問いかけられないままに残された、重大な問題がある。近代人が自己管理を学ぶのと同じ方法によって、自己破壊の種が蒔かれるという問題である。ホモ・クラウスス[「孤立した人間」]の面影と、それに基づく身体の政治文化のあり方を、本書はフランス革命にたち返って執拗に追求していきたい。
(略)
1930年代には、国家をとり巻く状況が国家社会主義を支持する政治理論家にとって好都合になり、それがエリアスに、ホモ・クラウススの問題状況を展開させなかった大きな原因となったようだ。
 たとえば、カール・シュミットのような政治理論家(略)
エリアスの議論の矛先は、ひそかにシュミットとその同類に向けられているのではないか、と思わせるものさえある。してみると、エリアスが「リベラルな価値観」に拘泥したのも当然のことと言える。ならばこそ、ホモ・クラウススにたいする彼の不明瞭な態度も説明できよう。エリアスが置かれていた抑圧的状況とは無縁のリベラルな著述家は、彼のホモ・クラウススを見て、それこそファシズム扇動家の政治作法を受けいれた一般人の態度であると断じたからである。ファシスト国家ではその「指導者」だけが、個人から奪いとった活力をこれ見よがしにひけらかす、というのである。
 シュミットによる国家理論の全体は、かならずしも国家社会主義の実践に結びつけられるべきものではない。リベラルな多元的解釈とは対照的に、彼は国家を、内外の敵にたいして鮮明に自己表明し、自己防衛をする機構と捉えている。したがって、政治は外交に他ならない。国内では、国家は革命的抵抗を抑えこむ以外の権能をもたない。シュミットは、個人の自己規制が継続的に強化されたという考え方とは逆の方向に議論を展開する。すなわち、彼にとっての生彩ある国家活動こそが、個人の性癖に根ざした混沌を継続的に封じこめるのだ。彼の理論では、個人はホモ・クラウススとして中立化されるべくもない。強力な主権によって束ねられなければ、それは自律を求めて結局は自滅し、解放によって生じた混乱のなかで崩壊する。みずからが担うべき主権の執行者であることに思い及ばないまま、個人の総体は欲望と妄想の虜となり、国家によってしか乗りきれない危険を胚胎させる。個人の悪しき側面を壊滅させることはできず、あるいは個人の孤立性を解消させることなどできない、とシュミットは何度となく指摘する。エリアスがホモ・クラウススのこうした「暗黒史」に踏みこめなかったのは、シュミットの立論と同一視されることを嫌った面もあるだろう。
 シュミットとエリアスは、1920年代の政治理論に応じておのおのの議論を展開させた。その頃までには、ヘーゲル哲学が失墜し、マックス・ウェーバー社会学が理性と宗教に裏うちされた権威を国家から剥ぎとってしまったために、国家観に大きな穴があいたままになっていた。喪失感をいや増すかのように、1919年に中部ヨーロッパの伝統的王政が崩壊するのを、人びとは目の当たりにした。さりとて、政党民主主義を媒介した官僚主導の国家による政治運営に身を委ねるには遅すぎた。国家の喪失をめぐる議論の対立によって、マルクス主義者のなかで、修正主義者とローザ・ルクセンブルクの支持者が分立した。エリアスが社会と国家と個人の関係を、永遠に続く調整のシステム、彼の言葉で言う「舞踊の大きな輪」として描きだそうとしたのも、こうした喪失感を埋めるためだった。国家は個人の身体的な特性を管理し、さらに感情と衝動とを大枠において管理することにより、個人の行動を都合よく変化させることもできる。シュミットにとって、国家はそうした管理を課すために存在している。エリアスの考えでは、無秩序に駆られがちの個人の衝動は、国家形成とのからみで抑えこまれる。シュミットは、個人とは本質に混沌を内包し、国家による救済を待つだけの存在である、とする。彼はエリアスと同じ文脈から出た考えを、悲観的に述べただけとも言える。
 シュミットと張りあうのを避けるため、エリアスはヨーロッパにおける国家形成の古典期、すなわちフランス革命以降まで、彼独自の歴史分析を及ぼさなかった。たとえ分析を革命以降に試みたとしても、彼の論拠を強めるどころではない。近現代においては、ファシスト理論とその実践、すなわち国家形成と暴力支配というシュミット的連想が、国家形成を暴力抑止に結びつけるエリアスの考えと衝突せざるをえない。もしエリアスが革命期を越えて分折を進めようとしていたら、暴力抑止などといった発想を維持することは困難だっただろう。身体史と暴力の歴史と国家形成の歴史は、すでにファシズムの時代以前から、分かちがたく結びついていた。ならばこそ、エリアスの理論は彼のリベラルな政治姿勢とは裏腹に、曖昧なままにされているのだ。結局のところ、シュミットの政治理論はエリアスのそれと比べて、彼らの生きた時代によりよく対応したものだった。ファシズム期の本質をなす身体に加えられる暴力は、エリアスの歴史からとり除かれた。それゆえに、彼の理論は長期間にわたる身体行動に生じた、疑いようもない大きな変化を説明できた。しかし、その仕事のかなりの部分は、カール・シュミットによって書かれた身体の暗黒の裏面史に委ねられた。自由主義的かつ楽観的で、国家と人間の行動について進歩主義的な見解の持ち主だったからこそ、著書の刊行時の現実と真正面からとりくむことが、エリアスにはできなかった。

第9章

 フランス革命は歴史的な存在である王政を破壊し、一般意志という言葉で表現された「主権者」としての民衆の権力を、王権に置き換えた。こうして個人が、かつては国王の身体だけに保留された主権を、めいめいの身体に分かちもつこととなった。ところで、革命は18世紀に生みだされた個人の自律を理想とするイデオロギーをひき継いだのだが、英雄的な自殺という、いかにも革命期にふさわしい政治行為として、個人の自律の価値をあらためて強調した。あらたな公共体は空想上の存在でしかない。空想としてだけなら、個人と一般意志が共存できる。なぜなら、公共体を実現しないでは一般意志は成立しえないからであり、ルソーの社会契約は空約束となるからである。しかし1789年以前から、政治体は身体イメージから切り離されるどころではなく、政治と身体の結びつきこそが問題の核心にあり、政治の再編成を身体に賭けることが緊急の課題となっていた。結局、革命は安定した国家を建設するどころか、緊張にみちた公共の領域を生みだしただけであった。そこではさまざまな「試み」がなされたものの、たがいにすくみあって、そのため中間階級のアイデンティティは崩壊に瀕し、政治表現の多様性にも枠がはめられることになった。
(略)
 1792年までに、革命は王政そのものと、それにともなう観念、つまり神聖な身体をつうじて政治権力が効力を発するという観念を根こそぎにした。
(略)
 革命によって構築された公共体のなしたことと言えば、ハイデッガー的な意味での「存在」の世界、つまり君主とキリストの身体に仮託された〈永遠の世界〉から個人を駆りだして、〈時間の世界〉に追いやった。そこでは、次々と公共的身体が創りかえられなければならない。現代の世界がまさにその例である。この意味にてらして、フランス革命は宗教にたいする革命でなく国家にたいする革命であったとするトクヴィルの評価は誤っている。宗教と国家それぞれにたいする革命は分離できない。革命によって創造された公共イメージと公共領域は、神聖な身体と一体にされた公共世界を転換させた。そういう意味づけなしでは、新しい公共世界を理解できないからである。個人に託されることとなった英雄的身体が、たがいに功績を競って闘争する。その情景のなかに、公共世界が具現される。
(略)
 中間階級の革命派に属する人びとが、自身の死にざまをいかに律するかについて懸命に闘った理由も、以上のことからわかるのではないか。彼らのうちのかなりの数が公開処刑を避けるために自殺し、反対に国家権力は、死体あるいは死にかけている肉体をギロチンにかけることによって、1794年のロベスピエールとその徒党ルブランの処刑がその例だが、最終的な死の裁定は国家のがわに帰属すると言わんばかりの喧嘩腰でのぞむ。この闘争にそれなりの意義があったということは、国家と被告双方ともに、死が存在をぎりぎりの最後にまでみちびくと信じていたならばこそである。処刑のあり方を管理すれば、死の意味を管理することができる。新しい死の意味にてらして、監獄内での自殺も公開のギロチン刑も、前代の公開処刑で大きな役割を果たしてきた宗教の仕掛けた罠にかからないように執行された。死はここに、文字どおり生の最後を意味することになった。こうした認識によってフランス革命公開処刑は、それに先行する「抑圧的な」恐怖体制と違った様相をみせるのだ。たとえば異端審問における被告の死は、死を超えて精神の真理に解き放たれた証しとされた。他方で革命は、かたくなな反抗ぶりを示す行為と思想を罰した。死はたんに、反抗心の持ち主の身体的な存在を終わらせるものであって、それ以外の何物でもない。
(略)
革命は普遍的な解放を訴えたが、実現された国家では政治判断の場から国民の大多数が排除された。自由・平等・友愛のお題目が19世紀をつうじて声高に叫ばれたものの、お題目を現実の政治文化に適用したさいには理想からかけ離れたものになった。革命はまた身体を闘争の場、政治的創造の場と化した。闘争・創造の場で、フランスの新しい政治指導層が創りだした政治文化は、身体から多くの意味を奪い去る傾向をも示した。さらには、抵抗や革新の模範としての身体でなく、威厳にみちた英雄的死の模範としての身体のみに、政治的権威づけをほどこしたのだ。

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