明治国家をつくった人びと 瀧井一博

シュタインからの手紙

[明治15年福沢諭吉ローレンツ・フォン・シュタインから手紙]
福沢が大きな感動をもって、この世界的大学者からの来簡を手にしたことは想像に難くない。[『時事新報』にそれを掲載]
(略)
[渡欧した伊藤博文が面会し感銘を受け、以降日本人の]「シュタイン詣で」なる現象が招来される。(略)
 注目すべきは、このようなシュタインと日本人との関係が、進んだ西洋が遅れた日本に対して高みから教え諭すというような一方向的なものとはやや趣を異にしていたことである。シュタインのなかには日本に対する関心が充満していた。
(略)
[福沢宛の書簡の中でシュタインは]
 福沢や伊藤と接触する以前から、自分は日本の法制史や国制の研究に従事していたというのである。そして近時の日本の発展は誰もが感服しているところであり、その証左として自らも会員である「墺地利科学校」(オーストリア帝国科学アカデミー)の刊行物のうち、日本史について論じられた新刊書を贈呈する旨記されている。
 はるか極東の一島国にかくも旺盛な関心を寄せ、日頃から日本発行の英字新聞を目にしていたというシュタインの識見は驚嘆に値する。
(略)
[文部官僚・木場貞長回想]
ある日シュタインは地球儀のところへ余を呼び、指し顧みて曰く、ヨーロッパ文明及びこれ等の諸国は、この地中海を囲繞して発展して来たのだ、自分の講義も従ってこの地中海中心の講義を出ないと思う。君等の将来の発展はこの別個の日本海と、この支那海を中心として期せられればならぬ。同様にして君等の学問も亦斯くあらねばならない、と。
(略)
木場らに対してシュタインは、西欧文明を相対化するかたちで地中海文明圈を論じ、そしてそれと比肩する東アジア文明圈の樹立を鼓舞したのである。シュタインが当時の日本人とのあいだに親密な交流を築いた背景には、このような彼のグローバルな視野と多元的な文明観があったことは疑えない。
(略)
[シュタインは福沢の『時事小言』を「政体学」の書とみなして、共鳴していた。]
グリムの次世代に属するシュタインにとって、その課題に応えることはもはやゲルマン的過去に沈潜するロマン主義的傾向では叶わず、産業化の胎動を視野に収めた、より動態的な法創造の理論が求められていたのである。
 それを決定的にしたのが、1840年代における彼のフランス体験だった。パリの地で階級対立の萌芽に接したシュタインは、貧民がプロレタリアートという一個の階級と化し、革命勢力へと転じるという社会の運動法則に開眼する。そこから彼は一連のフランス社会論を著すのであるが、それらは、ドイツの社会主義者たちに大きなインパクトを与えることになる。かのマルクスが、プロレタリアートの概念とその革命的意義をシュタインの著作から学んだとされることについては、すでに言及した。
 マルクスプロレタリアートの発見を通じて共産主義革命の理論を打ち立てたのに対して、その後シュタインは社会改革を提唱していく。そのために彼が邁進したのが、行政学の体系化だった。それは国家学の再興を企図したものだった。かねてよりシュタインはサヴィニー流のローマ私法学によって法学教育が独占され、法学部が国家行政を担う官僚養成の府として体をなさなくなることに警鐘を鳴らしていた。政治経済学を網羅的に包摂した学問体系を国家学の名のもとに統合し、階級を超越した全体的利害の体現たる官僚のための政治的教養を教授する場として法学部を革新すべきことを、シュタインは唱えていたのである。
 行政学はそのような国家学の中核をなす理論として、シュタインが心血を注いだものであった。今日の社会は、既述のようにもたざる階級としての労働者層を再生産し、彼らに革命意識を植え付けていくことになる。そのような階級対立を不可避的にはらんだ社会とは自立的なものではあり得ず、自壊を余儀なくされている。そこで必要とされるのが、中立的な国家権力による上からの社会問題の解決であり、行政による法秩序の実現とされる。
 以上のようにしてシュタインは、国家の行政活動を理論化しようとした。このことを彼の国家観に即して説明し直すと次のようになる。シュタインによれば、国家は自我、意思、行為の三つの要素によって構成される一個の人格とされる。すなわち、国家とは単一の人格的実在として、自らの意思を形成し、その意思にもとづいて行為するのである。そのような国家の意思形成の作用をシュタインは憲政と呼び、行為の作用を行政と呼ぶ。そして国家は、その自我を表象する君主、憲政を担う議会、行政をつかさどる政府という三つの機関が相互に独立しつつ、互いに作用しあってひとつの調和を形作ったものと言い換えられる。
 このように国家を三つの要素及び機関に分割したシュタインであるが、彼の関心は明らかに行政にあった。シュタインの思想として、しばしば「社会的君主制」ということが取り沙汰される。社会問題の解決のために積極的かつ主体的に行動を起こすのが君主の務めだとする能動的君主論である。そこから時として、彼は明治憲法の絶大な天皇大権主義の理論的支柱となったとの議論がなされることもある。(略)[がしかし]
シュタインにとって君主の働きとは、国家の自己同一性を示すラベルに他ならなかった。その作用は、国家という運動体にとってみれば、受動的かつ静的なものにとどまるのである。
 これに対して、国家の運動法則を指し示すのが憲政と行政であり、議会と政府の関係である。憲政が国家の意思形成の作用であること、前述の通りであるが、それは国民の政治参加の制度的表現でもある。
(略)
国民の選挙にもとづく憲政とは、社会の諸々の利害の刻印を帯びたものとならざるを得ず、したがって階級対立を国政の場に注入する結果をもたらすからである。
(略)
階級社会の桎梏から自由でない議会の立法を機械的に執行することが行政の役目ではない。それのみによっては、社会の矛盾は解消され得ないからである。(略)
行政主導で階級的利害の調整を図り、公共的な国家意思を実現するべきとされるのである。
 シュタインの国家学とは、以上のような憲政と行政という両輪によって構成されている。
(略)
 シュタインは福沢の『時事小言』のなかに、自ら精魂傾けた憲政・行政の二元論が極東の文明論者によっても論じられていることを感じ取った。
(略)
[福沢は]政治の仕組みを家の建築になぞらえ、その家に住まう施主=国民が設計士や施工業者を雇い、配置するプロセス=「建築の人に関する仕組」がconstitutionであり、その雇い入れられた人びとが実際に家屋を建立していく働き=「着手の実際」がadministrationだという。シュタインは国家の意思形成の原理とシステムを憲政(constitution)と呼び、その意思を執行し補完する作用を行政(administration)と定義していた。(略)
行政の憲政からの自律化を唱え、国家の全体意思の担い手を官僚に求めたシュタインの議論と福沢のそれは、本来大きな相違がある。しかし、国家の意思と行動の論理として、constitutionとadministrationを分類するという考え方において、二人の間に径庭はない。

山県有朋

山県が文明に対して感じた違和感、それは「合衆政」=共和政治に集約されるものだった。君主国たるイギリスに移ってからも、その違和感は拭えなかった。山県の眼に、それは共和政治に包囲された君主制と映じたのであろう。
 彼が息を吹き返すのは、ドイツに入ってからである。
(略)
二人が得た教訓は異なる。大久保が内治の充実を掲げて殖産興業を指導するのに対して、山県はプロイセンでは「全国ノ男子皆兵事ヲ知ラサルナシ」として、本節冒頭で述べたように徴兵制に立脚した軍事制度の確立に邁進する。
 この山県の最初の訪欧は、彼の生涯にわたる思想の骨格を作るものだったといってよい。それは、文明に対する違和感とその浸透から国家を守護しなければならないという使命感である。その情念は、二度目の洋行で揺るぎないものとなった。この時、パリを再訪した山県は、花の都を激震させた一大事件に遭遇している。(略)
ブーランジスムとは、普仏戦争で勇名を馳せた陸軍将軍ジョルジュ・ブーランジェを担いだポピュリスティックな反政府運動である。(略)
 「議会解散憲法改正、あらたな立憲議会」をスローガンに国民大衆の支持を集めたブーランジェは(略)圧勝し、下院議員に当選した。その夜、事態はクライマックスに達し、歓喜した群衆がブーランジェにクーデターの実行を迫るところまで高揚する。(略)
結局のところクーデターの計画はブーランジェ自身によって退けられ[熱がさめた大衆に見捨てられ亡命し自殺](略)
 このようにしてフランス第三共和政存亡の危機は回避された。だが、その一部始終をつぶさに見た山県にとって、一連の事態は議会制民主主義の負の部分を鮮烈に脳裏に刻み込むものだったであろうことは想像に難くない。(略)
明くる年に控えている日本の議会開設に危惧の念を暮らせたのではなかったか。

歴史法学

かのグリム兄弟をも育んだ歴史法学という19世紀ドイツ法学界の一大思潮は、「法律学におけるゲーテ」とも称される偉大な法学者フリードリヒ・カール・フォン・サヴィニーによって広められた。(略)
 ティボーの主張は、ナポレオンが諸国民戦争に敗れて没落した状況下で、彼の制定になるフランス民法典(ナポレオン法典)についてはこれを高く評価し、全ドイツに適用される統一的民法典の制定を唱えるものだった。これに対してサヴィニーは、ドイツ民族の法統一は、性急な立法によってなされるべきではなく、まず法学が統一され、そのうえでなされるべきものと説いた。立法ではなく、法学こそがドイツ民族に統一法をもたらすというのである。
 そのような法学の内実をなすもの、それが歴史法学だった。サヴィニーによれば、法は言語や習俗と同様、民族精神の発露であり、民族の歴史的発展の所産にほかならない。このような歴史法学の有名な民族精神論に立脚して、ヤーコプ・グリムが法=詩歌論(「法の内なるポエジー」)を展開したことは、既述の通りである。
(略)
 サヴィニーによれば、このように長い歴史をもつドイツの諸大学でのローマ法の受容は、ドイツの民族的な遺産であり、ドイツ法の歴史的な前提である。既述のように、そこではドイツ共通の法学が営まれていたからである。したがって、将来のドイツ国民のための統一法の基盤も、このように歴史的に受け継がれてきたローマ法学によって与えられなければならない。それが、サヴィニーの歴史法学のプログラムだった。(略)
 だが他方で、サヴィニーの歴史法学に座りの悪さを感じる人たちも出てくる。民族の歴史や精神と言いながら、それを担うのがローマ法という外来の法とはどういうわけなのか。歴史法学と言うならば、民族固有の法こそが取り上げられるべきではないのか。そのように考え、ローマ法という学問法ではなく、ゲルマン法という民衆法にもとづいた歴史法学が唱えられる。サヴィニーの高弟グリムに代表されるこの一派は、歴史法学派のゲルマニステン(ゲルマン法学派)と呼ばれ、世代を重ねるごとにサヴィニーらのロマニステン(ローマ法学派)と袂を分かっていくことになる。
(略)
 類似の論争はわが国にもあった。(略)
[お雇いフランス人法学者ボワナソードによる民法典の施行を巡る延期派と断行派の応酬]
[延期派の旗手・穂積八束が]施行は日本固有の家族道徳や国体を破壊するものと唱えたことも、普遍人類的な自然法学を護持するボワソナードに対して、民族精神を掲げた日本版歴史法学の逆襲の趣がある。
 もっとも、日本の法典論争は意外と卑小な思惑から展開されていた。何よりもそれは、「パンの争い」だったことが指摘されている。旧民法の施行を求めたのは、フランス法を学んだフランス法学派の関係者だったのに対して、延期を求めたのは主としてイギリス法系の学校(帝国大学、東京法学院〈現・中央大学〉)の関係者だった。延期派は、フランス式の法典が施行されては、飯の食い上げになると憂慮したのである。
 実際、旧民法は日本の旧慣に配慮した柔軟な編纂方針をとっていた。とりわけ家族法の部分については日本人が起草し、ボワソナード自身は日本伝来の長男の単独相続の慣行に批判的だったものの、結果的には伝統的家族制度に則った親族相続法が定められたのである。

穂積八束

[明治憲法発布間近にドイツより帰国。最先端の憲法理論を引っさげて講演]
穂積は、法とは主権者の命令であるとの説を掲げ、「天皇ノ大権ハ決シテ此憲法二依テ制限サレタル者ニアラズ」として、憲法のさらに上にある主権者たる天皇の意思を強調した。それは、強大な天皇大権を規定して民権を抑圧したとイメージされる明治憲法の解釈として、まことにふさわしいものであるように思われる。
 ところが、豈図らんや、穂積のこの講演は『国家学会雑誌』に公表されたとたん、批判の集中砲火を浴びる羽目になった。それも、国家学会に集う官学アカデミズムから、である。[主権者全能説は学会から駆逐されることに]
(略)
 帝国大学を頂点とする官学アカデミズムでは、強大な君主権力を正当化するような天皇主権説はむしろ劣勢に立たされていたのである。憲法ができたからには君主の権力は制約されるという天皇機関説が圧倒的に支持され、国民の政治参加を尊重する立憲主義の浸透がみられた。換言すれば、明治憲法天皇制支配確立の宣言としてよりも、国民宥和を呼びかけるメッセージとして発布された。