トレイシー・ソーン自伝 その2

前回の続き。

ベンとの出会い

[81年、ハル大に進学]

自治会の経営によるバー(略)

「マリン・ガールズのトレイシーがもし学内にいらっしゃったら、どうぞ受付まで起こし下さい」

(略)

夏の早い段階でもうマイクの口から〈チェリー・レッド〉でのレーベルメイトとなるベン・ワットという名前のソロアーティストが、やはり私と同じタイミングでこのハルへ進学する予定になっていることはすでに聞かされていた。だがそんなのはほとんど頭に入っていなかった

(略)

彼のシングル「カント」も一枚もらっていたのだが、これにも見向きもしていなかった。

(略)

この地獄みたいな場所での数少ない同志になってくれそうな気にもなった。なんと言ってもここは、ラグビーシャツを着た間抜け面の野郎どもと、それに花柄のカーテンの向こうにタンポンを隠した女たちでいっぱいなのだ。

(略)

 あの時からもう本当に長い時間が過ぎている。さて、私はそれでもなお、そこに立っていた彼の姿をきちんと思い描くことができるのだろうか。

(略)

 髪は確かほとんど丸坊主みたいに刈り込まれていたはずだ(略)

下はたぶんリーヴァイスだ。シャツは白だったか(略)

靴がジェームズ・ディーンっぽい青のキャンバス地だったことはおそらく確かだ。それに、その顔が強く印象に残ったこともまた間違いはない。とてもエキゾチックに見えたのだ。

 実際彼は全然イギリス人っぽくなかった。(略)

少し後になって本当に彼が"ロマニ"と呼ばれるジプシーの血を受け継いでいることも判明した。そんなこんなでこの時の彼は残念ながら、取っつきやすそうになど全然見えなかったのである。

(略)

[ベンの部屋に行くと]

びっくりするようなサイズのスピーカーが聳え立っていた。そんなサイズのスピーカーを目にしたことは初めてだった。一般家庭で使われるものとも思えない。そもそも普通に買えるものなのかどうかさえ怪しいほどだ。

(略)

彼のレコードコレクションのチェックを始めた。そこには当時私自身も一番気に入って繰り返し聴いていた二枚のアルバムが見つかった。ヴィック・ゴダードドゥルッティ・コラムだ。

(略)

「信じられないと思ったわ。まさに完璧な運命の相手かも知れないくらいに感じたの。でも今振り返って彼のコレクションにあったほかのレコードを思い出してみると、実はそのほかには一枚たりとて私と同じものなんてなかったのよ。彼はジョイ・ディヴィジョンが大好きで、ほかにはケヴィン・コインやジョン・マーティンなんかに興味を持っていたようだった。私の全然知らない音楽だった」

 物事のすべてが変わろうとしていた。ベンがマリファナを巻きながらジョン・マーティンの『ソリッド・エア』をターンテーブルに載せた。

(略)

彼の父親はジャズミュージシャンで、一時期はビッグバンドのバンドマスターを勤めたこともあった。母親の方は女優からジャーナリストへと転身

(略)

私より三ヶ月ばかり若かったのだけれど(略)

むしろよほど年上に思われた。圧倒的に自信に満ちてすっかり落ち着いているように映ったのだ。まあ、本当は全然そんなことなどなかったことは、じき明らかにもなるのだが。

(略)

パンクそのものはどうやら彼の居場所を大きく迂回して通り過ぎてしまったらしいこともまた明白だった。セックス・ピストルズもクラッシュも一枚たりとて見当たらなかった。

 バンドサウンドで真っ先に彼を魅了したのは、どうやらジョイ・ディヴィジョンであったらしい。その後にマガジンとかワイアーとか、あるいはディス・ヒートといった典型的なポストパンクのバンド群が続いていた。(略)

私がそれまで名前すら知らなかったアーティストたちの作品もコレクションに加えていた。イーノにケヴィン・コイン、ロバート・ワイアットキャプテン・ビーフハートといったラインナップだ。

(略)

ほかにはニール・ヤングの『ディケイド:輝ける十年』とか、ジョン・マーティンの〈アイランド〉レコード時代の作品である『ソリッド・エア』に『ワン・ワールド』なんかがあった。どうやらベンの嗜好というのは、空疎さと音の広がり具合といったものに左右されているようだった。

 もっともソウルの作品もそこかしこに紛れ込んでいた。スティーヴィー・ワンダージョージ・ベンソン、シックにアース・ウィンド&ファイア。それからおそらくは父親経由で好きになったであろうジャズのジャンルのアルバムたち。ローランド・カークビル・エヴァンス、あるいはクリフォード・ブラウンだ。

 しかしポップ系の音はなかった。アンダートーンズにバズコックス、オレンジジュースなどは一切見つからなかったのだ。

(略)

 ベンがマイク・オールウェイと彼の〈スヌーピーズ〉の店で出会ったのは八十年になる。(略)

[ベンからステージに上がらせてと打診され]

マイクは言った。

「君はいったい、どんな音を出すんだ?」

「歌のあるドゥルッティ・コラムって感じかな」(略)

これをお気に召したマイクは、当時はまだ全然無名だったトンプソン・ツインズの十日後の公演での前座の仕事を彼に割り振ったのだった。この時までベンはソロでステージを演ったことなど一度もなく、またレコーディングの経験もなかった。それどころか実際には曲を作ってみたことすらなかったらしい。厚かましさもここに極まれりといった感じだろう。ほとんど狂気の沙汰かもしれない。

 しかし思い出していただきたいのだが、あの、何でも自分でやってみようという教義は、この頃にはまだまだ猛威を奮っていたのである。やりたいと思うことは何でもできるし、やるべきなのだ。そこでベンは家へ帰るとその十日間で十曲を書き上げ、この仕事をやり遂げたのだった。

(略)

エレキギター一本でステージに上がった彼は、前もって録音しておいたドラムマシンのパターンをその場でカセットでかけながら、専ら孤独な雰囲気ばかりをたたえた曲の数々を初めて人前で披露したのだった。たとえば「聖体拝領」とか「とても深い闇」とか、あるいは「アイス」といったタイトルを与えられた歌たちである。そこにジョイ・ディヴィジョンからの影響を見て取ることはちっとも難しくない

(略)

陳腐な在り来たりのロックミュージックを拒もうと(略)

私たちは二人ともそれぞれに(略)最低限の音数で、できるかぎり静かな音楽を作りあげようとしていた。当時はどこの会場でも、音量を抑えて演奏するだけで"舐めてるのか"と言われかねないような趨勢があったのだ。

(略)

[どうしてロックンロールをやらないのかと問われたスチュワート・モクハムの言葉は]こんな感じだ。

「そんなの誰でもできるだろう?町中皆がやってる。だけど俺たちがやりたいのはこういう音楽なんだ」

(略)

私たち二人が共通して持っていた数少ない一枚(略)サブウェイ・セクトの「アンビション」(略)のB面に「ア・ディファレント・ストーリー」という曲が収録されており、この歌詞が(略)私たちの信条ともなって行くのだった。

 

全部のロックンロールに歯向かってやる

拒むことなどできなくなるくらい続けてやる

失くすものが山ほどあるのもわかっているさ

 

(略)

[マイク談]

「ベンは生憎遅れて世に現れてしまった、ある種の様式美を備えた何ものかという感じで私の胸を打ったのさ。(略)

彼の渇きは強烈だった。(略)だから私が一番最初にサインさせたうちの一人が彼だったんだ。(略)

今みたいに誰もがあの早逝してしてしまったニック・ドレイクに言及するようになるよりずっと以前だ」

(略)

 私たちの両方を知っていたマイクは、ベンのレコードコレクションが私に何らかの影響を及ぼしてくれることもまたひそかに期待していたそうである。

(略)

 十一月の十九日(略)唐突に、我が日記には以下のような記述が登場している。

「マイクは口を開くたび私とベンに二人でシングルを出そうと言ってくる。A面をベンの新曲にして、B面には「オン・マイ・マインド」と「ナイト・アンド・デイ」を収録しようと言うのである」

 私たちは自分たちのことをエヴリシング・バット・ザ・ガールと呼ぶことにした。

ポップスターのトレイス

ほどなくして私はジョン・マーティンを聴くようになり、彼の方は私のところから〈ポストカード〉レーベルのシングルを借りて行くようになった。

(略)

最初の学期のクリスマス休暇に私はマリン・ガールズと再合流し、二度ばかり一緒のステージに立っている。それからまた、あのパット・バーミンガムの物置スタジオへも足を運び、ハルにいる間に書きためていた曲の幾つかをやはり自分たちだけで録音している。初めてベンと一緒に[〈アルヴィック〉という]レコーディングスタジオに入ったのもやはりこの休暇だった。この時には三曲を録音し、結局それらが「ナイト・アンド・デイ」のシングルとなった。

 ここでコール・ポーターのカヴァーを取り上げたのは(略)ジャズを復活させようというヴィック・ゴダードの些か物騒な試みに、微力ながら加担しようという訳だ。また同時にマリン・ガールズとして発表していた「オン・マイ・マインド」を二人でやってみてもいる。後の一つはベンが書いて来た新曲だ。

(略)

[出来上がった音を聴いて]

マイク・オールウェイは、当初はB面曲にと考えていたコール・ポーターの「ナイト・アンド・デイ」こそをシングルにするべきだと言い出した。

(略)

 二月にマリン・ガールズは初めての、ジョン・ピールのラジオ番組への出演を果たし、その直後にはデビュー・シングルであった「オン・マイ・マインド」が〈NME〉誌上でシングル・オブ・ザ・ウィークに選ばれた。おかげでハルでの私にはポップスターのトレイスなる仇名が冠せられることにもなった

(略)

[三月には〈メロディーメイカー〉の表紙に]

記事本文に目を通すと、バンド内にひびの入り始めた兆しがあることが容易に読み取れてしまう。(略)

私自身は実を言えば、アマチュアっぽいことを理想として掲げているという事実によって、ライヴでの音にどうしても限界が生じてしまうことに少々うんざりし始めてもいたのだが、なるほどこの特徴こそが、当時の私たちが体現していると見做されていたものでもあったのだ。

(略)

 フェミニスト的な視座から言ってもこの点は同様で、女性のミュージシャンがこういった偶像的な位置に自ら留まり続けようとすることはすなわち、聴衆たちのどこかこちらを見下しているようなある種の期待に対し、単に迎合しているだけのようにも感じられ始めていたのである。(略)

けれどジェーンとアリス(略)は、自分たちの音楽があまりにプロっぽくなり過ぎたり、あるいはプロデューサーの影響が大きくなって行くことによってそれが一層商業的に、つまりは手触りがよくなり過ぎたりしてしまうことの方を懸念するべきではないかと主張した。

(略)

 今やポストパンクの大命題ともなっていたはずの、主流を回避し、ポップソングというものを解体再構築するのだという同意さえもがすっかり分裂を始めており(略)

スクリッティ・ポリッティ(略)でさえもが、贅沢で豪華なサウンド作りを基礎においた新たな考え方を編み出し始め、ポピュラーの市場へと浸透して行こうとし始めていた。

(略)

 こんな状況の中で半熟練程度の技術でなお音楽をやって行こうとすることには、単に時代遅れで身勝手な(略)行為に見えてしまいかねない危険性がつきまとうようになってきた。

(略)

学校の課題でイギリス都市部の指標的建造物なんかのことを勉強しながら、同時に私たちは〈メロディーメイカー〉の表紙に登場し(略)

一週間後には〈NME〉にマリン・ガールズのインタビュー記事が載り、それからさらに二週間後、今度はベンのインタビューが〈メロディーメイカー〉の方に掲載された。(略)そしてこの後には〈NME〉にエヴリシング・バット・ザ・ガールの記事が登場(略)

 マイクは正しかった。物事は容易に見えていた。曲を書きレコードを作ればほとんど毎週と言っていいペースで音楽誌が私たちを取り上げた。そもそもの曲を書くという行為自体も、基本的には簡単だった。

(略)

 今の私が書いている歌詞というのは専ら個人的なものである。自分の人生の毎秒毎秒が実に色鮮やかで、しかも細部と事件とに富んでいると気づいてしまえば、主題となり得るモチーフには事欠くこともない。

(略)

聴く側の興味を引くにはあまりに個人的に過ぎはしまいかといった心配は、恐縮ながらかつて一度もしたことがない。たぶん特にどういった人たちに対してというような、特定の聴衆を想定したことさえないはずだと思う。

 私が感じるのは、そこで今自分が曲を書いているそのまさにその時と場所とに、自分が完璧に結びつけられているのだという気配である。それ故に、私を囲んでくれている人たちというのはきっと私と同じように感じ、これらの言葉を理解してくれるだろうと信じることができるのだ。

(略)

こうした注目(略)がどれほど貴重なものか(略)そして一旦失ってしまったそれを取り戻すのがどれほどの難事であるかなど、この頃にはまだ想像すらしていなかった。

(略)

この週には「ナイト・アンド・デイ」が一位に、またマリン・ガールズの「オン・マイ・マインド」が九位に、二曲同時にランクインを果たしてもいる。

(略)

[八月にはソロ『遠い渚~ア・ディスタント・ショア』]

最初はマリン・ガールズの新曲にしようと考えて着手したのだけれど、書いているうちにあまりに個人的な部分まで深入りし過ぎてしまったものだから、結局これらは自分で歌う以外には考えられないなと思うようになってしまったのだ。

 そこで私はまたパットの物置へと足を運び、とにかく一旦吹き込んでみた。全部録るのに二日か三日(略)費用も確か、全体で一六七ポンドで済んだ(略)

デモのつもりでマイク・オールウェイに送ってみた。すると彼が、これはこのまま出すべきだと断固たる態度で主張して来たのだった。

(略)

八二年の夏に本作が発売になった頃までには、ベンと私はもうすでに幾つかの共同作業を仕上げ(略)アパートで一緒に暮らすようにさえなっていた[が](略)同作が内に捉えている空気というのは、いわば不安と傷つき易さとにすっかり染められたものでもあった。

 最初に収録されている「スモール・タウン・ガール」[は](略)恋に落ちることをどうにか回避しようとしている内容なのだ。

「その愛はしまっておいてちょうだい/私もそうするつもりだから」

(略)

興味さえ持ってくれてもいない男の子に恋をしてしまったことを、私はなお、つくづくバカなことをしたものだと感じていた。(略)

[その愚を繰り返したくないと]

ベンと私はこの頃まで、半ば拷問じみた数ヶ月を送って来ていたのである。お互いに近寄ってはまた離れ、関係を始めてしまっては一旦それを終わらせてしまう。そんな繰り返しだったのだ。

 それは本当に辛い経験でもあったのだが、同時にこの私に多くの閃きをもたらしてくれた(略)同じような人生の段階にいる多くのリスナーたちの胸の、その深い場所へとまっすぐに響くような何ものかを作り上げることができたのだ。

(略)

十月に受けた〈サウンド〉誌の単独インタビュー[での発言](略)

 「聴いていると気分が落ち着いてくれると言ってくれる人が多いこともわかってはいるけれど、でも実は私自身はそんなことは全然ないのね。むしろギリギリの場所へと追い込まれてしまうの。確かに音は大人しめかも知れないけど、歌詞は明らかにそういうものではないはずだわ。だから、そんなふうにバックグラウンド・ミュージックの類と一緒にされてしまうことは、正直言って気に食わないの」

ポール・ウェラー

[82年、ジャム解散を宣言した24歳のポール・ウェラーは]

私たちの数多くにとっては、ほとんど英雄にも等しい存在となっていた。(略)若者たちの信頼に十分足る世界観と商業的な成功とを結びつけるという難事にいとも軽々と成功を収めていたのである。(略)

[「ナイト・アンド・デイ」をいたく気に入り]

私たちをプロデュースすることにも興味津々であるらしいという。

(略)

ベンと私とが、二人一緒に舞台に立つ初めてのライヴ(略)"ロックウィーク"なるイヴェント[にポールが飛び入りするかもという連絡](略)

 この時期私たちはまだハルの、電話すらない学生用アパートに暮らしていた。(略)詳細な打ち合わせをするためにはポールの方が道端の公衆電話に電話をかけて来るという方法しか見つからず(略)時間が決められて、私たちは二人してそのクリーム色の狭い電話ボックスの中へと体を詰め込み、機械が鳴り出すのを待っていた。

(略)

ベンが受話器を取ると、回線の向こう側にいたのは本当にポール・ウェラーその人だった。お互い当惑が隠せなかった。二人してだらしなく口を開けたまま、言葉も発せずただ指で受話器を示し合った。(略)

 しかしまだこの段階ではベンと私には十分な持ち歌なぞなかった。そこでロンドンまで行ってポールに会い、幾つかのカヴァー曲を一緒にリハーサルしてみることになった。(略)長年の憧れだった相手と直接会って、しかも同じ練習スタジオに入るなんて(略)しかもその相手が、私たちと一緒にステージに上がりジャズのスタンダードを演奏するというアイディアに夢中になっていると言うのである。

(略)

[リハーサル後も当日本当にポールが現れるか定かではなく、ライヴ当日も不安な数時間を過ごしていると、出し抜けにポールが登場し心底ほっとする]

「それで、君らはどんな格好をする予定なのかな?」

彼が尋ねた。

「ええと、これのつもりなんだけれど―――」(略)

私はやはり多少着込んでしまった五〇年代風の柄物のドレスで、ベンはと言えば、白シャツにジーンズ、それからコーデュロイの帽子という、よくいえばジャック・ブレル風の格好だった。(略)

「(略)できるならもうちょっとだけオシャレした方がいいと思うぞ」

(略)

 彼本人は青地に水色の水玉模様のコットンシャツに、細身で灰色で、前にカミソリほどに鋭い折り目の入ったリーヴァイスのスタープラスト、その下が白の靴下に黒のボウリングシューズという出で立ちだった。髪型がまた完璧だった。一番天辺はまっすぐに立ててあるのに耳の周囲はきっちり刈り込まれているのだ。どこをとってもまさに先端のその最先端という感じである。この夜の写真を見てみると(略)私たち二人がどこかみすぼらしい一方で、彼の姿はまさしく夢みたいなのである。

(略)

ベンと私[が「オン・マイ・マインド」、「ネヴァースレス」、「ウェイティング・ライク・マッド」を演奏すると](略)

私たちにさえ何の予告もなくポールがステージの半ばまで不意に進んで来た(略)

興奮が一気に会場を席捲した。ジョン・リードが書いたウェラーの伝記で私自身が発言している通りだ。

「会場全体が気絶しちゃったみたいだったわよ」

 実は私はこの夜の海賊版のテープを持っている。何年か経った後でカムデンマーケットで見つけたのだ

(略)

私の声がする。なんだか生意気そうだ。

「これから演るのは本当に古い歌なの」

 そしてジャムの「イングリッシュ・ローズ」が幕を開ける。(略)

[演奏が]終わるなりポールが(略)あの間違えようもないしわがれた声でこう言った。

「センキュウ!」

 その次は「ナイト・アンド・デイ」(略)ポールがギターソロを弾いている。続いては「フィーヴァー」のカヴァーだ。(略)

イパネマの娘」(略)で私とポールは明らかに、それぞれ懸命に笑いをこらえようとしている(略)

 確かにこの段階までの彼のキャリアを鑑みれば、この歌をポール・ウェラーが歌うなんてことはほとんど考えられない事件だった。

スタイル・カウンシル

 皆様当然御存知かも知れないが、これはスタイル・カウンシルの最初のアルバムがまだレコーディングすら開始される以前の出来事で、だからあのポールのいきなりの、ジャズのつややかな洗練さの追求への転身など、誰一人としてまだ予想だにしていなかった時期だった。しかも、ジャムの解散コンサート以来、彼が公の場に姿を見せたことさえ実はこの時が初めてだった。

(略)

この後もポールは連絡を取り続けてくれ(略)自分のアルバムに、二人にも是非参加して欲しいのだと言うのである。彼の情熱はこちらにも信じられないくらいの火をつけてくれもしたのだけれど、彼の思考のプロセスというのが、ついていくのがかなり大変な種類のものであったことも同時にまた本当だった。

 まず手紙と一緒にテープが届いた。私に歌ってもらおうと考えている幾つかの曲のデモなのだとの説明があり、数枚にわたった手書きの歌詞も添えられていた。一曲目にとりかかりまずはとにかく覚えようとしたのだが、ところが二週間も経たないうち別の郵便が到着し、同封された手紙には、計画をまるっきりがらっと変えることにしたからと記されているといった具合だったのだ。

 最初私は「ヘッドスタート・フォー・ハッピネス」に夢中になった。ところが次に着いた手紙の内容はこうだった。

「なんだか「ヘッドスタート~」にはあまり自信が持てなくなってしまったんだ。でも、是非とも君ら二人に参加してもらいたいと思える新曲が一つできた。二声のコーラスがある曲で、それがすごく近しい和声で、こういうのこそきっとトレイシーの声には似合うと思うんだ。こいつは「ラン・アウェイ・ウィズ・ミー」っていうタイトルでね――」

 この曲に関しては実は聴いた記憶もないのだが、でもその次には「ゴースト・オブ・ダカウ」というトラックの入ったテープが我が家の玄関マットの上へと到着し、その直後にようやく、最終的にアルバムの中の我々の居場所として落ち着いた「パリス・マッチ」のデモが届けられて来たといった案配だった。

 いよいよレコーディングのため(略)〈ソリッド・ボンド・スタジオ〉へ

(略)

 ポールは何度も何度も、それこそ数えきれないくらい私にヴォーカル録りをやりなおさせた。でも私はそういうことにはまったく慣れてはいなかった。この頃までの私は、いうなれば"一発テイク少女"だったのだ。そのうえ飽きるのもくたびれるのも早かった。どうにも忘れられないのは、いったいどんな理由であったのか、ポールは私の"ファイア"の語の発音の仕方をあまりお気に召してくれず(略)何度も何度も、それぞれ少しずつ違って響くように模索しながら繰り返した(略)

しかしどうやってみても私には結局同じにしか聞こえてこなかった。

 こんなふうに言ってしまうと私がいかにもがさつに思えてしまうかも知れないが、正直言ってレコーディングなるもののすべての過程におけるそのやり方が、それまで知っていたものと全然違っていたのである。それに加えて、こちらは推測に過ぎなくなるが、おそらくポールはこの段階に至ってもなお、自分が今やろうとしていることの根本的な考え方に関し、小さくはない葛藤を抱えたままだったのではないかとも思われる。

(略)

[スタイル・カウンシル『カフェ・ブリュ』]

私自身はここにある彼の躍動感と、その斬新で小洒落た文脈とのせめぎ合いの中から生まれてくる緊張感が大いに気に入っているのだけれど、大衆にはこれらは、ただ混乱を呼び起こすばかりだったようでもあった。

(略)

このジャズへの心酔の背景にありかつ促進剤の役目を為していたものの一部は、あえて程度の低いままのアマチュア主義とでもいうようなものをよしとしてきた、しかもすでに時代遅れにもなりつつあったインディーズ勃興期の、とにかくは自分でやってみろというあの倫理観に対するある種の飽きが、この時期急速に大きくなりつつあったという点にもあったのだと思われる。

(略)

スタイル・カウンシルがまず、贅沢で欧州大陸的でかつ知的でもあるといったイメージを標榜することにいとも軽々と成功を収めた。同じ時期に私たち自身もまた、インディーズのシーンに顕著であった、ただ逆らうためだけの小っぽけな野心以上のものを必要とし始めてもいたのである。まさにサイモン・レイノルズが明快に指摘している通りだ。

「ポストパンクの面々がいきなり、卒倒したりあるいは危険に酔ったりするような行為に対しての拒絶を顕わにし始めたのだ。そして、むしろ沈思黙考し、自らを蒸留でもしようとするかのようなスタンスを取り始めたという訳である。そしてあらゆるものから一切の神秘性が剥ぎ取られようとし始めたのだ」

(略)

女の子バンドの死

 〈ICA〉でのポール・ウェラーとの共演という事態は(略)マリン・ガールズの終焉のその始まりとなっていた。(略)

ジェーンと私とでは、音楽的なアマチュア主義とでもいったものに対する態度がずいぶんと食い違って来ていた。そこに今度は野心や名声、それから成功といった要素がさらに加わって来たのである。パンクがいとも容易く絨毯の下へとしまい込んで隠してしまったはずのこの手の醜悪な考え方のすべてが(略)じわじわと甦りつつあったのだ。(略)

 八二年の九月マリン・ガールズは(略)セカンドアルバム『けだるい生活』をレコーディングした。プロデューサーの任には(略)ステュワート・モクサムが就いてくれたのだが、これがまた想像し得る限り最も放任主義的なやり方だった(略)

[結果]本物のレコーディングスタジオまであてがわれていたというのに、このアルバムはあらゆる意味で『ビーチ・パーティー』ほどよくは聴こえてこない仕上がりとなってしまった。あっちは庭の物置で収録されたものだったというのに

(略)

音響的な面ではこのレコードは確かに『ビーチ・パーティー』より滑らかにはなっている(略)が、パンクの精神のようなものは部分的に失われてしまっている

(略)

[ギタリストより]シンガーとしての道にこそ、私の未来というものは拓けているのではあるまいか。(略)

[しかしヴォーカルはアリス](略)交代して欲しいなんて話を切り出すこともほぼ不可能だった。だってもしそうなったとしたら、ではアリスはいったい何をすればいいのだと(略)もし万が一彼女がいなくなってしまう[なら](略)今度はマリン・ガールズそのものがどうなってしまうかわからない。

(略)

[客席から投げ込まれたグラスの片付けを拒否するアリス]

 これこそアリスなのだ。漂白して垂直に突き立てた髪をたっぷり六インチも頭の上に載せ、革のミニスカートにブーツといった格好で、いつも聴衆に向かってかかってこいと手招きしていたのである。

(略)

〈ライセウム〉では我らがヒーロー、オレンジ・ジュースの前座(略)

私たちは夕方六時に会場に到着した。(略)ところがオレンジ・ジュース側のスタッフと事務所はすでに怒り狂っていた。(略)

「こんな時間に来て、いったいサウンドチェックはどうするつもりだッ」

「ええと、でもサウンドチェックって何?」

 私たちはそう訊いた。本当にそんなこと一度もやったことがなかったのだ。

(略)

 この時はエドウィン・コリンズが仲裁に入ってくれて、その夜の出演予定から外されてしまうという不名誉だけはどうにかこうにか免れた。私たちは大人しくアンプをステージ上へと運び、電源を入れ、そのサウンドチェックなるものを二分足らずで済ませると、その場に留まって夜のライヴに登場することを許されたのだった。

 いずれにせよこの時期にはもうすべてが最早時間の問題になっていた

(略)

[グラスゴーで]

 最前列に陣取っていた何人かのガキどもがこちらに唾を吐きかけて来たものだから、私はそのまま舞台を降りてそこでライヴを切り上げてしまった。(略)

[その後が]問題だった。私たち三人の間に口論が始まったのだ。

(略)

しかしもちろん、私たちが本当に口に出したかったことはそれぞれに別にあったのだ。

 そこにはアリスの彼氏の問題も含まれていた。確かこの夜は彼もまた、何かの役割を与えられて私たちと一緒に舞台に上がっていたのだ。その事実がさらに私を腹立たしくさせていた。誰も誘ってなどいないのにこいつは自分から勝手にバンドに加わって来て、さもその一員であるような顔をしていたからだ。

 思い出したくもないような熾烈な言葉がやりとりされた。そしてその夜が終わる頃までにはもう、マリン・ガールズなるバンドはどこにも見つからなくなっていた。

(略)

 二〇〇五年にこの本を書くことを思い立った時、ようやく私は実に二十年かそれ以上振りに初めて、ジェーンとアリスと、それからジーナとに会ってみた。そして、お互いに一切合財を曝け出してもみたのである。

(略)

[バンド終焉の]話題は穏やかに始まり、途中でわずかばかりの熱を帯びこそしたけれど、最後にはやはり平穏のうちに幕引きを迎えた。それぞれの言い分はすべて表にし、そうやって仲間うちの平和を取り戻すことにも成功できた。

(略)

 当時私たちが目の前にしていた観客たちというのはその多くが男性で、しかもロックのライヴを観るつもりで足を運んで来た人たちだった。そこで私たちは基本静かに、しかし確実に反抗的に、自分が愛したり(略)軽蔑したりしている男の子たちのことを率直に歌ったような曲たちを、異世界ともいうべき場所にあり、ほとんど魔法めいた空気さえ思わせてくれる"海"なる存在に対する、奇妙で一見不可解な言及をほぼ常に交えながら披露していた。

 私たちは"自分たちだけの"と呼んでも差し支えない世界を構築することに十分な成功を収めていた。(略)

そんな勇気をあの時期自分がどこから得ていたのか、あるいはあれほど自分たち独特で、伝統になどまったく縛られていないと胸を張ることができるような想像力がいったどこからやって来ていたのかという点に関しては、まるっきり見当もつかないし、それがわかる日がいずれ来るだろうとも思えない。ただ言えるのは、私たちが当時周囲にいた誰とも似ておらず、その意味で革新的であったこと、そしてステージの上で敢然と観客たちの予測を裏切ろうとすることができるほどには勇猛であった点だけは、間違いなく確かなのである。

(略)

推移は確かに不様としか形容しようのないものだったが、私たちがあの段階で解散してしまった事実にはある種の完璧ささえ見え隠れしている気がするのだ。少なくとも妥協のないインディーポップとしての一つの伝説を残すことができたのだから。

 我々の二枚のアルバムはそれぞれ五万枚程度の売り上げには達していた。とりわけ最初の一枚が、まだ学生だった私の寝室で産声を上げ、最終的に仕上げられたのもせいぜいが物置の中だったことを思い併せれば、これは尋常ではない事態だったと言ってしまってたぶん差し支えはないだろう。

(略)

インターネットが登場し(略)私たちはポストパンクのあの、全部自分でやりましょうとでもいった主義を先頭に立って実践した、いかにも尖鋭的なバンドとして再評価されるようになり、今や当時以上に崇敬の対象ともなったのである。

(略)

解散から十四年(略)『ジュールズ倶楽部』[にマッシヴ・アタックと出演]

(略)

いよいよ収録が始まろうかという段になると(略)ありとあらゆる眼差しがコートニー・ラヴへと向けられているような空気になった。(略)

カメラが回り出す直前(略)ギターをその場に置いたかと思うと、中央の何もない場所をすたすたと歩き、座っていた私の隣に来てしゃがみ込んだ。彼女が言った。

(略)

「貴女って確か、あのマリン・ガールズのトレイシーなのよね?カートと私は二人とも貴女たちのバンドの大々大々ファンだったのよッ」

 この時はまだ、あのカートの突然の死からさほどの時間が経っていた訳でもなかったはずだ。

「ほら、あれが私のバンドのホール。聞かされてるかも知れないけど、あたしら今日は貴女たちのカヴァーを一曲演るのよ。「イン・ラヴ」ってやつ」

(略)

後になってわかったことだが、私たちの伝説を遙々オレゴン州ポートランドへと持ち込んだのが、我らが古い友人の一人(略)カルヴァン・ジョンソンであったことが判明し、そこですべてが腑に落ちた。最初に彼は同地で、ほとんど私たちのイメージややり方を踏襲するようなビート・ハプニングというバンドを結成した。(略)

その後彼は自分で〈サブ・ポップ〉という名前のレーベルをやはり同地に立ち上げるのだけれど、この会社が最終的にニルヴァーナと最初の契約を交わしていたのである。

 だからこのカルヴァンが、カートとコートニーの二人に、レインコーツやクリーネックスと一緒にあの『ビーチ・パーティー』を聴かせていたのだった。

恋人とバンドを始めること、フェミニズム

[83年3月には〈ロニー・スコッツ〉で]ウィークエンドと一緒の舞台に立った。

(略)

 ポール・ウェラーもこの時また私たちを観に来てくれていた。そしてその彼を見るためにさらにたくさんの人々が集まっていたのだ。

(略)

仮に"ニュー・ジャズ・ムーヴメント"なんてものがあの頃本当に存在していたとしても、私たち自身はそれほど関与していた訳ではなかったはずなのだが、とにかくまあこの現象は、音楽のみならず、むしろ服装の分野の方においてより顕著だったようだ。

(略)

 確かに私たちは「ネヴァースレス」とか「ナイト・アンド・デイ」とかいったジャズのスタンダードを〈ロニー・スコッツ〉でのライヴで取り上げるようなことをやっていた訳だが、同時にエコー&ザ・バニーメンの「リード・イット・イン・ブックス」をカヴァーしてみるなんてことも試みていた。しかも皆その理由も理解してくれていた。

 基本的に私たちの音楽は、ちょっとだけインディーズっぽく、同時にちょっとだけボサノヴァっぽかった。

(略)

予想を裏切るようなカヴァーヴァージョンだけで自分たちのレパートリーを永遠に増やし続けて行く訳には到底行かないことも明白だった。もしエヴリシング・バット・ザ・ガールが真剣に今以上の何かになろうとするならば、どうしたって自分たち自身の曲というものを作り始めなければならなかった。

 さて、ではここで問題である。はたして自分の彼氏なり彼女なりと一緒にバンドを始めることは賢い判断だと言えるのだろうか?

 おそらく答えはノーである。

(略)

同居こそ始めてはいたけれど、互いに相手からの独立とでもいった部分に関しては、それぞれにある意味頑なとも言えそうな姿勢を保ったままでいた。

 この贅沢なハルの風呂なしアパートを共有していながらも私たちは、爆ぜる音を立て続ける例のガスストーブを囲んで座り込み、一緒に曲を書こうとしてみるなんてことはほとんどしてはいなかった。その代わりにむしろ私は、仕事ができる一人きりになれる時間をなんとか見つけ出そうと必死で足掻いたのだった。

(略)

ベンがどこかへ出かけて行くのを待ってからようやくギターを手に取り、さてアイディアを出そうかと頭を捻り始めるといった案配だったのだ。

 おそらくこの時期にはまだ、創造という行為の難しさは日々の暮らしなるものと密接に関係しており、誰かと一緒に仕事をするなんてことはむしろ障害の一つであるくらいに考えていたのではなかったかと思う。実際私は極めてしばしばベンについて、そして私たちが築きつつあった関係についての歌を書こうとしていたというのに、その彼のそばに座って目の前でこうした作業をするということは、まだとても簡単には踏み出すことのできない大きな一歩だったのだ。

 一方でこの頃の私はフェミニズムというものへも目を開き出していた。(略)

フェミニストたちの著作を通じ、十代の頃から感じてきた本能的な違和感の多くの部分に、自分でも論理的な枠組みを見い出せるようになりつつあったのだ。

(略)

女の子だけの(略)バンドの一員であったことは、フェミニズムの観点からいえば明かに善い行いと呼んでよかった。女性ソロアーティストとなることも同様に許容範囲だ。しかしでは、自分のつき合っている相手とバンドを組もうとすることはどうなのか?(略)

 いや実際、彼氏を持つということ自体が実はまるっきり不様なのではあるまいか?一夫一婦制がいずれ目を背けたくなるような圧政的なものになることは、これはもう避けがたい事実なのではなかったか?ならば私はレズビアンにでもなろうとするべきなのではあるまいか?

(略)

 結局のところ、一緒に恒久的なバンドをやろうという確固たる決意を固めた瞬間などというものは、こと私たちの間には一切なかった。むしろそれは、この時お互いが置かれていた現実からやむなく浮かび上がって来た、いわば苦渋の選択だったのである。(略)

[苦労して]それぞれに四曲ばかりずつどうにか完成できたところでお互いにふと閃いたのだ。なんだ、二人の曲を持ち寄ればだいたいほぼアルバム一枚分になってくれるではないか!

(略)

これは神様に誓って言うが、もしこの先さらに何年も何年もこの形で一緒にやって行くことになるのだとこの段階で二人ともがわかっていたとしたら、せめてもう少しまともな名前を考えようとしていたはずだ。

(略)

私たちが採用した新しい形というものが、いわば流行の最先端で、極めて今風に思えたこともここで同時に指摘しておかれるべきだろう。(略)

ヤズーにユーリズミクス、コクトー・ツインズといった(略)旧態依然とした男性四人の編成によるバンドという考え方に揃って二本の指を突き立てて見せる、その仲間にいよいよ加わったのだった。

(略)

グループを組むと(略)力関係と指揮系統の問題という要素が必ずつきまとってくる(略)

[私は意志が強く、しかもマリン・ガールズでの妥協を後悔していた]

一緒にやったとして、その場合グループ内の民主主義というものはどのように働くのであろうか。ひょっとして我々の関係性というものが時に仕事に優先してしまったりもするものなのか。たとえば喧嘩でもしてしまったら、その同じ夜にライヴをやるなんてことは本当に大丈夫か。誰が仕切り最終的な決定を下すのはいったいどちらか。

 [最大の問題は]もし私たちがカップルであることを止めてしまった時バンドはいったいどうなってしまうのだろう(略)なおグループであり続けることができるのか。この問いはやがて一九八三年、私たちがほとんど別れる寸前まで行った時にその答えを得ることになる。端的にいえば答えはノーだった。あの時期私たちはグループでなどまったくなかった。

『エデン』制作、5つのルール、シャーデー

[プロデューサーを誰にするか]

はたして私たちにはプロデューサーというものが必要なのか。

(略)

[私はステュワート・モクサム、ベンはケヴィン・コインとしか仕事をしたことがなかった]

[「カント」録音当日がFAカップ終戦]片方の耳にはずっとイヤホンが嵌められ、(略)[ブースに入ったベンが]コントロールルームにいたケヴィンへと目を向けた時、その彼はまさに拳を宙へと突き上げたところで、唇は明らかに「ゴーーールッ」と動いていたのだそうだ。

(略)

 最初に名前が挙がったのはロビン・ミラーだ。彼もまた、私たちも尊敬していたこの業界では有名な一匹狼で、純粋に音楽とミュージシャンとが大好きな人物であった。レコード制作における彼の哲学というのは極めてシンプルで、ただバンドに自分たちが意図しているものは何なのかをしっかりと見極めさせるということだった。

(略)

ちなみにこの時期の彼は私たちについてこんなふうに形容している。

「本当に奇妙な、異形とも言うべきジャズの配合亜種を創り上げている。しかもそれでいて同時にバズコックスみたいな連中からの影響までまだ引きずっていやがる」

 まさに私たちが目指していたものに対する的確な把握(略)

しかもこの言葉は、彼が私たちとシャーデーとの相違をしっかり見抜いていたことの証明にもなっている。同じ頃彼は実は彼女たちの『ダイアモンド・ライフ』のアルバムも手掛けていたのだ。

(略)

[『エデン』制作中]同じウィレスデンの〈パワー・プラント・スタジオ〉に頻繁に出入りしていた(略)彼らは全員が全員、こちらが思わず気後れしてしまうほど豪勢で立派でセンスも良く、インディーシーンなんてものとは完璧に無縁の存在だった。

 彼女たちはある意味"ニュー・ジャズ"というムーヴメントの有するクールでソウルフルな美学を心の底から愛し、同時にそれを自らの手で具現化しようとしてもおり

(略)自分たちの作品をポップの文脈へと移植することにも容易に成功した

(略)

[『ダイアモンド・ライフ』〈ブリットアワード〉最優秀アルバムに輝き]

一方の私たちはと言えば、借家のあのアパートへと帰ってストーブの横に並んで座り、式次第の全部の中継を、これもやはり借り物のテレビでずっと見続けていたのであった。

 対照的に我々の『エデン』は、不思議さという点でははるかに勝る仕上がりになったとくらいには言っていいのかも知れない。ここに至ってようやく私たちも、自分たちが目指している音楽の方向性とでもいったものの明確な輪郭を、多少なりとも捉えることができるようになり始めていたのだ。

(略)

[小規模編成の五〇年代風ジャズの]どんな要素が気に入っていたかというと、それは演奏の正確さだった。必要以上にはしゃぐこともなければ装飾過剰になることもない、その方法論だったのだ。(略)ジャズトリオの簡素さの中に通底していた、パンクの純粋さとよく似た何かを見つけていたのだろうと思う。

(略)

[ベンのお気に入り前衛バンド、ディス・ヒートのチャールズ・ヘイワードでさえ]

次のような我々のルールその一を遵守することを強いられたのだった。

 スネアはロックっぽ過ぎるので使用禁止。使っていいのはリムショットだけ。

 ちなみにルール第二はこうなっている。

 エレクトックベースも使用不可。代わりにコントラバスを使うこと。

 ギターにはワーキング・ウィークのサイモン・ブースが参加してくれたのだが、彼にはルールその三を甘受することが課せられた。

 アコースティック・ギターはフォークっぽくなり過ぎてしまうので不可。だから彼もまたこの作品では、エレキギターセミアコースティックしかプレイしていない。

 スタジオにはハモンドオルガンもあった。すごく六〇年代っぽくてカッコいいなとも思いはしたのだが、しかしルールその四に抵触していた。

 ピアノも禁止。だって七〇年代のおぞましいバラードロックみたいなんだもの。

 そしてルールその五である。

 バックコーラスは使わない。テカテカし過ぎるし作り込み過ぎに響くし、そもそも基本無意味だから。

 ところでこの『エデン』は八三年の秋にはすでに完成していたのだが、リリースは翌八四年の六月まで待たなければならなくなってしまった。

(略)

マイク・オールウェイが〈チェリー・レッド〉を離れ〈ラフ・トレード〉のジェフ・トラヴィスと組んで仕事を始めたことが原因だった。(略)大手の出資を受けたインディーレーベルというのがその根幹の構想だった。基本的にはインディーズであることの利点を活用しつつ、資金的な規模や支援を拡大したいという意図であった

(略)

このレーベルは〈ブランコ・イ・ニグロ〉と名付けられる(略)

マイクは私たちにもここに合流して欲しがっていた。しかし不幸なことに(略)〈チェリー・レッド〉との間に極めて厳密かつ拘束的な契約書を交わしていたのだ。

(略)

[契約から逃れ、合流までに一年がかかり、その間]

私たちのアルバムは(略)会社の棚の上で徐々に萎れて行くばかりだった

次回に続く。

 

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