トクヴィルで考える

第一、二章をチラ見。

トクヴィルで考える

トクヴィルで考える

デモクラシーの軍隊

トクヴィルが並の自由主義者と違うのは、民主社会の軍隊そのものを分析し、同じデモクラシーの平等原理が市民社会と正反対の効果をそこに生み出すと主張する点にあります。(略)
デモクラシーの軍隊は万人に開かれ(略)戦争こそは上昇のための最大の機会ということになります。(略)一般市民が平和と安定第一であるのに対して、デモクラシーの軍隊ほど戦争を望むものはない、とトクヴィルは言うのです(略)
トクヴィル自身の生きた時代、ウィーン体制の国際秩序の下、フランスがヨーロッパで再度の戦争を起こす可能性はありませんでした。反面、ナポレオンの栄光の記憶は人々の脳裏になお鮮やかで、従軍経験のある将兵も大量に生き残っていました。七月王政ブルジョワ社会が金銭崇拝の俗物性を露にし、政府の外交が英国に対して弱腰であればあるほど、ナポレオンの記憶と結びついたナショナリズム感情が民衆の心理に伏流し、民衆的ボナパルティズムの気分が醸成される。これがトクヴィルにとっての問題でした。

アルジェリア

トクヴィルが戦争と軍隊を論じたのはまさにフランスがアルジェリア進出を本格的な征服戦争に拡大していく時期のことです。トクヴィル自身、アルジェリア植民政策にやがて本格的に関わることになるのですが、一八三〇年の最初の遠征以来、「第一次アルジェリア戦争」の経緯は決して考え抜かれた計画に基づくものではなく、偶然的要素に左右され、現地の軍隊の独自行動が問題を拡大していった典型的な事例です。にもかかわらず、十年以上の歳月を要し、フランスの全兵力の三分の一を投入したアルジェリア征服は植民地帝国フランスの形成に決定的な意味をもっています。(略)
戦争の機会を奪われた軍事大国がその兵力をどこに向けるかという観点から、彼自身の軍隊論との整合性を問うことも興味深い問題ではないでしょうか。(略)彼自身が考察の外においたアメリカ合衆国が今日世界に比類なき軍事大国に成長した事実が否応なくわれわれの限に入ります。

官僚制による崩壊

封建貴族の自由と特権は領民の保護と統治の実権に裏づけられてはじめて正当化されるものであったが(略)国王直属の行政組織は次第に統治の権限を貴族、領主から奪い、その代償としてこれに虚飾の名誉と免税特権を与えていった。(略)政治的機能をなにひとつ果たさず、ただ特権をのみ享受する余計者として民衆の怨嵯の的となっていく。ティエリが自由を求める第三身分の闘争の発端としてロマンティックに描いた自治都市にしても、18世紀には大半の公職が売官制によって売買あるいは世襲され、名土層による寡頭制の進行とともに中央行政の後見下におかれ、都市の自由は内実を失っていた。(略)封建的諸制度はたしかに特権と不平等の体系ではあったが、それぞれの身分、地域共同体、同業組合が一定の自治を享受し、相互の有機的なつながりが生きていた。国王直属の集権的官僚制は被治者を受動的存在である限り平等に扱うがゆえに、文明の趨勢としての境遇の平等に親和的であり、だからこそそれは分権的な封建制度を次第に侵食していった。(略)
[官僚制は]公式に自らを正統化する論理をもたず、より古い権威と高い出自に対してひそかな劣等意識をいだいていた。その結果、自己の権限にきわめて敏感で、行政実務に少しでも介入しようとするものは個人であれ、団体であれ激しくこれを排除したが、他方、画一的で詳細を極める規則の山にもかかわらず、特権を有する個人や団体が頑強に抵抗する場合には、しばしば理由のない譲歩を繰り返し、朝令暮改を常とした。アンシャン・レジームの行政の精神は「威格な規則、手ぬるい運用」と要約される。(略)
[トクヴィルが描くのは]政治的正統化を欠いた官僚制による事実上の統合が、国民の自発性と連帯を奪い、表見的な安定の陰に社会それ自体の融解の危機を進行させる事態である。
(略)
自由の制度は国民の権利を守るために必要なだけでなく、体制が自らの危機を察知し、これに有効に対処するためにこそ不可欠である。あらゆる競争者を排して、恣意的な専制支配を貫徹するために、政治的自由の一切を奪ってきた王権が、アンシャン・レジーム最末期にいたってこの失策に気づき、地方議会を創設し全身分会議を召集しても、一世紀以上にわたって自由の行使の機会を奪われ、権力への依存に慣れた国民はもはやこれらの制度を使いこなす能力を失っていた。体制の建て直しはもはや不可能であり、革命による決済だけが残された唯一の道であった。