ブリテン問題とヨーロッパ連邦―フレッチャーと初期啓蒙

フレッチャーの危機意識

フレッチャーは、「世界君主制」も「常備軍の形成」もともに「専制と世界の奴隷化」をもたらすものとして深い危機意識をもって眺めていた。このような危機意識こそ1697年から始まるイングランドでの「常備軍論争」のなかで処女作『民兵論』を公刊させたものであった。彼はその論考冒頭で次のように言う。
 人類の大部分の人々は、統治という口実のもとで、侮辱と冷酷さをもってあつかわれ苦しめられているが、その侮辱と冷酷さほど、人間社会の出来事において、説明できないものはおそらくない。というのは、自分たちの野心、貪欲そして奢侈を満足させるうえで、邪悪な統治がもっとも役立つものとして、自分たちに利益をもたらすものだと誤って納得している人々のなかには、最大限の術策と暴力をもって、そういう統治を確立することに着手するものがいるからである。そしてこういう人々によって、全世界は足下に踏みつけられ、そして専制にさらされてきたが、それはどんな手段と方法によって世界が奴隷化されるかということについて理解をかいてきたためである。
 専制と世界の奴隷化。これこそフレッチャーが17世紀後半において、ヨーロッパの情勢のなかにみたものであった。(略)
国内における専制政治の樹立と世界の奴隷化は、かってはスペインが、そして先の戦争においてはフランスがめざしたものであった。スペインの世界支配の試みは、専制政治によってもたらされた本国の人口減少とインダストリの衰退によって失敗した。フランス国王ルイ14世の試みは、イギリス、オランダを中心とするアウグスブルク同盟によってひとまず阻止され、ヨーロッパの勢力均衡はかろうじて維持された。しかし、ルイ14世の野望を阻止するうえで大きな役割をはたしたウィリアムが、戦後ルイの野望にそなえるためとはいえ、常備軍形成へと動き出したのである。(略)
 このようなフレッチャーの危機意識は、彼ひとりのものではなかった。(略)名誉革命以降のブリテンの歴史は、後世からみれば、自由な国制が実現していく過程とみられるかもしれない。しかし、その時代に生きた人々のなかには、「危機の時代」ととらえた人々が存在したのである。
(略)
ウィリアムの対フランス戦争において、スコットランドは兵員の供給源とされたばかりか、スコットランドの経済的危機を克服するためにくわだてられた「ダリエン計画」もイングランドの貿易利害によって挫折を余儀なくされた。

合邦問題「外国人法」

[アトウッドは]スコットランド議会内の反対派を「フランスの手先」とののしる。(略)
こうして1705年2月5日に「外国人法」がイングランド議会を通過する。その法は、同年のクリスマスまでに、スコットランドが、合邦交渉のための委員を任命するか、あるいはハノーヴァー家の王位継承をうけいれなければ、イングランドにおけるスコットランド人は外国人として扱われ、スコットランドの主要な輸出品である家畜、リネン、石炭のイングランドおよびアイルランドヘの輸入が禁止されるというものであった。(略)スコットランド人はイングランドにある土地財産を相続できないことを意味する。
(略)
 外国人法は、スコットランドに激しい反イングランド感情をうみだした。
(略)
[翌年4月合邦交渉開始]
スコットランド側は連合諸州やスイスのような連邦的合邦を考えていたが、イングランド側が包括的合邦を主張すると、その主張をひきさげ(略)[1706年]「グレート・ブリテン」として両王国は統合[基本合意]
(略)
フレッチャーが見たものは、買収によって合邦反対派が少数派へと転落していく事態であり(略)最後の局面では、彼はまさに「孤立した思想家」であった

トランド『民兵改革論』、フレッチャーの構想

 トランド『民兵改革論』によれば、イングランド民兵を構成するのは、「自由人」でなければならない。ここで「自由人」とは、「財産をもった人々、あるいは自分自身で生活することができる人々」を意味する。他方、「独立して生活できない人々」は「使用人」と呼ばれる。「自由人」は、「自由と財産」のために戦い、「使用人」は、「彼らの生命以外失うものを何ももたない」ために、「パンのために」しか戦わない。さらに「自由人」のもつ「不動産あるいは動産」は、「政府への忠誠の確実な担保」である。この「自由人」の民兵としての訓練は以下のようにしておこなわれる。教区において、週一度、16歳から40歳までの自由人と健康な使用人が訓練をうける。(略)使用人は民兵の一員ではないが(略)外国の突然の侵略をうけたとき、あるいは国内に暴動がおこったとき、彼らは民兵の「付属」として働くことができるからである。
(略)
[対してフレッチャーは現行の制度では]地位と財産をもつ人々は、自分たちのかわりにどんな邪悪な使用人さえも送ることを許されている。そのため、彼ら自身は武器を扱うことに不慣れになることによって、卑しい人間になっている。
(略)
[改革すべき点は]「地位と財産ある人々」に軍事訓練をあたえ、彼らを民兵の中核とすることにある。[と主張]
(略)
そもそもトランドにとっては、専制政治をもたらす危険性は常備軍よりもカトリックのほうがはるかに高かったという点である。カトリックは「祭司の術策の極致」であり、思想・信条の自由を奪うものであった。自由な思考が奪われたところに、思考の停止したところに専制はしのびよる。
(略)
ローマカトリックがあらゆる宗教のなかにある滑稽で、不正な、あるいは不敬なあらゆるものの濃縮物であるということ、それが最高の完成の域に達した祭司の術策であるということ、それが人間の軽信性につけこんだ最も傲慢なペテンであるということ。
(略)
 君主がいかなる宗教を信じようと、商業文明の発展がおのずと専制をうみ出すと考えたフレッチャーとは対照的である。

デフォーの批判

 フレッチャーの民兵についての議論はデフォーの『議会の同意があれば、常備軍は自由な統治に反しないことを示す一論』によって批判される。その論考の特色は、すでに述べたように、ヨーロッパにおいていちはやく市民革命をへて議会の確立をみたイングランドの歴史に依拠して、ゴシック政体論を再構成するところにある。(略)過去と現在では戦闘様式と国際関係が大きく変化し、「現在のイングランド」では常備軍が必要とされるにいたったことを主張する。
 (1)戦闘様式と国際情勢の変化
 「過去のイングランド」は、長年隣国にたいする侵略者であり、自国を侵略されるという危険性をまったくもたなかった。そのような時代にあっては、民兵が十分にその役割を果たすことができた。それにたいして、「現在のイングランド」は、「国内の平和は確実なもの」であるにもかかわらず、「あまりに大きすぎるほどにまで成長したひとりの隣人」、フランスの脅威にさらされている。フランスはたんにイングランドにとってのみでなく、ヨーロッパ諸国の「平和、自由そしてプロテスタントの宗教」にとって脅威でもある。この脅威にそなえるためには、同じくフランスの脅威にさらされているヨーロッパの諸国との「同盟と連合」を欠くことはできない。また、戦争をおこなう場合には、同盟国をイングランドの防壁とし、「敵国において戦争をおこなう」ことが必要である。デフォーは言う。「われわれの仕事はフランダースを保持し、辺境の諸都市を守護することであり、同盟軍と協力して戦場にあることである。これが侵略と急襲をふせぐ方法である」。戦争という事態になってから、軍隊を徴集するのでは手遅れである。「戦争の技術」の高度化によって、兵士の不断の訓練が必要となったからである。
 以上の理由で必要とされる常備軍は、「議会の同意があれば」、平時においても、「自由な統治に矛盾することはない」。そして、「国王、貴族そして庶民の一致・調和」があるかぎり、常備軍が「われわれを奴隷にする」ことはありえない。

封建的土地所有の解体と新たな統治

 [イングランド国教会牧師]スティーブンズによれば、かってのイングランド君主制は、全土の三分の二以上を所有した国王、貴族そして教会の土地の「不均衡」のうえにおかれていた。
(略)
領主=貴族の気分次第で国王が廃位されてきたのをみた国王ヘンリ七世は、領主たちの権力の基礎が彼らの所有する土地にあることに気づき、土地所有の形態を、借他人が領主にたいして軍役奉仕を負う形態から、地代のみを支払う関係へ変更した。そして貴族の土地を子孫に残すことを阻止する方法が発見された。(略)
これによって、ヘンリ八世の治世の終わりには、イングランドの庶民は全土の三分の二の土地を所有するにいたり、残りの三分の一を国王、貴族、教会が所有するのみとなった。このため「均衡」は庶民の側にうつり、チャールズ一世の治世において明らかなように、庶民は国王、貴族、教会にたいして戦いをしかけることが可能となったのである。
(略)
女王エリザベス一世は庶民の間での「人気」と「愛情」に訴えた。しかしジェームズ一世は、このような「名誉あり適切な手段を追求する気質」をもたず、「彼の深い学識を賞賛し、ほとんど崇拝さえする教会派」のなかに統治の手段を見いだした。その子チャールズ一世も同じ手段を追求した。その結果、「聖職者の国王の寵愛をえたいという気持ちは、国王大権を増大することによって国王を強大」にし、「彼らが神の言葉から導き出したある政治的教義」(王権神授説と受動的服従)のために、「国王大権を王国の法のうえにおく」ことになった。スティーブンズによれば、これこそ「祭司の術策」である。チャールズ二世は、この術策にあまりにたよりすぎたために、人々が「説教壇の戒律が人々の自由の廃墟のうえに国王大権を構築する」ものであることに気づくや、国王にたいする戦いが始まり、国王はその生命を落とした。
(略)
ジェームズ二世は、このふたつの術策のどちらも信用せず、彼の専制常備軍によってささえようとしたが失敗した。

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