トレイシー・ソーン自伝 その4

前回の続き。

トミー・リピューマ

一九八九年になっていた。ハルを卒業してからまだたった五年しか経ってはいない。

(略)

あの"レイヴ"なる新たな流行に属しているようなことも一切なく

(略)

 英国のシーンには最早自分たちの居場所など到底見つからないようだった。

(略)

英国でこれほど蔑まれるのならばと、あたかも赦しを求めるような気持ちでアメリカに渡ったのだった。そこでは何もかもが違っていた。

(略)

 ツアーを回っている間(略)故郷にいるより自分がよほどカッコよく賢く、かつシックであると見做されているのだと感じることができた。(略)

まだ私たちも前衛ポップの一画を担う存在だと考えられており

(略)

イギリスでは少なからず時代遅れでダサい連中だと(略)認知されつつあったという苦境を鑑みれば、この点もまたかえってとことん魅力的であるようにも思われた。

 そして私たちは、今こそ数年前に受け取っていた一本の電話にきちんとした返事をすべきタイミングであろうと決意した。

(略)

トミー・リピューマが(略)私たちをプロデュースすることに興味があると言ってくれていたのである。当時はそれが自分たちに相応しい方向性だとも思えなかったのだが、今は信じてもいいような気持ちになっていた。

(略)

彼の返事は、デモを聴くことに興味はないからとにかく一度ニューヨークまでやってきて、その今持っている曲とやらを自分の目の前で演奏してみて欲しいというものだった。(略)アッパーウェストサイドの彼のアパート(略)は、壁は美術作品で覆われて、キッチンには巨大なワイン用の冷蔵庫が据えられているといった、いかにもマンハッタン然とした空気がじわじわと染み出して来るような場所だった。そこから今度は彼と一緒に繁華街のスタジオに

(略)

「持って来た曲を聴かせてみなさい」

 ああクソ、なんてこと。これじゃあまるで昔の音楽出版社の集合ビル"ブリル・ビルディング"が現代に甦って来たみたいではないか。つまりこの私たちは、現代のジェリー・リーヴァーとマイク・ストーラーという訳ね。さもなければジェリー・ゴフィンとキャロル・キングってとこかしら。

 それでもその一日を私たちはピアノの周りで過ごし、この一年間に二人で書きためていたあらゆる曲を鍵盤を使ってたたき出した。しまいにはいよいよ声も出なくなってしまったの(略)

「まあものすごいな」

最後にトミーがそう言った。

「では一番いいのを十個選んで始めることにしようか」

(略)

こんなやり方は私たちにとってまったく初めての経験だった。

(略)

ドラムスはオマー・ハキムでベースはジョン・パティトゥッチ、キーボードは先のラリー・ウィリアムズだ。

(略)

[君達アビー・ロードで録音したことあるんだ!と感心するラリーにパンク魂全開で]

「バカ言わないで。私ビートルズなんて大っ嫌いよ」(略)

すると場がたちまち固まったような沈黙に包まれた。

ビートルズが、だ、大ッ、嫌いだって?」

(略)

[自分達は70年代的ノリを再創造するつもりだったが、レコーディングメンバーは皆、

フュージョンサウンドを]目標にしており、七〇年代などむしろ陳腐で古臭いくらいに見做していたのだ。

(略)

[トミー・リピューマと同じホテルだと便利かなと深く考えずフォーシーズンズに八週間滞在]

プールサイドでビキニ姿で過ごしていたりすると、まるで自分が『夏草の誘い』のジャケットの裏側にいたジョニ・ミッチェルになったかのようにも感じられた。

(略)

[「スタン・ゲッツみたいに吹ける人がいいかな」と言えば、即、トミーが本人に電話]

「実は君に是非演ってもらいたい曲があるんだ」

(略)

[ホテル代、駐車料金、毎晩のワイン]

全部私たちが支払わなければならないなんて、いったいどこの誰が想像できたというのだろう?

(略)

[私達が手にしたのは]

現代アメリカの極めてソウルっぽいポップのレコードと(略)大量の請求書

[結果、レコードを相当売らなければならないことに]

『ランゲージ・オブ・ラヴ』

 英国人たちの耳には実際この『ランゲージ・オブ・ラヴ』は、如才ないと言っていいくらいにつややかに過ぎて響いていたようである。

(略)

[取材に来た〈NME〉記者は、だぶだぶのダンガリーにスマイルバッジ]

「ああ、なんてこと。あの〈NME〉ですら今や皆こんな格好しているのだとしたら、はなから勝負になんてならないじゃない」

(略)

[一方アメリカでは]

ジャズからファンクなりディスコなりへと拡大していった脈々たる系譜の、そのクールな英国製の最新版くらいに受け取られ(略)ルーサー・ヴァンドロスアニタ・ベイカー、あるいはジャム&ルイスのプロデュースによる作品群らとも、十分に肩を並べるようなものと見做されていたのだ。それ故シングルの「ドライヴィング」も全米のダンスシーンの多くから熱い注目を集める結果となっていた。

 自国イギリスのマスコミなり大衆なりからは寒さに肩のすくむような思いをさせられながら、もう一方で、両手を広げて歓迎してくれているかのようなアメリカの聴衆たちに向き合えば、自ずと感謝の念が湧いた。その頃にはアメリカの、いわゆる”カレッジラジオ"と呼ばれる放送局たちが、私たちの曲を頻繁にオンエアしてくれるようにもなっていた。

(略)

[しかし]九〇年代の初頭(略)"カレッジラジオ"[は](略)"グランジ・ムーヴメント"にほぼすっかり支配されてしまっていた。これがまた、ほとんどヘヴィメタルのようにしか思えない、いかにもアメリカらしい音楽だった。

 かくしてまったく突然にイギリスの非主流の音楽は、今やアメリカ人の耳にも半ば気が触れているとしか思えない、あまりに観念的に過ぎるものとしか響かなくなってしまった。かつてはまさにこの点を気に入って支持してもらえていたはずなのに、それがいきなりまるで歓迎されなくなったのだ。こういった状況の中、私たちに手を差し伸べてくれたのが、"ニュー・アダルト・コンテンポラリー"とかその略称のNACとかいった名前で呼ばれていた新たな枠組みの放送局たちである。しかしこちらもまた、なかなかに恐ろしい世界であったことが後になって判明するのではあるが。

(略)

ベンの表現によると、彼らが主に流していたのはこういうものになる。

「在っても邪魔にならない程度のお手軽なジャズ風味のスープだよ。マイケル・フランクスやアール・クルー、あとはケニーGとかドナルド・フェイゲンとかエンヤとか」

 我らが「ドライヴィング」もまたこのNACの枠組みにマり、この手の局では実際に大量のオンエアを獲得した。

(略)

 え、え、ちょっと待ってよ。こんなのもやっぱり私たちが意図していたことではないのだけれど。お願いだからエンヤと一緒にするのは勘弁して。でも、人々にはひょっとしてその違いはわからないものなのかしら。

(略)

私たちがやろうとしていることは、エンヤの指向しているものとは少し違っているのである。少なくとも自分たちとしてはそういうつもりだった。

対極のマドンナ

[90年ツアーは大きな会場ばかり、レコードと同じサウンドを再現できず、客が金を返せと騒ぎ始めたり]

今や自分のヴォーカリストとしての資質に対する疑念は膨れ上がり、ほとんど活動不能に陥りそうな域にまで手を届かせつつあった。

(略)

[『ランゲージ・オブ・ライフ』録音時、セッションメンバーを前に]

否応なくシンガーとしての私自身を、マイケル・ジャクソンチャカ・カーンアニタ・ベイカーといった、彼らがこれまで共演してきたアーティストたちと比べて見ざるを得なくさせてもいた(略)

パンク由来の反逆精神も、いざ一旦マイクの前に立たされてしまえばたちまちどこかへ逃げ出してしまったかのようで、しかも耳に入って来るものといったら自分の限界だけだった。ピアノの上で片手を広げた程度の幅にしか届かない音域は笑い出したくなるほど狭く思われ、過去にモリッシーに対し、あなたのキャリアなんてたった三つの音階の上だけに成り立っているようなものじゃないなどと非難を向けたことまでが思い出されて来て[落ち込むばかり]

(略)

 声の不安だけではない。自分の見た目や、あるいは自分自身の意味についても自信を失い始めていた。私が自分を重ね手本とすることのできそうな女性アーティストといった存在も今や底をついてしまったかのようだった。

 七〇年代終盤のインディーシーンには(略)偉大な女性たちがたくさんいた。(略)

スージー・スーにポーリーン・マーリー、ポリー・スタイリンにスリッツにレインコーツ、レズリー・ウッズにアリソン・スタットン(略)

パティ・スミスやクリッシー・ハインドといった女性たちは、私のような人間からすればまるで天からの贈り物のようだった。見た目からして天性のお転婆で、この私がいわば自分の輪郭を鋳造しようとしていた時期には、彼女たちこそが、可愛らしくある必要もないし、注目を集まるために服を脱いだりなんてことも全然しなくていいんだからねと、そんな勇気を与えてくれるメッセージをまっすぐに届けてくれていたものだ。

 しかし八〇年代という時代は結果としてより一層保守的な十年間となった。

(略)

私にとってはマドンナほど、ほとんど違う星の人間ででもあるかに思えてしまう相手もそうそう見つからないのである。輝かしくも溌剌として、まるで野心がテフロン加工されて動き回っているように見えた。

 彼女自身もまたフェミニズムの一つの形であったことは疑うべくもないのだが、それは私が気楽に伝票にサインして受け取れるような種類のものではなかった。彼女の曲の拗ねた感じやふざけているような雰囲気や、それからとりわけ「マテリアル・ガール」や「ライク・ア・ヴァージン」といったビデオ群には、時に凍りつくような思いさえ抱いてしまったものである。指先で男たちを操り、女の手練手管を自身の優位のために存分に用いる(略)方法が、一瞬にして再び最重要事項の座に戻って来てしまったことが最大の問題だったのだ。

 しかし私はマンガみたいにコミカルに強調された女性になど決してなりたいとは思わなかった。"鉄の女"とか"エッチな仔猫"とか"歌姫"とかもしくは"屋根裏部屋のイカれ女"とか、そういう称号などまっぴら御免だったのだ。

(略)

[低調な時期ゆえ真っ向から戦いを挑む気力もなく]

単に自分が時代から取り残されて行くのではないかという危惧を助長しただけだった。同じ鉦ばかりを鳴らしながら、それこそ年老いた阿婆擦れ女のごとく無為にがなり立てているという訳だ。

[米ツアー終了時には神経衰弱ギリギリ状態に]

低調ってこういうことよね

九〇年という年、私は道の途中に自分で掘ったでっかい穴の、そのまさに正真正銘の一番底にまでハマり込んでいた。たぶんこいつは八七年の『アイドルワイルド』辺りから口を開け始めていたのではないかと思う。そしてここからきちんと抜け出すのに私は、実に九四年までかかってしまったのである。

 もっともこれは商業的な面でのことを指しているのではまったくない。現実にはむしろ『ランゲージ・オブ・ライフ』は最終的に五十万枚以上の売り上げを記録している。だから私がここで語るつもりでいるのはまず作品の中身についてであり、それ以上に、それらを作ることによって得られる喜びの問題についてなのである。

 今やその感覚から明らかに何かが失われてしまっていた。たぶんそれは、自分が表現したいと思っていることをきちんと表現できているという手応えであり、自分には私を理解してくれて、そしてこちらもまた相手に感情移入することができる、そういうありがたい聴衆がついてくれているのだという確かな感触であり、その彼らがきっと私の音楽から自身の望んでいたもの、私があげたいと思っていたものを手に入れてくれているはずだという確信だった。平たく言えば、どこかにちゃんと繋がっているという感覚だということになるのだろうかと思われる。

(略)

バンドとしての自分たちは、イギリスでかつて手に入れたどんな注目よりも一層大きなそれをアメリカで獲得することに成功していた。(略)

人気を実感するためにはわざわざ毎回海を越えて行かなければならない。

(略)

"ビッグ・イン・ジャパン"などと呼ばれるほどにはそれなりに日本でも人気があった。同地に行けばイギリスでは考えられなかったような大きな会場に立つこともできた。しかもそれは奇妙にも静かな、夕方の早い時間の公演となった。凍りつかんばかりに空調の効いたステージの上で、私たちをたぶん大好きでいてくれるのにそれを伝える手段を知らないかのような、小綺麗に身繕いをした年若いエグゼクティヴたちを前にして演奏した。(略)

それぞれの曲が終わると、なるほど彼らは小気味よく熱心な拍手をくれた。しかしそれが奇妙なまでにきっちりと揃っているものだから、どうにもよそよそしい、強制されたもののようにしか響いて来なかった。

(略)

[91年『ワールドワイド』]

[酷評を予期して媒体をチェックすると]

一切見つかって来なかった。正確には、同作に関してはどんな批評も出て来ることすらしなかったのだ。完璧に無視された。

(略)

アルバムが出たというのにツアーすらできないというのが現状だった。売れ行きはコンサートホールでの公演を可能にするにはほど遠かった。

瀕死のベン

[92年、ベンは持病の喘息が悪化し薬が効かなくなり、病院から「僕には心臓発作の懸念があるらしい」と電話をかけてきて]

 それから十日ほどの間にベンは、明らかに深刻な状態へと坂道を転がるように落ちていった。

[正確な診断がつかず、状態がただ悪化]

(略)

「一度この患者を開いてみます」

彼らはそう言った。

「そうやって何が問題なのかを突き止めるのです」

(略)

手術室へと運ばれて(略)空となった彼のベッドの傍らでじっと待っていることに耐えられず、少しだけ散歩に出ることにした。(略)川沿いの道を早足で歩いた。橋に出食わすたびテムズを越えてはまた戻って来るといったことを繰り返し(略)十分な時間が経っただろうと思えたところで病室に引き返した。ところが戻ってみるとちょうど部屋では二人の看護師が、ベッドから淡々とシーツを剥がし、彼の私物をプラスティックの容れ物にまとめているところだった。

 一人が顔を上げ、茫然とする私の様子に気がついた。

「違います、違いますってば」

慌てたような叫び声だった。

「貴女が考えているようなことでは全然ありません。ただ彼は集中治療室に移ることになっただけです。(略)」

 ああそうか。死んでしまった訳じゃないのか。(略)

開腹の結果ベンの腸内にはあまり類例のない、炎症症状に拠ると推察される多くの損傷が見つかったのだそうだ。回復のためにはさらに何度かの手術と治療が必要になるとも告げられた。

(略)

「彼が今晩死んでしまうというようなことは、ひょっとして有り得るものですか?」

 でもそう声に出した時には私はすでに泣いていた。

(略)

翌朝まだものすごく早い時間のうちに、昨夜とはまた別の看護師に揺り起こされた。慌てた私はまたきっと今度こそベンが死んでしまったのだと考えた。しかし彼女は、お茶でも飲みませんかと訊いて寄越しただけだった。

(略)

意識の戻らないベンが集中治療室で横になっている間に私は、彼のベッドの傍らに座ってジグソーパズルを作り、P・Gウッドハウスの小説を読んだ。ありがたいことに物語の世界にすっかりと没入し数時間我を忘れていることもできた。

(略)

 ベンが[自身の闘病を綴った]『ペイシェント』を上梓した際には(略)[多くの人が]この本がこれほど感動的な理由の一つは、病気の物語でもあるのと同じくらい愛の物語にもなっているからだよね、なんてことを言ってくれもした。

(略)

確かに破局に繋がりかねないほど派手な喧嘩がどこかの記事になったりしたようなことはないし、人前で激しく言い争ったようなこともやはりない。するとどうやら人々は私たちの関係を、真実と見做すにはあまりにでき過ぎているくらいに思うらしいのである。でも実際には、ほかの多くのカップルがそうであるのと同様に、私たちにもいい時期もあればそうでもない時期もあった。

 八〇年代の終盤には実は私たちは寝室も別にしていて、日本へのツアーに出かけた時にも別々に部屋を取ってもらってすらいた。上手くなど全然行っていなかった。

(略)

[インタビューでは]仲良さげに振る舞ってはいたし普通の行動を心がけてもいたのだが、しかし一旦階上に戻れば、互いにヒリヒリと緊張しているか、さもなければロ論を交わしているような状態だった。

 しかし真夜中に地震が起きた。静かに揺れるホテルの一室で目を覚ました私はまず、ベンはどこだろうと訝った。(略)

「なんてことだ。あれほど長い時間一緒に過ごして来たというのに、私たちは日本のホテルで互いに五十メートルの距離をおいたまま死ぬ訳だ」

(略)

この経験がまさに字義通り、幾ばくか私たちのことを揺り起こす形となったのだ。

閉じこもるベン

[病院での]重要なる介助者の役割も(略)[退院後の]現実の前に跡形もなく消え失せていた。石臼を碾くような回復に伴う退屈(略)

心にまで傷を負ってしまった沈鬱な病み上がりの相手と一緒に生活するということは、様々な意味でとにもかくにも難しく寂しい経験だった。(略)

ベンはすっかり自分の殻に閉じこもってしまった。何時間も口を開かないことがしばしばあり(略)[どうにか会話をすれば]この数ヶ月に起きたあらゆる出来事を、それらの小さな意味の一つ一つに徹底的に固執しながら(略)確かめ合うといったことばかりになった。

(略)

医師から聞かされた言葉や彼らが本人の生存の可能性をどの程度まで見込んでいたかまで、私は一切を包み隠さず彼に話した。彼はすべてを知りたがっているようでもあったし、同時にまったく知らないままでいたいと思っているようでもあった。そして、引き込まれるようにして細部に耳を傾けていたかと思うと、結局はさらに厚みを増したかのような恐怖の中へと落ち込んで行ってしまうのだった。

 それからもずっと長いこと彼の様子は、私ともほかのすべての友人たちからも距離を隔てた、よそよそしい種類のものであり続けた。

(略)

 いつのまに彼は仲間うちから"禅ベン"などとも呼ばれるようになっていた。彼を駆り立てていた激しい気迫や闘争心まですっかり失われてしまったかのようにも見えていたからだ。しかし私たちは間違っていた。彼の性格のそういった部分がなくなってしまった訳ではまるでなく、

(略)

自分の頭の内側で回る言葉たち以外のものには一切注意を向けようとしていなかったからだ。(略)

(略)

"フラッシュバック"という用語も今は一般的になったようだが(略)

忘れ去りたいと願っているような映像が頭の中に繰り返し甦って来ることを自分ではどうにも止めることができないという事態が、はたしてどれほど人を消耗させるかという部分に関しては、決して本当に理解できることはないのではないかと思われる。

(略)

「貴方は全然変わってないのね」

私は言ったものだ。

「前から貴方はちょっとどころでなくイカれてた。今だってそう。ひょっとして貴方って人は、心の平穏みたいなものをきちんと見つけ出せるようにはできていないのかも知れないわね」

 すると彼はほんの少しだけ悲しげに笑い(略)再び、自分自身の内側の探求へと戻って行ってしまうのだった。

 九二年の夏までにかけて、結果としてベンは都合九週間入院した。(略)

十月には再発があり、この時は二、三日入院した。十一月にも同じことが起きた。再発はそれだけで心底怖かった。激しい苦痛と救急車。こんなことがこの先ずっと続くのだろうかとも考えた。

 音楽は正式に止め、この半分病人のような生活にこの先はずっと身を埋めなければならないのかな、なんて疑念が頭によぎるようにもなっていた。

喜ばしき兆候

 九三年の夏である。ベンと私は[フェアコート・コンヴェンションのベース]デイヴ・ペッグの田舎の家の、至極家庭的なキッチンの真ん中に座っていた。(略)

彼らが毎年やっている〈クロプレディ・フェステイヴァル〉[に出演予定](略)

バンドのメンバーは全員が全員この同じ小さな村の中で生活しているらしかった。

(略)

[デイヴはパソコンで]

ライヴのスケジュールを組み、祭典の進行を調整し、のみならず、自分たちの商品さえそれを経由して販売しているらしかった。一切合財が家の中で経営されているのだ。

 まるで家内工場とでもいった様相だ。レコード会社からの妨害とか(略)[音楽業界の]数多の罠なんてものたちからはすっかり独立している。ひょっとして彼らはレコード会社との契約さえ持っていないのではあるまいか。(略)マネージャーらしき人物の姿さえどこにも見つかりはしなかった。それでも彼らはなお数多くの熱心なファンたちとの繋がりを保ったままでいることができている。(略)彼らはただ好きだからこそ、唯一その理由の故に音楽を続けているようにも見えたのだった。

(略)

フェアポート・コンヴェンションは我がパンクの世代などではまったくない(略)昔ながらのフォークミュージシャンたちだ。だがこの彼らは誰よりも、あの頃のインディーシーンと同じほどに自分でやる姿勢に満ち、独立独歩を貫いていた。それは啓示と言ってよかった。自分のうちの何もかもが一気に甦って来る気分だった。

(略)

[巷では私達の危機を救ったのはマッシヴ・アタックやトッド・テリーだと思っているが]

今ここで、その列にフェアポート・コンヴェンションの名前も(略)改めて加えておきたい(略)彼らこそが私たちの姿勢を大きく変えさせるその一助となったのであり、そしてこの変化こそが、その先に続いて起こったすべての出来事において、小さくない役割を果たすことにもなったからである。

(略)

当日、私は田舎の屋外のステージに立ち、顎髭をたくわえたビール片手のフォークファンたちを前に、ほとんどうっとりと例のサンディ・デニーの頌歌を歌い上げた

(略)

このステージのほとんど直後というタイミングで、今度はマッシヴ・アタックから私宛てに電話がかかって来たのだ。制作中の彼らのセカンドアルバムで私に共作し、さらにはヴォーカルも入れて欲しいといった内容だった。

(略)

当時の彼らは、後に"トリップ・ホップ"と呼ばれることになるジャンルを切り拓く、まさにその過程の最中にあった

(略)

私の『遠い渚』のアルバムの大ファンなのだと言う。そこで私はいよいよ引き受ける旨を返事した。

(略)

しばらくの間はどこへ行くにもこのテープを持ち歩いた。(略)やがてじわじわと私の脳髄の中へと染み渡り始めた(略)

 何日かが過ぎた後(略)「プロテクション」という曲の全体をほとんど一気に書き上げた、最初の取っ掛かりとなってくれたのは、数日前に友達の一人から教えられたある少女の物語だ。それが次第に、病気以来私自身がベンに対して抱いていた"守りたい”という感情と重なって行った。歌詞の全体はものの十分余りで仕上がってしまったのだが、そこから先にも一字一句足りとてなおすことはしなかった。

マッシヴ・アタック

 マッシヴ・アタックとの出会いは、華やかであると同時に些か怖じ気づいてしまうような種類の経験でもあった。彼らは全員、根っからのゴロツキの持つ尊大さと侮蔑的態度とを全身からにじませており、大抵の場合は自分たちの間だけで通じる身内の符牒ばかりを使って喋った。

(略)

このセカンドアルバムの頃までには結成当初のメンバーは三人きりにまで減っていた。先の通り名でいうところのダディGとマッシュルームと3Dの三名だ。そこにプロデューサーとして、やはり元々はワイルドバンチのメンバーでもあったネリー・フーパーが参加していた。

(略)

 実際のレコーディングの過程においてはネリーと3Dの二人がいわば推進力の役割を担っているように見えた。ネリーは些かすり切れた感のある妖精とでもいった感じの、いわば人智を越えた場所にいるような被造物で(略)とにもかくにもこのセッションなどなるべく早く終わりにし(略)一刻も早く自分の本来の仕事へと帰りたいのだとでもばかり考えているような印象だった。

 一方で何事にも一番真剣に取り組もうとしているように見えたのが3Dで、こちらはバンドの運動中枢とでも呼ぶべき存在だった。実際ジャケットなどのすべてを手掛けていたのが彼だった(略)

惜しむらくはあまりに頻繁に決意を変えてしまうのだった。ちょっとだけ、あのポール・ウェラーの仕事振りと似ていたと言えなくもない。ダディGは穏やかで、まるで我が子たちを見守っている父親のようにいつも後ろの方にいた(略)

明らかに重要かつ確固たる存在感を主張していた。

 反対にマッシュルームは、はっきり言ってまったくの謎だった。どうもこちらのことを疑っているのではないかとさえ感じられたから、そもそもは何故私がここにいるのかも本当はよくわかっていなかったのではないかと思う。私をこの曲のヴォーカリストにとの決定が為された場面にはたして彼がいたのかどうか、それすら怪しいものだった。

 「プロテクション」が彼の主導で書かれた曲であることが私にもわかったのはずいぶんと後からだ。(略)

ひょっとすると彼からすれば、メアリー・J・ブライジ辺りの方がよかったのかも知れない。彼にはなんだか私のことを、同じメアリーはメアリーでもメアリー・ホプキンの方で、この十年というものオークニーの人里離れた小さな農場で人目を忍んで暮らし、延々と自作のシリアルでも掻き回していた女とでも考えているような節があったのである。一度彼ときちんと会話しようと考え、クレイグ・マックの新作はどう思うかなんて話題をわざわざこちらから振ってみたこともある。だがこれにも彼は、私がわざと彼を困惑させ怒らせようとしているとでも考えているような顔つきをしてより訝しげな眼差しをかすかに向けただけだった。

 音楽的には彼らはとにかく様々な方向性を取り込もうとして(略)

危なっかしい力を孕んだ種類の緊張を延々産み出していた(略)

 極めて乱暴に言ってしまえば、まずダディGがレゲエの影響を持ち込もうとしていた。マッシュルームはヒップホップで、3Dはというと、自分たちをクラッシュにしたがっているようだった。(略)

彼らの意見の不一致は最早ドラマチックですらあって、究極的に中心が定まるようなことも一切なかったのだけれど、このつかの間に限ればむしろ一応は機能しているようだった。

復活、DIYスタンス

一時期引退していた期間、つまりは○一年から〇六年まで(略)私は本当に一語たりとて文字にすることもしなかった。ただ赤ん坊にかかりきりで、自分でも幸福で満ち足りていた。理性などそっちのけの場所で毎日の些事にすっかり夢中だったのだ。

(略)

本当に心の底から、もう二度とペンを手にするようなこともないのだろうなとさえ思っていた。しかしまったくもって不思議なことに、ふとこの本の着想が芽生え(略)それが引き金になったかのように、こういう人物像をこのまま永遠にいなくならせてしまいたくはないなという欲求が起こった。しかも結局はこの本すら仕上げることもせず一旦棚上げし、その代わりにこの私というやつはいそいそと作詞作曲の分野へ戻って行ったのだ。

(略)

九四年(略)私はまさに満ち潮とも言えそうな状態で、そのうえベンもそうだった。(略)[前年閉じ込めた]感情の一切を一気に解放し(略)洪水のように曲を産み出すことができた。(略)

[結果、『アンプリファイド・ハート』が完成]

(略)

レコードの作り方というものをようやく自分の手に取り戻せた気がしていたものだから、次にはもちろんツアーに出ることを決め(略)会場にはコンサートホールではなく、クラブを選ぶことに決めていた。張り切り三味のアコースティックデュオとして、あえて考えられ得る限小さな酒場を選んで飛び込んでみようと考えていたのだ。

(略)

仮にこんなふうに思われたとしても十分許せるくらいである。

「ああ、老いぼれたEBTGのなんと哀れなことだろう。こんな凋落があるなんて。数年前はあの〈アルバートホール〉に立っていたというのに、今はウィンザーの〈オールドトロウト〉ですってよ――」

 私はでも、そんなふうにはちっとも思わなかったのだ。むしろ楽しくってたまらなかった。だってもう一度十九に戻れたような気分だったのだから。汗臭い酒場で(略)熱狂的な観客たちときっちり向かい合うことができるのだ。そう考えるだけで闘志満々になれた。

(略)

[DIY]スタンスは次に続いた全米ツアーにも当然持ち込まれた。(略)アコースティックデュオとして(略)家庭用の音響機材程度のものしか持たない小さな店で演奏し、ほとんどの行程を自分たち、つまりベンと私とだけのドライヴで移動した。私たちは自分たちの音響技師でありマネージャーであり、ローディーでもあったという訳だ。PAもほかの機材もなかった。何本かのギターとスーツケースとを後部座席に積んでいただけだ。

奇跡の大逆転、「ミッシング」

〈ブランコ・イ・ニグロ〉の出資者でありここまでずっと私たちの活動の一切を背後で支えてくれていたイギリスの〈WEA〉が、いよいよ我々を切ることを決断した。アルバム『アンプリファイド・ハート』の全体と私がマッシヴ・アタックと一緒にやった曲、それから「ミッシング」の複数のリミックスを聴いた彼らは、賢明にもこのバンドのキャリアはすでに終わっていると判断したのだ。

(略)

九五年の初頭(略)ニューヨークでマッシヴ・アタックと一緒に「プロテクション」(略)のプロモーションに精を出していた。

(略)

[写真撮影現場へ向かうタクシーの中で]

ダディGが身を乗り出して来てこう言った。

「トレイス、俺夕べ出かけてたんだけどさ、そこでトッド・テリーが手掛けたっていうあんたの歌のリミックスを聴いたよ。あんたも知ってた?」

(略)

「すごくいい感じだった」

Gが言った。

 (略)

「知ってるかとも思うけどさ、あれ、ダンスフロアで着実に流行りつつあるよ」

(略)

ニューヨークに(略)くたびれはてた、屋根裏部屋付のアパートメントを借り

(略)

[次のレコードのための]新曲を書く作業に着手した。

(略)

もうすっかり過去のものだと考えていたシングル「ミッシング」の周辺で何かが起こりつつあるという空気が感じられて来たのは(略)そんな生活を送っていた時期のことになる。

(略)

広告が打たれた訳でもないというのに、世界中あちこちのDJたちがトッド・テリーのミックスをこぞってプレイし始めて、それがいつしか大変な騒ぎになっていたのだ。イタリアで相当なヒットとなっていることはどうやら本当らしかったのだが、詳しいことはわからなかった。

(略)

[ベンが米での契約レーベル〈アトランティック〉に電話するも]

担当者はダンスミュージックとはほとんど縁のない人物だったものだから、マイアミのクラブでのヒットなど明らかにくだらない出来事だと見做していて、のみならずどこかこちらも見下しているような感じで、この重大な兆候さえ鼻であしらわれてしまったのだった。

 契約を切られたばかりであったから、さすがにイギリスの〈WEA〉に電話して何かつかんでいるかと訊いてみることはできなかった。しかし最早レコード会社すらついていない自分たちがヒット曲を出せるなんてことが、そもそも起こり得るものなのだろうか?

(略)

[〈アトランティック〉内では]

ダンス部門出身のジョニーDは、同曲をかけてくれているDJの全員を(略)徹底的に把握してくれていた。

(略)

彼こそが、あのレコードの持っていた潜在的な力にいち早く気づいてくれたという点では最も信頼を置くに足る人物で(略)同曲が大きく羽ばたき始めていることに私たちが気づけたのも彼のおかげだ。

(略)

 同じ頃本国イギリスでは、我々の前のレコード会社が事態に気づき、ようやく重い腰を上げつつあった。私たちはすでに正式に、アメリカ以外の地域ではレーベル契約を持たないバンドとなってしまっていたのだが、それでもこのトラックに関してはなお〈WEA〉が権利を保持していた。(略)戴くものは夏でも小袖とでも言うべきか(略)ついこの前私たちのことをお払い箱にしたばかりだというのに、このシングルをヨーロッパ全域で発売してみることを決定したのだった。

(略)

六月までにはまずこれがイタリアで一位となり(略)ほかの欧州諸国がこれに倣った。さらに同年の十月にはいよいよ本国イギリスでこのシングルがやはり〈WEA〉から再発された。しかしおそらくこの段階に至ってしまえば同社もきっと、少なからず気まずい思いを懸命にかみ殺していたのではあるまいかと思う。曲の権利こそ手元にあれど、私たちに関しては最早彼らは契約を持っていなかった訳で(略)心中穏やかであったはずもない。

(略)

合衆国でも今度は地域を問わず頻繁にラジオでかかり始め、そういう空気がそれこそウィルスのようにアメリカ全土へと随時広まって(略)

ポップチャートで(略)二位にまで昇り詰めた。

(略)

この一連の出来事は、多少なりともポップの世界の市場展開や戦略に、そしてそこに蔓延っているルールみたいなものにも風穴を開けもしたのだと思う。すなわち、この現代の、極めて制御の行き届いた音楽ビジネスというシステムでさえ、結局は予測不可能な、いわく名状しがたい人々の嗜好というものの支配下にあるのだということを改めて証明して見せたのだ。

(略)

「ミッシング」は三百万枚にも及ぼうかという売り上げをたたき出していた

(略)

 合衆国では"レイヴ"という文化は、英国でそうであったほどの影響力を誇ることはまったくできなかったと言っていい。こちらアメリカではあらゆる世代のDJたちが、むしろアルバム『ランゲージ・オブ・ライフ』とそこからのシングル「ドライヴィング」とに多くの愛と敬意を払ってくれていたのだ。故に彼らにはこの「ミッシング」は"方向性の大転換"などではまったくなくて、どちらかといえば私たちがそれまでやってきたことから当然予測される展開にも映っていたのである。

ジェフ・バックリー

 九五年の六月(略)初の〈グラストンベリー〉体験(略)

七〇年代末の悲惨な〈ネブワース〉以来というもの、フェスなるものに出かけて行こうとは欠片も思わなかった。

私たちの世代からすれば、この手のイヴェント(略)の類はどうしても頭の中でヒッピーと結びついてしまう(略)退屈で年老いた嫌な奴ら。挑発的で泥まみれで、プログレとギターソロが大好き(略)

 個人的にはギグというものは夜に催されるべきだと考えている。辺りが暗くなってから街の片隅で、叶うならば数百を超えない規模の観衆の前で演奏できることが望ましい。

(略)

[マッシヴ・アタックのステージで、「プロテクション」を歌うも、自分用のモニターから自分の声が消え、ステージを降りて悔しさで泣く。翌日はEBTGとして出演予定。楽屋としてあてがわれた小屋に、ジェフ・バックリーが]

(略)

[ジェフ・トラヴィスの激推しで]ロンドンにやって来たこのジェフのライヴを揃って観に行ったりもした。

 最初の印象は畏敬の念と、ちょっと耐えられないかも知れないなといった感触の入り交じった、非常に複雑なものだった。確かに彼は素晴らしかったが、なんとなく舞台の上で自分に酔い過ぎているようだったのだ。こちらが入り込んでいく余地がほとんどないと言うか、言葉を選ばずに言ってしまえば、本人の自己愛が、観ている側の当惑を少なからず誘わずにはいない種類のものだった。(略)

 しかしいよいよ歌うべく彼が一旦口を開きさえすれば、誰も彼もが結局は我を忘れてしまうのだった。この時もやはり彼はステージの上でシャツを脱いでしまったのではなかったかと記憶しているのだが、これもまた、その夜の客席の熱狂に一役買ってもいたものだ。そして九四年にはファーストアルバム『グレイス』が登場し、一切を疑問の余地のないものにした。

 ニューヨークに滞在しているうちに是非、彼が演奏したその同じ舞台に自分たちも立ってみたいと考えて(略)[ジェフがシングルをライヴ収録したクラブ〈シーネイ〉でライヴ。その後、ベンが偶然、ジェフと遭遇]

(略)

双方がこの年の〈グラストンベリー〉に出演予定となっていることがわかった。ジェフの方が何か一緒にやろうよと提案して来たのだそうだ。いい考えだとは思ったけどね、とはベンの弁であるのだが、しかしその場ではそれ以上そのことについて深く考えることはしなかったらしい。

(略)

 そして今、何の予告も前触れもなく、しかも朝の十一時という時間に、まさにジェフ・バックリーその人が、この掘っ立て小屋みたいな楽屋にまでやって来て、私の目の前に立っているという訳だった。(略)

私たちの出番まであと三十分(略)

「ねえちょっと、幾らなんでも遅過ぎない?」

 私はそう尋ねたが、彼の方はそんなこと微塵も思ってはいない様子だった。無神経なほどの熱意を見せる彼は、まるで目覚ましく立派に育ってくれた弟のように思われた。ギターを取り出した彼が、これは、あれは、と浮かんでくるアイディアを次々と私たちに投げて寄越し始め(略)

最終的にザ・スミスへの愛を共有していることが判明し(略)

「アイ・ノウ・イッツ・オーヴァー」へと落ち着いた。

(略)

二度ばかり同曲を通し誰がどのパートを歌うのがいいのかを調整した。(略)

この時、これはもう正直に告白してしまうけれど、実は私はほんのちょっとだけチビっていた。

 気がつくともう出番の時間だった。(略)

[客のノリは悪かったが]

フェスティバルの目玉の一人でもあったジェフ・バックリーが我らの舞台へと登場し、一気に会場を盛り上げてくれた。

(略)

 午後の遅い時間にジェフは今度は自分のバンドを引き連れて再びステージへと昇った。私たちは袖のところから見守っていた。どの曲だったかが終わったところで彼がどうやらこちらに気づき、ベンと目が合うなり、ステージに出て来るようにと、首まで動かしながら大きく手招きをし始めた。(略)

「オーォケーイっ」

ジェフが叫んだ。

「次は「キック・アウト・ザ・ジャム」だッ。(略)」

(略)ベンはこのロックの業界で唯一人、それまでこのMC5のパンクへの讃歌を耳にしたことのなかった人間だったのではないかと思われる。もちろん弾くなんてなおさらだ。しかし彼は本当に物覚えが早いのだ。八小節も進んだ頃にはすでに全体の構図を見抜き、すぐにそこに乗っかって走り出した。(略)

リアム・ギャラガーとの会話

[「ミッシング」のヒットで〈ブリットアワード〉に出ることに]

私はリアム・ギャラガーと、お互いの琴線に触れ合うような真摯な会話を延々と続けていたことがある。それぞれにまだ子供を持つ前だった。この時彼は本当に心の底から父親になりたがっていた。(略)見物人たちが、きっと彼はデーモン・アルバーンのことをこき下ろしているに違いないとか、さもなければ私にコカインでも勧めているのではないかくらいに想像しているその一方で、現実には本人はこんなことを口にしていたのだ。

「僕はもう、ただただ子供が欲しくて欲しくてたまらないんだ。絶望的に、だよ(略)おかげでもう今にも気が狂っちまいそうなんだッ」

 こういった出会いは大抵の場合大変楽しいもので、しかも決まって誰かに話してしまいたくなる種類の逸話を残してくれたりもする。たとえばレディオヘッドトム・ヨークは私に、八五年のEBTGのライヴで、踊り狂ってしまったせいで会場から放り出されたことがあるのだなんてことを教えてくれた。

 しかし時には身震いせずにはいられない破滅的な光景が起きてしまう場合だってある。たとえばこの私の席がレニー・クラヴィッツの隣だった時のことだ。この日私は小さなスパンコールをいっぱいにちりばめたドレスという格好で、一方のレニーは例のドレッドヘアを長く伸ばしたままだった。そしてこの夜彼は、反対側の隣にいた相手に向かって冗談を飛ばしては、笑うたびに派手に頭を振り回していた。(略)

あのドレッドヘアが私のキラキラしたドレスの前の部分にしっかりと張り付いてしまったのである。あっという間に彼は、まるで私に恭しくお辞儀でもしているような姿勢のまま身動き取れなくなってしまった。ほとんど膝の上に頭を載せているような格好だ。

(略)

言葉も出て来ないほどまごついて、どうにかして髪の毛を解いて自由にしてあげるべく懸命にいじり回しては、ただ虚しく時間を浪費した。いよいよどうにかなったところでお互いに礼儀正しく咳払いし、それぞれに向こうを向いた私たちは、二度とこの一件を口に出すことはしなかった。

『アウト・オブ・ザ・ウッズ』

 皆はなお、私にまた歌えばいいのにと言い続けた。さもなければ――本を書いてみるのはいかがかしら、と。(略)

 「どうしてもう歌おうとしないんですか?」

 人々に繰り返しそう尋ねられるうち私自身も次第に、この気持ちが本当にそれほど確かなものであるとは思えなくなって来た。(略)

この仕事が自分にすごくハマっていると感じたことはほぼなかったし(略)

私のキャリアというのはなんだかいつもいつも落とし穴に填まって足掻いていたようなものだった

(略)

だが、ある日突然、まったく青天の霹靂で(略)歌うことがひどく恋しくてたまらなくて、どうして止めてしまったのかなど、自分でも全然わからなくなってしまったのだ。

 この貴重な瞬間とほぼ時を同じくして、私の元へ[第二の「ミッシング」狙いのダンストラックテープが送られて来たが、どれも個性のない知育塗り絵のような急拵えの]ハウス・ミュージックばかりだった。(略)

[しかし]シュワルツ兄弟が送って寄越したテープの中身は、暗めで非常に雰囲気のあるエレクトロ・ハウスで、しかもこの五年間で初めてとなる新たな曲想を私に呼び起こしてさえくれた。当然のようにベンが私のヴォーカルを自宅のスタジオで録音してくれた。

 なんだかすごくいい気分になった。慣れ親しんだ手応えがあったし、何より気楽にやれたのだ。(略)ヘッドフォンをつけリヴァーブのレベルを調節しながらこんなふうに考えていた。

 「やり方ならよく知ってるわ」

 ずいぶんと長く眠らせていた自分の技巧を再発見しているような感覚だった。

(略)

このほんの些細な仕事に参加したことが、頭の中にあった何かのスイッチをオンの位置へと戻してもくれた(略)

今度はソロアルバムを作ってみたいといういかにも素敵な考えがどこからかむくむくと湧いて来た。(略)

ベンの方がほかの様々な仕事のせいであまりに忙し過ぎたことも本当だったが、それ以上にこの時はむしろ、ちょっとばかり自己主張をしてみるべきタイミングなのではないかと思われた。

(略)

 

 私はこう宣言したかった。自分はまだ、十六の時にエレクトリックギターを買ってそのままバンドを組んだりしてしまうあの少女のままなのだ、と。

(略)

まず私は、タスカムの四トラックレコーダーを自分用に購入した。(略)取り扱い説明書もたった四頁で私にも十分理解できる内容だった。(略)eベイを探してハーモニウムオムニコードの二つの楽器を手に入れた。

 そして扉を締め、極めて静かに、私は曲を書き、その原初的なデモを作り始めた。歌も演奏も私だけだ。(略)

かくのごとく始まったこの作業が、最終的にはアルバム『アウト・オブ・ザ・ウッズ』となる

(略)

 レコードが半分ばかり仕上がった〇六年の半ば、私は自分が今何をしているかを説明するため〈ヴァージンレコード〉に趣いた。長い沈黙にもかかわらず彼らはなお、この私との契約を維持してくれていたのである。

 社長のトニー・ワズワースは、私は今ソロアルバムを作ろうとしているのだけれど、ツアーに出るつもりはないしビデオに顔を出すこともあまりしたくない、宣伝にもそれほど多くの時間を取られたくはないといった内容を滔々と話している間、実に辛抱強く座って耳を傾けてくれていた。

 数年前ケイト・ブッシュのアルバム『エアリアル』を発売した際にも、彼女本人と今とまったく同じ会話を交わしたものだよと、聞き終わった彼がまず打ち明けた。

(略)