ふたつの憲法と日本人 明治の護憲論

8割強が戦前の話なのに何故こういうタイトルにしたのだろう。
明治憲法の破綻』とかだと商業的すぎるのか。

護憲論

意外かもしれませんが、戦前日本においても護憲論は強かったのです。
(略)
偉大な明治大帝が国体にもとづいて、みずからさだめた欽定憲法であり(略)
憲法明治天皇のことばだから、臣民が改正を議論するのは許されない、と日本主義憲法学者井上孚麿はのべています。

明治憲法の欠陥

 大日本帝国憲法には構造上の欠陥がありました。条文どおりに運用できないこと、はじめから解釈改憲を余儀なくされたこと、護憲論が強くなると機能不全をおこすこと、のみっつです。
 この欠陥は、明治国家が天皇親政を支配の正統性にかかげたことにはじまります。天皇親政は、天皇がみずから政治をおこなうという意味です。(略)[しかし]天皇の失政は明治国家そのものの失敗につながります。
 そのため、実際には天皇にかわってほかの誰かが政治を代行しなければならなかったのです。ここに解釈改憲としての天皇超政が必要となります。(略)
 天皇超政は公にはできません。天皇親政に反するからです。明治憲法は建前と本音、理念と実態、理想と現実が乖離した憲法です。(略)
 天皇親政と天皇超政の平衡関係を維持するうえで、もっとも注意しなければならないのは、解釈改憲によって憲法が形骸化することではなくて、護憲論の擡頭によって解釈改憲が否定されないようにすることです。
(略)
 明治国家は、公儀[徳川幕府]を凌駕する正統性を必要としました。(略)
 現在のわたしたちには、明治国家の切実さが理解できません。明治の中頃でも明治国家の正統性は浸透していませんでした。(略)
[新世代の新聞記者、生方敏郎は]王政復古を理解できない母親や近所のおばあさんを徳川時代の遺物と憐れみます。(略)かれらにとって、明治国家は薩長武士の革命政権であり、明治維新は建前にすぎないのでした。
 このような歴史の見方は、徳川幕府による政治宣伝の悪影響だと、生方は考えます。しかし生方は、自分が明治国家の政治宣伝に搦め捕られていることに無自覚です。だからおばあさんたちの方が同時代の情勢を冷徹に観察していたことがわかりません。(略)
[250年に渡る太平の世が]公儀の正統性の淵源です。
(略)
 天皇親政は明治国家の正統性です。国家存立の基礎です。だからこそ、天皇親政は実行できないのです。[なぜなら政治は失敗するもの、国民の不満をかうのが宿命](略)
[ゆえに]正統性をまもるために天皇超政をおこなわねばなりません。

不磨ノ大典の担い手

 不磨ノ大典を支持しひろめていくのは、明治大正期にあっては、政党政治家です。昭和戦前期には、右翼がとってかわります。担い手の変遷によって、不磨ノ大典はことなる役割をはたします。
 政党政治家は明治大正期に不磨ノ大典を利用して、護憲をとなえながら、解釈改憲つまり政党政治の実現をねらいます。昭和の右翼は、不磨ノ大典を文字どおり実現することをもとめます。憲法そのままの政治をもとめます。その結果、明治憲法の機能不全をひきおこします。
(略)
 近代の国家と憲法は、政党性悪説にたっています。そのため、欧米諸国の近代憲法は政党が存在しないかのようにつくられているのです。(略)
政党が国家運営の主体としてみとめられるには、政党と政党政治のそれぞれに正統性が必要でした。
(略)
議会政治の導入と実現は明治天皇の意志である、と政党政治家は主張しました。[そのために不磨ノ大典を宣伝したが](略)
短所もそなえています。明治憲法を絶対視する姿勢が強くなりすぎると、憲法条文にはどこにも書いていないという理由で、政党政治が否定される可能性が生ずるのです。この問題は昭和戦中期に現実のものとなります。

欽定憲法史観

欽定憲法史観は、天皇を主人公にすえた日本近代史叙述の一環です。この文脈において、欽定憲法とは文字どおり天皇みずからつくった憲法という意味でした。
(略)
 戦前の日本国民も、伊藤が憲法起草の主導者であり、欽定憲法史観が建前であることを諒解していました。(略)
 人々は、公の場所では欽定憲法史観を真実としてとりあつかいました。その結果、欽定憲法史観は不磨ノ大典の構成要素となって、近代日本の憲法観に重要な影響をおよぼしました。
(略)
民権派は、憲法制定に参画する最後の好機をのがすまいとして、三大事件建白運動と大同団結運動を展開しました。
 第一次伊藤内閣は保安条例をもって応戦しました。民権派の東京追放と違反者の投獄という前代未聞の実力行使によって、民権派と伊藤の関係は決裂しました。傷ついたのは民権派だけではありません。伊藤も傷つきました。事実、伊藤は保安条例施行後まもなく辞意をもらしました。
 このような政治情況のもとでは、伊藤が起草した憲法がうけいれられる可能性は小さくなります。(略)ここで欽定憲法の必要性が生じます。憲法明治天皇がみずからつくったものであるとの仮構が必要になります。
(略)
[欽定憲法という大枠は既定だったが]当時の人々は名義は欽定憲法であってもなんらかのかたちで国民代表が関与する機会があたえられて当然だと考えていました。君主と議会の共同作業で制定する憲法である国約憲法をもとめたのです。明治二十年の民権派弾圧はこうした国約憲法の芽を摘んだだけでなく、欽定憲法を徹底した欽定憲法とすることとなったのです。

逆手に取る民権派

民権派にとって、欽定憲法の制定は敗北を意味しました。しかし、内閣に抗する手立てを保証したのがほかならぬ明治憲法だったため、民権派憲法を逆手にとって藩閥政府を攻撃する戦法に方向転換しました。明治二十四年の『自由党報』にははやくも、憲法は神聖でありどのような場合でも違反してはならないと論じた文章がかかげられました。
 民権派にとって欽定憲法史観の受容は敗北感を希釈する効果がありました。民権派は勤王を自任していましたので、天皇がつくった憲法をおしいただくのは恥ではないからです。純然たる欽定憲法であるほど敗北感はなくなりますから、民権派は伊藤が憲法の起草者であることを積極的に否定しました。
 伊藤が憲法について発言するたびに、憲法公の新義解、憲法佯護と民権派は揶揄しました。新義解とは伊藤が自分の都合で自著『憲法義解』をねじ曲げたことをさしています。また佯はいつわるの意味で、伊藤の憲法擁護はにせものだと主張したのです。

あの御真影肖像画

[明治六年の最初の御真影は写真だが、明治二十一年に全国の小学校に下賜され戦前の日本人の記憶に残ったものは]
大蔵省印刷局雇のキヨソーネが顔だけを短時間で素描し、体の部分は大礼服を来たキヨソーネを写真に撮り、合成して全身像を作画しました。その絵を写真家の丸木利陽が撮影して、複製したものが御真影です。
 御真影は肖像写真ではなく肖像画です。明治天皇が写真撮影をきらったからでした。現在明治天皇の写真はわずか数枚しかのこっていません。

明治大帝論

明治大帝論の宣伝役は、政党政治家です。その代表は、大正期に憲政の神様といわれた犬養毅尾崎行雄です。
(略)
犬養の想定する立憲政治とは天皇のもとの平等政治でした。だから閥族打破をとなえたのです。(略)犬養にとって、閥族を一掃し、天皇と国民だけの国家をつくることが憲政擁護運動だったのです。
 天皇のもとの平等論は江戸時代の身分制度の延長線上にいきていた犬養毅からすれば急進的な社会改革論です。(略)
 こうした平等観、立憲政治観は犬養ひとりのそれではありません。あとで紹介するように昭和の右翼もおなじことを主張するからです。政党政治が右翼の攻撃に反撃できなかった理由のひとつは、両者が見解をおなじくしていたことにあります。
(略)
 尾崎行雄にうつりましょう。(略)
天皇と国民の意志を一体化するのが建国の理想であり、それを実現するうえでもっとも有効な方法が立憲政治だと尾崎は主張します。
(略)
 普通選挙運動でも、明治大帝論は効果を発揮しました。(略)
明治大帝の遺訓を実現する途として、普通選挙を正当化します。
(略)
普選運動や労働運動と、天皇制は隣接していたのです。
 その証拠として、第二回全国普選デーにおいて、普通選挙に反対するものを非国民とする決議が採択された事実をあげておきましょう。昭和になってから、戦争に協力しない人間を非国民といいました。非国民という罵倒は天皇制国家の息苦しさを象徴することばですが、護憲運動のさなか普通選挙反対論者にたいして使われたのです。

昭和天皇と明治大帝論

 昭和天皇に明治大帝論を講じたのは、三上参次です。(略)
 三上の説明によれば、征韓論をめぐる政府分裂の危機は、聖断そのよろしきをえて沈静化した事例です。
(略)
昭和天皇に明治大帝の再来を期待する気持ちは、牧野ひとりの願望ではなく、宮中関係者ひいては政府関係者の共有するところでした。
 第一次世界大戦と前後して欧州諸国の王朝が没落し、アメリカとソ連が擡頭しつつありました。(略)天皇親政をかかげる日本にとっては脅威でした。折悪しく、大正天皇は病気がちでした。このことは当時においても周知の事実でした。天皇制をめぐる内外の条件が、明治大帝論を必要としたのです。
(略)
 大正天皇をうしなってまもない今こそ進講する効果があると前置きして、太正天皇の病歴と生育の遅れについて、三上は詳細にのべました。多くの皇族と宮中官僚とが陪聴するなかで、亡父を軽侮するようにうけとれる進講を、昭和天皇はきいたのです。昭和天皇の大成をねがう側近たちの善意は、いささか暴走していたように思えます。
 昭和天皇憲法の講義もうけています。担当したのは清水澄です。(略)清水澄が理想とした明治天皇は、親政をおこなう天皇です。(略)
[ただしすべての大権を行使するのではなく]議会の解散権と大臣官僚の任免権を重視し、このふたつの大権を天皇が行使することで立法と行政とを天皇が統御できるとのべました。(略)
 清水の教えを昭和天皇は実践します。(略)
 田中義一昭和天皇の関係は張作霖爆死事件の処理をめぐって決裂しました。昭和天皇は田中にたいして不信感を表明し、田中は辞職しました。昭和天皇は任免権を行使したわけです。昭和天皇は明治大帝のようにふるまったのです。
 昭和天皇への進講は成功をおさめたようにみえます。しかし代償は大きなものでした。辞職してまもなく、持病を悪化させて、田中が亡くなったからです。天皇からの叱責と不信任は、田中の精神をうちのめしました。天皇親政を建前とする明治国家において天皇からの不信任は国家そのものからの否定だからです。
 田中義一の死去をきっかけに昭和天皇は発言をひかえるようになります。

国体憲法

 国体憲法学とは、憲法と国体を同一視する意想です。国体は建国以来存在することになっていますから、憲法も不文法のかたちで同時に存在したと主張します。(略)
憲法は、永遠にかわらない国体と一体化することで、かえてはならないものとなります。
(略)
 憲法が舶来品であることは、憲法制定時には自明のことでした。(略)
[警戒する保守派を安心させるため、帰国した伊藤は国体を基礎として憲法を起草すると天皇に報告。それでも]
憲法施行後も保守派は国体と憲法をきりはなして考えていました。
(略)
井上毅は、憲法をまもるために、憲法は日本の伝統であると強弁したのです。近年の歴史学ではこのような言説を伝統の再創造とよんでいます。

穂積憲法

 大権政治は独裁政治ではありません。三権分立制による立憲政体です。(略)
穂積によれば日本は君主国体で立憲政体の国家です。明治憲法が、行政司法立法の三権をわかつからです。(略)
注目すべきは、穂積が、政党政治専制政体とみなしていた事実です。政党政治すなわち議院内閣制は、ひとつの政党が立法と行政を支配する制度です。議院内閣制は三権分立を破壊します。よって政党政治は立憲政体の敵です。また、政党が国家運営の主役となるのが政党政治ですから、天皇主権をおびやかします。政党政治は君主国体の敵です。だから穂積は、日本の君主国体と立憲政体をまもるために政党政治に反対します。

美濃部憲法

欧米の立憲主義をそのまま移植した場合、天皇親政と抵触します。理想主義憲政論の弱点がここでも露呈します。そこで美濃部は(略)臣下が天皇統治を補佐してきた歴史を国体とみなして条文解釈に動員しました。(略)
国務大臣はひとつの内閣として一体となって天皇を補佐します。ここに内閣の連帯責任が生じます。一蓮托生の運命をわかちあう以上[意見を同じくする者が集まった政党で組織される]
(略)
 こうして美濃部は、天皇親政をまもるために政党政治を導入しなければならないと結論しました。解釈改憲というほかない結論です。明治憲法政党政治を排除していたからです。(略)
美濃部は、憲法と国体が密接不可分の関係にある憲法学説をつくりだしました。

次回に続く。
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