政治哲学的考察―リベラルとソーシャルの間

政治哲学的考察――リベラルとソーシャルの間

政治哲学的考察――リベラルとソーシャルの間

マルクスからトクヴィル

トクヴィルは19世紀末において、「個人主義」という言葉を最初に使った思想家の一人である。彼は行き過ぎた自己利益の追求としてのエゴイズムと区別して、むしろ他者と切り離された個人が、自己とその周辺の狭い世界に閉じ込められてしまう現象を指してこの言葉を使った。このような意味での個人化が進み、流動化の進む社会において、社会秩序と合意形成はいかにして可能か。トクヴィルの問題関心は、冷戦が終わり、グローバル化が進みつつあった世界において、再び独特な現代性を獲得したのである。(略)
 この時期、「マルクスからトクヴィルヘ」という言葉がしばしば語られた。ドイツの革命家とフランスの旧貴族、およそ交わることのないように思われる二人であるが、間違いなく同じ時代を生きた人間であった。(略)
プロレタリアートの困窮化と階級闘争を強調したマルクスに対し、人類の不可逆な平等化を予言したトクヴィルの違いは大きかった。結果として、マルクス主義の影響力が大きかった時代に、トクヴィルは人々の間の不平等を直視しないブルジョワ思想家と見なされることになる。逆に社会主義体制の崩壊後には、自由民主主義社会の両義性を探ったトクヴィルの再評価が進んだ。
 しかしながら、マルクス的視座とトクヴィル的視座は本当に相容れないものなのか。

 このように、現代リベラリズムをめぐる諸論争においてトクヴィルに割り振られた役回りは、自発的結社や中間団体を通じて政治参加の意義を強調することで、個人の私的な利益のみを強調するようなタイプのリベラリズムを批判すると同時に、かといってリベラリズムを否定するわけではない思想家、むしろリベラリズムのさらなる発展に寄与しうる思想家ということになるであろう。
 もちろん、リベラリズムと共和主義の間には、少なからぬ緊張関係がある。サンデルのように両者を競い合う相容れない二つの伝統として理解するのはいささか極端であるにせよ、両者の違いを無視するわけにはいかない。とはいえ、大きくいえば、リベラリズムと共和主義とは再統合の過程にあり、少なくとも絶対的な矛盾関係にはないという理解が、今日一般的になりつつあるように思われる。リベラリズムの代表的思想家の一人であると同時に、マキァヴェリらとともに共和主義の系譜上に位置づけることが可能なトクヴィルは、まさに二つの潮流の和解と再統合のシンボルとなりうる思想家である。

トクヴィルの徳の概念

たしかに彼は、しばしば徳について言及する。しかしながら、その場合、彼の念頭にある徳は、私的な利益を公的な目的のために犠牲にすることではなかった。彼はデモクラシーの社会において、人々の関心が物質的で卑近な利益にのみ限定される傾向に危惧を隠さないが、それに対して彼が提唱するのは、私的利益と真っ向から対立するような徳の涵養ではなかった。むしろ彼は「正しく理解された利益」、すなわち、より長期的・全体的な視点から捉えた自己利益を、各個人が自己反省によって見出すことを重視した。彼が市民に陪審をはじめとする公務への参加を期待するのも、このような自己反省の契機としてであった。トクヴィルは、そのような「正しく理解された利益」をむしろ徳と隣接したものとしてとらえ、「徳は美しいとはいわれず、むしろ有用であると主張される」アメリカの現状を好意的に評価したのである。

自由の精神と宗教の精神

 トクヴィルはまず、個人主義を利己主義から区別する。どこが違うかといえば、彼のいう個人主義とは、強すぎる自己主張というより、他者への関心の喪失、他者との紐帯の喪失、つまり他人と切れてしまって、自分の世界に閉じ込められてしまうことを指している。
 このような関心の背景には、平等化の進行社会において、他者とのつながりが切れ、自分の世界に閉じこもる、砂粒のような個人が現れる一方、社会的な権力、あるいは中央集権化した行政権力が、強大な力をもつようになるのではないかという懸念があった。
(略)
 宗教の政治的・社会的意味を重視していたトクヴィルにとって、アメリカでの観察は希望であった。彼のアメリカにおける宗教観察のポイントは、アメリカでは政教分離が非常に徹底されているが、その上でなお、宗教の精神が自由の精神と密接に結びついているという点にあった。個人主義の進む民主的社会において、宗教の精神は、バラバラになりがちな個人と個人をつなぎ、さらに個人の関心を自己の狭い世界からより超越的な世界に結びつける。そのような意味において、アメリカにおいて、宗教が極めて重要な社会的機能を果たしていると彼は評価した。
 これと比べるならば、フランスにおいては、やはり反カトリック、反宗教的な傾向が非常に強い。トクヴィルがフランスの不幸と考えたこの傾向は、リベラル勢力においてとくに顕著であり
(略)
トクヴィルが、ある意味でわかりやすいリベラルと違うのは、社会に対する警戒的なまなざしである。通常、リベラリストにとって、社会とは自由な個人から成る領域であり、国家による干渉がなければないほど、社会は自由になるとされる。(略)
これに対しトクヴィルは、国家権力が社会に干渉しなければ、自由な社会が実現するとは限らないと考えた。(略)
 リベラリズムは通常、社会の自律的な運動を尊重するわけだが、トクヴィルにとっての関心はむしろ、独自のダイナミズムをもった社会が、個人や集団にとってもはやコントロール不能になり、個人や集団を抑圧する危険性へと向けられた。

ネオ・トクヴィリアン

 ネオ・トクヴィリアンの議論で、もう一つおもしろいのが、「分離の組織化」である。(略)
難しいのは、ただ分離すれば済むかといえば、そうではないという点である。単に個人の私的領域と、政治的な領域を分離するだけならば、先ほど指摘したように、バラバラになった個人が政治的な力を生み出すことができず、結局権力の前に無力になってしまう。バラバラに切り離すだけでは不十分であって、様々な領域を切り離した後、再び組織化することが重要なのである。この「分離の組織化」こそ、この時期のフランス・リベラリズムの一つの共通した問題意識であり、それを現代の「ネオ・トクヴィリアン」たる研究者たちが再評価しているという構図が見て取れる。

フランス・リベラリズムの独自性

 第一に、フランス・リベラリズムの大きな特徴は、その悲観的な基調にある。これはトクヴィルにとくにあてはまる特徴だが(略)
[トクヴィルは]デモクラシーは歴史の必然である、平等化するのは必然であると説いた。だがその一方で、この平等社会が、はたして完全に幸福な結果をもたらすかはわからないと言い続けたのもトクヴィルである。自由と平等が両立する、非常に望ましいデモクラシーが実現するかもしれないが、すべての人が等しく隷属する、逆の平等社会になるかもしれない。この種の悲観主義、あるいは両義性、さらには懐疑主我が、この時期のフランス・リベラリズムの特徴としてあげられる。
(略)
 ちなみに、トクヴィルは『アメリカのデモクラシー』を執筆している最中に、つねに傍らに置いて参照した本が三つあるといっている。ルソー、モンテスキュー、それからパスカルである。コンスタンにおいても、ルソーは、けっして単純な否定の対象ではなかった。
 フランス・リベラリズムの思想家たちは、いずれもルソーを高く評価している。(略)
ジャコバン主義が事後的にルソーを利用したという側面はあるかもしれない。つまり王の首をはね、政治権力を掌握したジャコバンにとって、すがるべき権威はルソーしかなかった。それゆえ、ルソーの一般意志の理論をある意味で曲解してでも、当時の立法権力の独裁を正当化しようとしたのである。(略)このような側面もあり、ジャコバンによって利用されたルソーに対して、モンテスキューをもう一回復活させる動きが生じてくる。
 実際、具体的にフランス革命後の政治的議論を見るならば、ジャコバンによって利用されたルソーのように、中央集権志向一色かというと、そんなことはない。この時期、むしろ活発に議論されたのは、いかに権力分立の仕組みを取り入れるか、単一の立法権力をいかに抑制するかという、複合的な権力メカニズムの構想案であった。
(略)
ある意味でいえば、フランス・リベラリズムは、ルソーのいう人民主権の理念と、モンテスキューの複雑な政治機構論とを統合しようとするものであった。
(略)
にもかかわらず、このような構想は同時代的には実現せず、フランスといえば立法権中心の、きわめて一元的で中央集権的なデモクラシーの代表例と見なされるようになった。
 逆にいえば(略)20世紀半ば以降になって、ようやく実現してきたと評価することもできる。フランス革命の経験から生まれたフランス・リベラリズムの問題意識は、ある意味でかなりの時間をかけて実を結んだのである。フランス・リベラリズムの研究が復活した1980年代に、フランスにおける地方分権化が進んだのも偶然ではないだろう。
(略)
マルクス主義の後退するなかにあって、リベラリズムの万能論とでも呼ぶべき状況が生じている。しかしながら、リベラリズムはその内部に非常に微妙なものを内包しており、民主主義との間にも緊張関係がある。現在、これらの相克や矛盾を、徹底的に考えるべき時期に達しているのではなかろうか。このことをめぐる徹底的な考察抜きでは、やがてリベラリズムは自己崩壊を起こすのではなかろうか。このような問題意識こそ、トクヴィルとネオ・トクヴィリアンをつなぐものであり、フランス・リベラリズムの過去と現在をつなぐものにほかならない。

第五章 代表制の政治思想史

近代議会制の内包する両義性

シュミットの考えるところでは、民主主義は同質性に、逆にいえば異質性の排除にこそ、その本質がある。この場合、議会制と代表制はむしろ対立することになるとシュミットは主張する。
 このようなシュミットの極端な対立図式の妥当性はともかくとしても、議会制と代表制は、歴史的にそれぞれ独自の起源を有し、それぞれ独自の展開をみせてきたことは明らかである。
 議会制の起源は、すでに述べたように中世の身分制議会(等族議会)にある。この身分制議会において、参加者である封建的諸身分は国政への参加を目指したわけではない。すなわち議会において、主権者としての自己の意志を主張したわけではない。というのも身分制議会は、君主が諸身分から課税の承認をうるために開いたものだからである。諸身分にとっての関心はむしろ、自らの特権に基づく自由を守ることであった。(略)
 これに対し代表の起源は、君主の身体における代表的具現の機能に見出される。(略)
代表の機能とは、君主の一身においてより高次の不可視の権威を体現し、そのことによって政治的一体性を示すことなのである。
 もちろん身分制議会において諸身分が自らの特権を主張したことも、代表の機能の一種といえる。その意味でいえば、前近代において代表の機能は、君主の身体において体現される政治的一体性の表現と、身分制議会における諸身分の利害の表現とに分かれていたのである。
 このような歴史的背景を考えると、近代における議会の果たした(あるいは果たすことを期待された)役割の微妙さが明らかになるであろう。
 近代における議会制は(略)君主からその機能を剥奪し、自らを国権の最高機関に位置づけることに成功した。そのために、一方で身分制議会の機能を引き継いで、国内の諸身分や諸地域の利害を代表しながらも、他方で自らが「全体としての利害を同じくする一つの国民の合議体」であると主張して、バークのブリストル演説にみられるように、選挙区の個別的委任や指示を拒否しなければならなくなったのである。ここに、近代議会制の内包する両義性を見出すことができよう。近代の議会制は、多元的諸利害を代表すると同時に、一つの国民という観念を代表するという、非常に困難な課題を実現しようとしたのである。

代議士の有権者からの独立性の確保

 ここで興味深いのは、バークがジョージ三世の議会干渉を王の専制として批判する際に(略)
最大の論拠とされるのは、議会が「臣民と政府の中間的存在」であるという理解である。(略)
 議会が「人民の声」を体現するものであるとのレトリック自体は珍しいものではないとしても、バークの場合さらに踏み込んで、「下院の美質と精神そして本質をなすものは、実はそれが国民感情の直接的な鏡であるという点にこそ存する」とまで言い切る。(略)
 かつてイングランドの地方地主たちが、自らの特権を盾に王権批判をなしたのと違い、バークは「国民感情」・「人民」・「民衆」の存在を背景に、議会の優位性を説いた。その前提にあるのは、イングランドスコットランドアイルランド等を越えた大英帝国とその国民という観念であった。この観念のリアリティなくして、彼の王権批判は成り立たなかったであろう。
(略)
 このように、バークは、伝統的な英国国制の危機にあたって、きわめて伝統的な混合政体論的レトリックを用いつつも、その内実において大きな方向転換をはかり、むしろ議会を一体としての英国国民の観念によって基礎づけようとしたのである。彼はそのために、単に漠然と国民を代表するのではなく、政党に代表される具体的な制度化を目指した。
(略)
これもよく知られた、彼の代議士に対する選挙区からの命令的委任の否定であった。
 「代表が自己の判断力と良心のもっとも明白な確信に反してまでも必ず盲目的盲従的に追従し投票し行動し支持しなければならぬというような権威的指図、委任の行使なるものは、少なくともこの国の法律の上では前代未聞のものであり、我が国も憲法の秩序と精神全体の完全な取り違えから生ずる誤解にほかならない」。ここにおいて見られるのは、地域的な特殊利益と国家的な一般利益の峻別と同時に、代議士の有権者からの独立性の確保という主張にほかならない。
(略)
 しばしば指摘されるアメリカ独立革命に対する好意的反応と、フランス革命に対する激しい批判の違いに関して、これをバークの「転向」と見るべきかについては議論のあるところであるが、ここまでの検討からも明らかなように、両者はバークにとってまったく異質な問題であった。

ルソーはなぜ代表を嫌ったか

 ルソーのイギリス代表制批判についてはすでに触れたが、彼の代表への反発にはきわめて激しいものがある。彼によれば、「代表の観念は近世のものである。すなわち、人類が堕落し、人間の名が恥辱のうちにあった、封建制という、不当でばかげた統治に由来するものである。(略)
 なぜ代表はそれほどに唾棄されるべきなのだろう。それは、「市民が戦闘に行かねばならないとき、軍隊に金を払って自分は家に残り、会議に行かなければならないとき、代議士を指名して、やはり家に残る。怠惰と金銭のために、彼らはついに祖国を隷属させるために軍隊をもち、祖国を売り渡すために、代表者をもつ」からである。彼にとって代表は市民の直接参加を空洞化させ、市民の徳を衰退させるものにほかならない。さらに原理的にいえば、一般意志はそもそも代表不可能である。代表者たちは、代表となった瞬間それ自体特殊意志の担い手になってしまう。「主権が譲渡できないのと同じ理由で、主権は代表されえない。主権は本質的に一般意志にこそ存するが、一般意志は代表されない。一般意志はそれ自体であるか、さもなければそれ以外であり、けっして中間はない。したがって、人民の代議士は代表ではないし、代表者たりえない」
 このように見れば、ルソーの代表制批判にはまったく妥協の余地はなく、ルソーの議論とバークの議論との間には、架橋しがたい大きな溝が広がっていることになる。[が](略)
 まず、ルソーは主権の所在と政府の構成を区別して考えている。すなわち一般意志の支配する人民主権についてはまったく妥協の余地がないのに対し、一般意志を個別的対象に適用する政府については、王政・貴族政・民主政を含め、その地域的条件と人民の資質に応じてさまざまな可能性があるとしているのである。とくに選挙に基づく貴族政については、その実践的有効性を評価しているように思われる。(略)
彼は単純に古代都市国家直接民主主義を理想としているとは言い切れないのである。
 ルソーがあくまで否定するのは、主権が代表されることである。彼が主権者とするのは、一般意志によって結合され、「共通の自我」をもつにいたった人民である。しかしながら、主権者としての人民は、代表によって背後においやられる。「人民が代表をもったとき、もはや自由ではなくなる。もはや人民は存在しない」。
 とはいえ、このような人民が常時存在し、自ら政府を動かすことが難しいことは、ルソーも認めている。そこで彼が主張するのは定期的に開催される人民集会である。
(略)
バークの議会制擁護の背景にあったのも、人民の一体性の観念であった。この点においてルソーとバークの間には共通性がある。
(略)
 ただしルソーの関心が、政府が主権者の意志から逸脱していくのをいかに防ぐかに向かい、人民集会の定期開催によってつねに主権者である人民の存在を可視化することに集中したのに対し、バークの場合は、政党を伴う議会によって、いかに国民感情を現実の政策に具体化するかに精力を注いだのである。バークにとって、一般意志を体現する人民が生の形で出現することは、まさしく例外的で異常な事態にほかならなかった。
 バークの目に映ったフランス国民議会は、ルソーのいう人民集会そのものであったろう。(略)
バークにとっての代表制は、英国国制のうちに有機的に組み込まれたものでなければならなかったのである。
 バークとルソーは、厳しい緊張をはらみつつ、両者とも近代的議会制のスタートを基礎づける理論的土台を提供したといえる。

次回に続く。

 

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