トクヴィルとネットイナゴ

トクヴィル 平等と不平等の理論家 (講談社選書メチエ)

トクヴィル 平等と不平等の理論家 (講談社選書メチエ)

他者との結びつきを欠いた個人は、むしろそのように非人格化した権力の媒介に頼ってしか、他者へ働きかけることができなくなる

トクヴィルがいう「個人主義」の結果、諸個人は一方において、他者から切り離され、自らのうちに閉じこもろうとする傾向を持つ。他方、そのような個人は、特定の個人による個別的な支配を嫌う一方で、「唯一、単純、そしてすべての人に同一な社会的権カヘの好みとその観念」を持つようになる。すなわち、自分が、他のすべての個人と同等な存在であることにこだわる「デモクラシー」社会の個人は、自分と同じようなある特定の個人が自分に対して支配的権力を行使することにはきわめて敏感に反応し、これを拒絶しようとする。しかしながら、反面で、そのような特定の人間による個別的な支配と切り離された、非人格化した集団的権力による支配に対してはむしろ、容易にこれに隷従するというのが、トクヴィルの下した<民主的人間>への診断であった。さらにいえば、自分の身の周りの他者との結びつきを欠いた個人は、むしろそのように非人格化した権力の媒介に頼ってしか、他者へ働きかけることができなくなる。

新たな権力は諸個人の後見者であるかのごとく振る舞い、人民の名において、自らの権力を拡大していく。

トクヴィルは、『旧体制と革命』において、フランス革命によって主権が王から人民に移ったとしても、政府の権力はけっして弱体化せず、むしろさらに拡大したと主張した。革命は古い社会的紐帯を切り離すことになったが、その結果、ばらばらになった諸個人は、ますます集権化の進んだ政府の単一の権力に依存するようになったと言うのである。そのような権力による支配は、むしろ「絶対的で、微細にわたり、規則的で、用意周到でかつ柔和」なものになるだろうというのが、トクヴィルの見立てである。「専制は元来臆病なものであるから、人間の孤立の中にそれ自身の永続のもっともたしかな保証を見いだし、通常人間を孤立させることにあらゆる努力を傾けている」。であるにもかかわらず、新たな権力はあたかも諸個人の後見者であるかのごとく振る舞い、人民にとって何が最善であるかを知っていると自称し、人民の名において、自らの権力を拡大していく。トクヴィルは、このような「デモクラシー」の時代に固有な権力のあり方を「後見的権力」と呼んでいる。

自立して思考しようとすればするほどむしろ他者の意見に従属していく「デモクラシー」の謎

 トクヴィルが示した「デモクラシー」の謎とは、そこに暮らす個人が自立して思考しようとすればするほどむしろ他者の意見に従属することになり、自分の頭で考えようとすればするほどむしろ自分の思考の無根拠性にぶち当たってしまうということであった。また、平等になった諸個人から成る社会が、平等に自由になるよりは、平等に隷属する方に傾きがちであるということでもあった。トクヴィルは、「アリストクラシー」社会における不平等と結びつけられた自由ではなく、「デモクラシー」社会の平等と結びつけられた自由こそを「正しい」と考えたが、まさにこの「正しい」はずの、平等な自由概念が向き合わざるをえない内的な脆弱性こそが、トクヴィルの考えた「デモクラシー」の最大の問題点であった。トクヴィルは、無根拠性やそれに由来する不確実性・不確定性に引きつけて「デモクラシー」を理解したのであり、この点こそ、今日「デモクラシー」を考える人間に対するトクヴィルの最大の示唆となっている。