イギリス出版史、著作権、定価制

イギリス出版史

イギリス出版史

物書きの誕生

16世紀の終り頃には、広義の文学が、すでに商品化を遂げていた。しかしそうした商業化の報酬はもっぱら印刷家・出版者・書籍販売人の方に流れてしまい、著者を潤すことがなかった。このことはそれほど驚くに当らない、中世の書物を写本所から解放し、市場に流れるようにした功労者は、印刷家であったからだ。[書籍の生産と流通に資金を出す出版者が利益を得るのは当然](略)
写本で何百点でも入手できた中世以来の共通遺産を、印刷に付することで生き延びることができたのである。そうした本の多くは著者が不明であったり、誰が著者かを考える必要がないほど古かった。(略)
[読者が増え成熟してきた]市場を満足させるには、古い本をくり返し重版するだけではだめだった。激動する政治・宗教的状況と、人々の好みや流行の変化のために[新しい本を書いてくれる著者が必要となった]

著作権

スコットランドアイルランドの書籍販売業者の海賊行為に対して、法的に対抗することは必ずしも簡単ではなかった。(略)彼らがアイルランドで、それらの本を印刷したことは全く合法的な行為であって、ただそうして作られた海賊版が、販売目的でイギリスに持込まれた時にはじめてそれは不法行為になったのである。(略)[スコットランドの法律の基礎であるローマ法には「無体財産」という概念がなく著作権を認めていなかった。一方]
イギリスの法廷は次第に、著者が本を書いた時、彼は一個の財産を創り出したのだ、という考え方をとるようになっていた
(略)
[エディンバラのアレクサンダー・ドナルドソンはロンドンに自分の書店を開き、挑発的に海賊版を売り、当然訴えられた。著作権が認められているイギリスでは負けるはずだったが]
ロンドン書籍業者の独占は公衆の利益に叶うものでなく、そのために本の値段が不当に高くつり上げられていることを主張する新しい議論が出て来たのだ。一体著作権とはいかなる種類の財産であるのか、それは馬とか家といったものと同じに扱うことができるのかどうか、という疑問も表明された。1710年法の根拠とされた、学習奨励という目的が、こうした商売の独占によって本当に最善のサービスを期待できるのか、が深刻に問われたのである。こうして過去30年間の大勢とは逆に、上院はドナルドソンを支持する判決を下し、著作権の永久存続という考えに反対したのであった。
 この判決はイギリス出版史の決定的な転換点となった。

児童書と売薬

[18世紀の発展のひとつが児童書の出版]
ここで重要なのはこの革新を担った人物が、ロンドン書籍業界の有力出版者グループ以外から出たことである。(略)
[ジョン・ニューベリーは1746年ジェームズ博士の解熱剤の専売権を手に入れ大当り]
[売薬業者]は全国的な流通網と同時に、全国的な広告を必要としたが、その両方に大きな実績をもつのが出販業界であった。(略)ロンドンの新聞は全国向け広告の唯一の媒体(略)また出版業界が構築した書店を通しての全国的流通網というユニークなシステムも売薬家たちにとって、明らかに役立つものであった。こうして多くの地方書店が専売薬品の代理店となり、ロンドン書籍産業の多くのメンバーが、薬の発売元となったのである。(略)
第一にニューベリーは解熱剤を売った経験から、広告すれば物が売れることを学び、その教訓を出版活動に応用した点である。第二に彼は卸であれ小売であれ、販売以前に、ある本の全印刷部数を統一様式で製本して売り出すということをはじめた最初の出版者であった。第三に彼は子供達を教育するというより、彼らを楽しませることを考えて独特なジャンルの本を出版した最初の出版者であった。(略)本格的な児童向け出版を試みた最初のものは『小びと雑誌』(1751年)であった。これは毎月発行され、18世紀中葉の代表的出版物、総合雑誌の若者版といったものであった。

ゾッキ本

[1790年]ゾッキ本商売を発明したジェームズ・ラッキントンもまた業界のよそ者であった。西イギリスの貪しく、ほとんど本と無縁の世界に育った彼が、いくつかの人生冒険のあと、ロンドンで小売書店を開いたのは1774年のことであった。(略)彼は当然、薄利多売の方が、厚利少売より、長期的に見て利益が多いことを知っていたのである。売れ足のおそい本を始末するために出版者の開くせり市に参加する権利を手に入れたラッキントンは、そこで大量仕入したものを、大幅値引して大衆に売ることを開始した。(略)業界内に反対があったにもかかわらず彼は成功した。それは次第に出販者たちが古い在庫を一括処分し、投資資金の一部でも回収した方がとくだと考えるようになったためであった。

定価制

19世紀半ばの経済思想は完全に自由貿易擁護であり、1846年の穀物法廃止は保護主義的経済政策の実質的終了を意味していた。(略)1848年の秋に、書籍販売業者たちが再び書籍の「定価制」を実施しようと企てたのは、自由貿易論者が大勝利をあげた直後のことであった。だから全くタイミングが悪かったのだ。権力の側から先ず反対の嵐がまき起った。(略)
[業界側は結束が乱れ、ディッケンズ、廉価本の熱烈な支持者カーライル、テニソンが自由販売を擁護したこともあり]
キャンベル委員会は1852年定価制反対の結論を出し、書籍販売業者協会は解散した。書籍販売は無制限競争時代に入ったのである。
(略)
定価販売協定の強制を諦めたことは結局業界に大きな破滅をもたらした。1860年代頃の業界新聞は破産した書籍販売人たちの悲しい物語で一杯である。いやゾッキ本の販売人さえも市場の力関係の中で倒産したのである。(略)深刻な値引販売競争の中では、販売業者たちは最も通俗的で早く売れる本しか在庫できず、大冊で価値の高い、しかし売るのに時間がかかり、売れ部数も少ないような作品を棚に飾る余裕を失っていたのである。(略)
[問題の解決を]リードしたのはフレデリック・マクミランである。彼は1890年に今や名出版社となったマクミランを継いでいた。(略)
1890年代の間マクミランは多くの正価本を出版し、それは新たに結成されたロンドン書籍販売人協会によって積極的な支持を受けた。(略)
[1900年から実施された]正価本協定は、成立直後の数年間、深刻な挑戦を受けたこともあったが、20世紀イギリス出版体制の経済的な基盤として永く存在し続けたのである。

1956年、価格カルテル防止のために制限的販売慣習法ができ、1900年の正価本協定を改訂しようという動きがおこり、業界は法廷闘争に出た。

安売りが許されるならば、ペーパーバックと若干のベストセラーだけを置く、けばけばしい文房具屋が栄えて、在庫保有書店は消滅するだろう、ということが申し立てられた。(略)
[1962年10月のバックレイ判事の審判書は]業界人の耳には至福の音楽ときこえたことだろう。[正価本協定が廃止されると](1)在庫保有書店は減少し、その内容は劣化する(2)本の価格は上る、そして(3)出版点数は減少する、といっているのである。バックレイは結論として、そのような結果が生ずることは公衆の利益に反することであり、登録官の主張する、正価本協定は業界の行う不法な制限であるという法的議論を退ける、というものであった。(略)
こうして正価本協定は生き延びた。

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