断絶 リン・マー

以下の訳者あとがきにある内容の小説なのですが、著者のリアルをそのまま反映しているとおぼしき中国に関する描写が面白かったのでそこだけ引用。

訳者あとがき

(略)リン・マーが二〇一八年に発表したデビュー長篇(略)リン・マーは、一九八三年に福建省の三明市に生まれ、幼少期に家族とともに渡米し、ユタ州ネブラスカ州カンザス州で暮らした。(略)

マー本人によると、二〇一二年、当時の勤め先でリストラ対象となってしまい(略)怒り半分、冗談半分に短篇として書き始めた原稿からすべてはスタートしたのだという

(略)

 物語は、二〇一一年に設定された「現在」から開始される(略)世界は〈終わり〉によって崩壊している。治療法のない真菌感染症「シェン熱」により、人類はほぼ全滅してしまったのだ。中国を発生源とし、強力な感染力を持ち、グローバル化の流れに乗って広がるなど、そこには二〇二〇年に始まる新型コロナウイルスパンデミックを一足先に予見したような要素が揃っている。

(略)

主人公となるキャンディスは、ニューヨークのマンハッタンにある出版製作会社に勤務し(略)香港支社を通じて、東南アジアにある印刷所にその仕事をアウトソースし、コストと納期を管理する。(略)紙や人工皮革をはじめとする各種の原材料を世界中から調達し、深圳にある印刷所で聖書を製本してもらい、それをアメリカに輸送して、全米の書店に届ける。そのプロセスは、ターゲットとする客層ごとにさまざまな版の聖書で繰り返されることになる。本の内容はまったく同じまま、パッケージが次々に変えられた商品がグローバル化された労働から生産されるという実態が、皮肉とともに浮かび上がってくる。

「シェン熱」

 私は「シェン熱」をグーグル検索してみた。

 シェニディオイデスという真菌が深圳で発生し、それから中国の周辺地域に広がった。有力な説は、まず〈ハフィントン・ポスト〉で著名な医師が唱えて拡散したものだった。新しい系統の真菌が偶然に発達した場所が、中国の経済特区の工業地域にある工場という条件だったために、胞子がかなり特殊な組み合わせの化学物質を栄養源にしたのだという。そのブロガーの主張によると(略)出稼ぎ労働者が大量に自分たちの村に帰省する春節のような祝日の交通量を制限するべきだという。人の移動は胞子を運んでしまうのだ。

 アメリカが同じ状況に陥らないようにするための、そのブロガーの医師の主張は、全米にまたがって検疫を行うこと、とくに感謝祭やクリスマスなど、例年は大掛かりな移動が発生する祝日のあいだは実施するべきだというものだった。

 さらに検索していくと、〈ニューヨーク・タイムズ〉に、アジア各国の人々がアメリカに入らないようにする入国禁止措置が議会を通過しそうだという記事があった。禁止の対象国のリストもあって、その一番上は中国だった。

福州、四人のおじ

[深圳へ出張]

 中国語はできますか?バルサザーは訊いてきた。

 はい、標準中国語はできます、と私は英語をやめずに堅苦しく答えた。六歳のときに中国を出たせいで、私の標準中国語は退化していて簡単な語彙しかなかった。小さな子どもしか使わないような言い回しをしてしまう。私の言葉は時が止まっていた。日常会話なら十分間くらいはできた。それより長くなると、浅い水で犬かきしかできないのに深い海でばたついているようなものだった。年を追うごとにひどくなっていく。標準中国語は両親と話すときのものだったから、もう使っていなかった。

 私は言い足した。でも、標準中国語で話していたのはかなり前なので、ちょっと錆びついています。

 彼が向けてくる目つきは、私が正直に自分の中国語能力の限界を伝えているのか、それともいかにも中国人らしく謙遜しているだけなのかを見極めようとしているかのようだった。

(略)

 ご一家は中国のどこの出身ですか、とバルサザーは訊いてきた。

 福州です。私はそこで生まれました。

 ああ、福建省ですね。彼は訳知り顔で頷いた。

 私は落ち着かない気分でバルサザーを見た。省のあいだには序列というものがあり、どの省についても固定観念がある。ニューヨークの各地区につきまとう文化的偏見のように。おそらく、彼はあまり感心していない。福建について私が知っていることは基礎的な事柄だけだった。福建省は、海峡を挟んで、裏切り者である台湾の真向かいにある。山脈によって、歴史的には中国本土の手が及ばなかった。伝統的に船乗りが多いことから、世界にいる中国系移民の大半は福建省出身だ。ほかの国に行き、子どもを作って市民権を得て、故郷にいる家族に送金してだだっ広い豪邸を建ててやるが、そこには祖父母だけが住んでいる。福建人は中国人の飛び地だった。

(略)

 私にはおじが四人いる。

 一番目のおじは、ほかの三人よりもなじみがあったが、血がつながっているわけではない。中国の腋の下、アジアのニュージャージーとも言われる福建省の南の沿岸にある福州に住んでいる。私は生まれてから六歳までそこにいた。

(略)

 福州は一年を通して蒸し暑い。こういう土地は怠け癖を生むね、と祖母は言う。物が腐るのは早いし、すべてが溶けてしまうし、海と陸の肉を使う地元料理は、食べ物とは呼べやしない。犯罪だらけだけど、たいていはつまらない窃盗だ。暴力沙汰が起きるときは、仰天するような、想像もつかない事件になる。通りからは何週間も露店が消え、清掃に使われるホースは鉄床のように重い。こんな気候じゃ、自分の品性をしっかり保つのも大変だ、と祖母は言う。日中だけでなく、夜も。わかるだろ、と祖母は乾いたヤシの葉をうちわ代わりに使いながら話を締めくくる。この重苦しさからは逃げられやしない。

(略)

 祖母に言わせると、自分の娘たちのうち、賢い結婚をしたのは私の母だけだそうだ。一番目と二番目のおじについては、こう言ったことがある。ひとりは心が弱いし、もうひとりは体が弱い、と。そして、意味ありげに私のほうを向く。でも、あんたの父さんはちがうよ。

 

 三番目のおじとだけは、血のつながりがある。父の兄だ。地元行政の役人たちの運転手をしている。アパートメント群のコンクリートの中庭の中央に、スモークガラスの黒いレクサスが鎮座していて、それを毎朝、仕事に行く前に洗って磨く。中国共産主義にとってのレクサスは、アメリカ民主主義にとってのリンカーン・タウンカーみたいなものだ、とよく言う。どちらも上品には見えるが上品すぎない。おじはレイバンのサングラスをかけて、ポロシャツにチノパンで、ストイックな表情で人をまごつかせる。十年ぶりに駅で会ったとき、私を上から下まで眺める。電車は年々遅くなるな、と言う。

 三番目のおじは、体格も性格も父とはちがう。父はひょろりとした体つきだが、おじは筋肉質でがっしりしている。父は控えめで考え込むタイプだが、おじは押しが強くて感情的で、酔うと荒っぽくなってテーブルや椅子や鏡や、頭上で揺れてあちこちに影を作るプラスチックのシャンデリアを殴って壊してしまう。父に飛びかかり、早口で狂ったように怒鳴り声を上げているので、言っている文句はすべて混ざり合って解読できない。みんなで駆け寄ってやめさせようとして、口々に叫んでおじの怒鳴り声をかき消し、おじの息子は小さな果物ナイフを父親の手からもぎ取ろうとする。おじは怒っている。猛烈に怒っているのは火を見るよりも明らかで、なにかひとつが気に食わないのではないとしたら、すべてが気に食わないのだ。ごちゃ混ぜになった福建語で矢継ぎ早に飛び出す咎めるような言葉は、私の心のうんと幼くて純真な部分に伝わってくる。戻ってくりゃいいってもんじゃない。戻ってくればそれでいいのか。戻ってくれば解決するのかよ。

 おじは言う。これだけ行ったきりになってて、俺たちに家に招かれるのが当然だというのか?十年以上だぞ、資本主義者が帰ってきて、どこぞの放蕩息子みたいに歓迎されるとでも?

 父は両脇に下げた手を握りしめて、できるだけおじの近くに立ち、もっと近づいてこいと挑発している。天井の扇風機が低くうなる機械音が、部屋中に降っている。

 似ているところだってあるでしょう!祖母が割って入る。兄弟なんだから。おたがいに分かち合っているものを考えて!

 体格はまったくちがうが、兄弟にはたしかに似ているところがひとつある。顔だ。不気味なほど顔が似ていて、一卵性双生児と言っても通りそうだ。同じ眉間のしわ、口元のえくぼ、彫りが深い目。静かになったシャンデリアの下で、おじがようやく座って、重くひりつくような啜り泣きになると、私は思う。じゃあ、父さんが泣くとこんな顔になるんだ。

 

 四番目のおじはいるにはいるが、あまりよくは知らない。(略)食通向けのオリーブオイル店を持っていて、密売店も兼ねている。奥の部屋ではアメリカの映画とポルノを売っている。

 このおじで大事なのは、息子の兵兵[ビンビン]だ。いとこのなかで一番好きだし、彼とだけは仲がいいが、兵兵は息子世代の落ちこぼれだと一族は考えている。(略)兵兵は一族のなかで一番頭がよくて感性が豊かなのだが、四番目のおじや一族みんなでよってたかって足を引っ張り、兵兵のあらゆる判断にけちをつけ、あらゆる行動をけなしたせいで、いまの一族に残されたのは、結婚もできないままいじけてしまった三十五歳の男だ。

 医者になれず、弁護士になれず、起業家にもなれなかったいとこは、ハンサムでも不細工でもない平凡な顔だ。人畜無害で印象に残らない。ときおり、親のどちらも見ていないときに、ネズミのようないたずらっぽい笑みがその顔をよぎる。ほかの誰も知りえない、たまらなく楽しい秘密を抱えているかのように。私のいとこ、最初の友達。

 福州に戻ってきた夏、私はそのいとこと一緒に夜の街を歩き回った。街灯で長く伸びる私たちの影は体の前をよろめき、ネオンサインを輝かせる店や、低い音でうなるランプを過ぎていった。みんな外に出ていた。年寄りの男たちは白いランニングシャツとゴムサンダルで、十代の若者たちは偽物のアメリカンイーグルの服で。高齢の女性たちは、スポンジ・ボブや偽のシャネルのロゴがプリントされたパジャマズボンで寝る前の散歩をしている。マクドナルドやケンタッキーの店、餃子の屋台、密売店、カラオケバーがある。どこも、深夜十二時か、もっと遅くまで営業している。全身マッサージ、ビリヤード、ハッピーエンドが手に入る。そうした通りにしばらくいれば、欲しいと思うもの、いままで欲しいと思ったものすべてを手に入れられるかもしれない。そう思うのは、私がすべてを間違って記憶しているからだし、ニューヨークで夜独りのとき中国旅行の番組をしょっちゅう観ているからだし、テレビと夢が混ざったものが記憶と混ざってしまうからだ

(略)

 子どものころの私は、その感覚を「福州の夜の感じ」と名づけた。その感じは粘着性のものではなく、外に伸びて、すべてを叩きまくる。絶望を帯びた興奮だ。歓喜で高められた絶望だ。どこか性的でもあるが、性についての知識よりも先にあった。「福州の夜の感じ」が音だとしたら、九〇年代初めから半ばにかけてのR&Bになるだろう。味だとしたら、小さな子どもたちが堂々と排便する路地を歩きながら二人で飲む、冷え切ったペプシの風味だろう。それは、蓋のない、大きく熱い排水溝で溺れていくという感覚、一度も焼灼されたことのない、包帯されても止血されてもいない傷口に潜り込んでいく感覚だ。

 顔の半分が影に隠れた兵兵は、私に言う。いつか、戻ってきて一生暮らしたいと思うようになるよ。

 きっとひどい目に遭うね、と私は笑いながら言う。おじさんみんなの下敷きになって死んでしまう。そして、それを想像し始める。

(略)

 想像のなかで、私はニューヨークから戻っている。おじたちの言うことを素直に聞く。標準中国語を覚え直す。福建語を覚え直す。福建の人と結婚する。ここ、美しく晴れた熱帯の福州で暮らす。高くそびえる山々に囲まれ、誰もが通って去っていく果てしない海に包まれた街では、ヤシの木々が揺れて、夜はずっと遅くまで人が動いている。私はほんとうに幸せだ。

フェイクのヴァリエーション

 深圳の工場への出張は、たいていは二段構成になっていた。深圳で仕事をして、香港で遊ぶ。何日もかけて業者を訪問して工場をチェックしたあと、ニューヨークに戻る前に、私たちは南に向かって国境を越えた。(略)

 香港ですることといえば買い物と食事しかない、とブライスはよく言っていた。香港は人生を蒸留して不可欠な要素だけを残した街だ。

 ブライスに連れられて、銅鑼湾、海港城、東九龍と西九龍に行った。ブティックやショッピングモールに行ったが、アメリカのショッピングモールとあまり変わらず、ただしもっと高価で仰々しかった。(略)頭がおかしくなるかと思うくらい二人で買いまくった。私はページ・ワン書店でバナナ・ヨシモトの小説を何冊か買った。ブライスはイッセイ・ミヤケの化粧品ポーチを買った。私はアーノルド・パーマーのサッチェルバッグを二つ買った。アメリカ人プロゴルファーの公認カジュアルブランドが、なぜかアジアのティーンエイジャーには人気なのだ。(略)

二人とも、ユニクロでスカーフを買った。香港には、ショッピングと遊び感覚で外貨を使うことへの飽くなき熱狂がある。罪悪感はなかった。通貨レートを計算しようとしても頭が追いつかなかった。

(略)

同じ商品はアメリカでも買えただろうし、インターネットで注文することだってできた。でも、香港で一番驚いたのは、同じ品に山ほどのバージョンがあるということだった。たとえば、ルイ・ヴィトンのバッグ。本物のバッグも買えるし、そのバッグを製造している工場のサンプル品も、模造品も買える。そして、模造品にもいろんな種類がある。手作業で仕上げた精巧で高価な模造品もあれば、ポリウレタンで作った安物の模造品もあるし、その中間もある。ほかのどこにも、本物と偽物のあいだにここまで手の込んだ勾配はない。ほかのどこにも、リアルとフェイクの境界線がここまで穴だらけに思えるところはない。

 混み合った通りを渡ろうと私たちが立っていると、サンバイザーをかぶってウエストポーチをつけた中年の女がやってきて、私の手にチラシを一枚押しつけた。これ好き?と訊いてきた。(略)

上質紙にカラー印刷されたチラシには、各種の高級ブランドのバッグが載っていた。フェンディのクラッチバッグルイ・ヴィトンのサッチェルバッグ、コーチのトートバッグ。チャイナタウンに行けばいつでも見つかるような、ロゴをでかでかとつけただけの偽ブランドのイミテーションではなく、雑誌で見たことのある、今シーズンの最新モデルのようだった。

 これって全部本物?ブライスが訊ねた。

 女は力強く頷いた。本物!サンプル品。

(略)

かなりの数の高級ブランドが、ここの工場を下請けで使っている。そうした工場はよく、サンプル品を過剰に作り、それを違法に売っている。つまり、基本的には本物だ。

(略)

私はアート部門で働きたくてたまらなかった。アートガールになりたかった。

 少なくとも、聖書部門でずっと働くのは無理だった。気が狂ってしまう。薄い聖書用の紙が輪転印刷機で破れてしまう悪夢を見続けるのも、自分でもよくわかっていない中国の労働環境について依頼主に説明し続けるのも、溺れかけの人のように為替レートが乱高下する中国元をドルに換算し続けるのも、もう限界だった。

 アート部門では、なにもかもちがった。依頼主たちはそこまで採算にこだわってはいない。製品が美しく出来上がることを求めているのだ。印刷や色の再現具合、上質な糸綴じの耐久性を重視していて、そのためならもっと費用を投じ、刊行予定を変更する。東南アジア諸国の低賃金工場を利用していながら、それに抗議する非営利団体に寄付をして、グローバル経済の実態はちゃんと把握しているというポーズを取ってみせる。

両親の歴史

 チーカン・チェンと妻のルイファン・ヤンがソルトレイクシティーにやってきた(略)一九八八年の冬のことだ。(略)

 チーカンはアメリカ留学のチャンスをもらっていた。ユタ大学から、経済学で博士号を取るための奨学金を全額出すと言ってもらえたのだ。その学部に入学を認められた初の中国人学生だった。中国とアメリカ合衆国のあいだの扉は、学術交流を通じてためらいがちに開放されつつあった。またとない機会だということで、中国政府がチーカンの航空運賃を払った。(略)夫婦は節約の末にルイファンの航空券も購入していた。

(略)

その家の持ち主であるぼんやりした様子の年配の英文学の教授が出てきて、二人が滞在することになる地下室に案内した。(略)

初日の夜、なにか食べ物を手に入れようと、二人は近くの食料雑貨店まで一キロ半ほどを歩いていった。(略)最初に目に入ったスーパーマーケットは蜃気楼のようだった。巨大で、スポーツスタジアムのように照らされ、広大な駐車場に囲まれている。自分たちがアメリカにいるのだという確証を二人が求めていたのだとすれば、まさにぴったりの場所だった。福州にはそんな店はなかった。(略)

蛍光灯で照らされた商品棚を何キロもさまよい(略)

どれでも商品を手に取っていいのだとは二人とも思いもしなかった。ほかの客を観察したところ、店員が商品を取ってくるまでカウンターで待っていなくていいのだとわかった。福州での慣習とはちがって、先に金を払う必要もない。(略)

 なにを買えばいいのかわからなかった二人は、牛乳を一ガロン、銘柄もタイプも各種あるなかから適当に引っ張り出して買った。福州では牛乳は貴重品で、子どものために取っておくものだったから、一ガロンまるまるというのは信じられないくらい頽廃的で、信じられないくらいアメリカ的に思えた。地下室のアパートメントに戻ると、それぞれ牛乳を一杯飲んでから寝た。

(略)

 最初のうち、二人は社交の場にあちこち足を運んだ。大学院のパーティーに出た。夫が壁の花となり、惨めな肘掛け椅子に腰をかけてペプシをおずおずと啜っているあいだ、ルイファンは新しく友達を作ろうとした。口を開いて、間違いだらけのブロークンな英語を話していると、喉が締めつけられた。(略)

三十代だった二人は、すでにその場にいるほとんどの人よりも年上だった。ルイファンが着ている紺色のシャツドレスは、福州ではお洒落に思えたのだが、デニムのミニスカートや細い肩紐のワンピースのなかでは、いかにも保守的に見えてしまった。

 もし英語が流暢だったなら(略)伝えるつもりだった。福州での自分は資格のある会計士であって、顧客のなかにはさまざまな市や地方の公務員たちもいたのだ、と。その仕事が重要だとみなされていたので、文化大革命のときも福州に残ることができたが、妹二人はほかの若者たちと一緒に田舎に流刑になって、卑しい仕事を何年もしていたのだ。

 文化大革命により、すべての大学は数年間閉鎖された。大学が再開され、ほんのわずかな数の学生を受け入れるようになってようやく、ルイファンの夫は入学を許可された。そのころには彼はもう二十五歳、自動車部品工場の現場監督としての勤務経験があった。文学の教授になりたいという熱い思いがあったが、不運なことに入学試験の数学で最高点を取ってしまい、統計学を専攻するよう指定された。

(略)

二人が駆け落ちしたとき、彼女はすでに妊娠していた。アメリカに移り住むにあたって、娘は福州に残していった。娘は母方の祖父母のところに預けられ、アメリカにいる両親は娘を連れてくる航空券を買うお金を貯めていた。

(略)

 新しく友達を作ろうとするかわりに、ルイファンは自分の孤独を無視した。仕事探しに力を注いだ。英語がうまくできず労働ビザもないとなると選択肢は限られていたが、ないわけではなかった。

 最初の年、ルイファンはかつら会社のためにかつらを作った。毎週月曜日にオフィスに行って、人工の頭皮と袋に入った毛髪を受け取り、艶のある栗色のたてがみのような髪型や、野暮ったいマッシュルームヘア、ブロンドのファラ・フォーセットのようなボリュームたっぷりの髪型になる材料を持ち帰ると、『ワン・ライフ・トゥ・リヴ』を放送中のテレビの前、マリーゴールド柄のソファに座り、髪を一房ずつ人工の頭皮に引っかけていく。かつらを一個仕上げるには三十時間から四十時間かかった。かつら一個につき、帳簿に記載されない八十ドルが手渡された。

 毎朝、ルイファンは元気を取り戻して髪を引っかけていった。一房作業をするごとに、自分たちの子どもをアメリカに連れてくる航空運賃が少しずつ貯まっていく。だが、昼近くなると目の前がかすみ、指が痛くなってくる。午後になると気分が落ち込んでしまい、その気分とともに怒りも芽生えてくる。(略)

ここに自分を連れてきた夫。クリニークの製品を送ってやっているのに、自分の不幸を内心喜んでいる福州の妹たち。いくら掃除しても変化のないみすぼらしいアパートメント。

(略)

[帰ってきた夫のチーカンは]興奮しているらしく、目を見開いていた。(略)ニュースを聞いたか?

(略)

 ざらついた映像は、どうやら夜の抗議活動らしい。

(略)

 これはどこ?と彼女は訊ねた。

 天安門広場だとチーカンは答えた。

(略)

 なにを求めて抗議してたわけ?と彼女はさらに訊ねた。

 チーカンは妻を見つめた。民主化だよ。

 彼女は夫の大学寮での深夜、二人で出席した集会の数々を思い出した。みんなでビールを飲み、ピーナッツやミカンの皮をむき、政治について大いに語っていた。なかには大っぴらに共産党政権を批判する者もいたが、その友人たちはのちに政権のために働く仕事に就いていた。夫は自分の意見を口には出さなかったが、ある夜、民主主義について情熱的に語った。どんな体制にも問題はある、と言った。でも、国民に言論の自由と抗議活動の自由を与える政府には、市民に対する敬意というものがある。そこまで理想主義的な夫の姿を見るのは初めてだった。

 チーカンは無言のまま、報道に見入っていた。

(略)

 ほんとに確かなの?これってアメリカのニュースでしょ。

 チーカンの目つきはきっと鋭くなった。見てみろ!(略)学生とお年寄りだぞ。手当たり次第に銃撃してるんだ。

(略)

 でも、事実をしっかり知ってるわけじゃないし、と彼女は言い張った。

 事実はそこに映ってるだろ、と彼はあざ笑った。テレビのほうを振り返り、小声でなにかを呟いた。

 妻を批判するならせめてちゃんと言いなさいよ、と彼女は気色ばんで言った。

 おまえのことじゃない。彼は目を逸らした。

 じゃあ、いまなんて言ってたの?

(略)

 俺たちは絶対に戻らない、と彼は言った。そして、妻が聞き逃したときのため、さらに大きな声でもう一度言った。もう絶対に戻らないからな。

 

 私をここに連れてきて閉じ込めたわけね、とルイファンは夫に言った。

 そこで、彼女は続く数か月は抗議の生活スタイルを実践した。夫に意地悪をするかのように、ちょっとした冗談を言うレベル以上はいっさい英語を真面目に学ぼうとはしなかった。誰とも親しくならず、大学にいるほかの交換留学生とすら友達にならなかった。(略)

 このままでは妻を失ってしまう、とチーカンは心配になった。福州にあっさり帰ってしまい、評判がよかった会計士の仕事に戻ってしまうかもしれない。彼は解決策を考えた。もしこの新天地になじめないのなら、アメリカ暮らしのいい面、便利で快適で楽で豊かな面を強調して妻の心をなだめるのがいいかもしれない。

(略)

ベージュ色のヒュンダイのエクセルを中古車で買った。観光客のようにレジャーに出かけた。(略)

ルイファンはあらゆる機会に写真を撮り、福州に郵便で送った。クリニークのスキンクリームを買うと、いくつかサンプルが入ったメーキャップバッグが無料でついてきた。

 デパートやスーパー、倉庫型店舗や大型ディスカウント店など、比類ない豊富さを誇る場所にいると、彼女のホームシックは和らいだ。ショッピングが解決策なのだ、とチーカンは気づいた。

(略)

 ルイファンの生涯を通じて、福州に戻って暮らすという願いは叶えられずじまいだった。だが、神は何度か帰省する機会を与えた。どれほど頻繁に訪れても、ルイファンはかつての力を取り戻すことも、妹たちに威張ることもできなかった。急速に発展する中国経済のなかで、妹二人はとっくにビジネスの要職に就いていたのだ。一九九〇年代と二〇〇〇年代の中国は、産業革命の百倍のスケールと十倍のスピードで発展していると言われていた。上の妹は銀行の支店長になり、下の妹は電話会社の営業を担っていた。

 福州に戻って暮らすかわりに、神はルイファンのほかの願いを叶えた。

 神の思し召しによって、彼女の夫は卒業して数か月後にソルトレイク都市圏の連邦住宅ローン部門のリスクアナリストという収入のいい職に就いた。思し召しによって、娘は無事にアメリカ合衆国に到着し、素早く、さしたる苦労もなく、新しい国と新しい言語に同化してみせた。錆びついたヒュンダイのエクセルにかわって、シャンパン色のトヨタのレクサスを一家に与えた。スキップフロアのある青色の素敵な家は、十五年ローンで購入したもので、裏庭は鯉の池と何本かの果樹を植えられる広さがあった。

 その家で、ルイファンは教会の聖書勉強会やディナーパーティーを主催した。妹たちや親戚が中国から訪ねてきたときにはその家でもてなし、その家のダイニングテーブルの前に座って毎日祈り、その家で夫が轢き逃げ事故に遭って命を落としたと知らされ、夫の死後、その家で急速に健康状態が悪化した。

(略)

 六歳でアメリカ合衆国に移った私は、母にとっては別人になっていた。私は怒りっぽく、慢性的に不満を抱えていて、生意気だった。アメリカに来て二日目に、色鉛筆のセットを買ってほしいと私が駄々をこねると、母は目に涙を溜めて部屋から走り出た。こんなのあんたじゃない!と、啜り泣く合間に早口で言われ、私は途方に暮れた。娘だとは思えなかった、とのちに言われた。最後に会ったときとは別人だった、と。幼すぎた私は、頭が回らなかったのでこうは訊けなかった――でも、なにを期待してたの?どんな人になればいいの?

 でも、私が母にとって別人になっていたなら、母も私にとっては別人になっていた。この新しい国で、母は厳格であれこれうるさく、怒りを爆発させがちで、すぐにいらいらして、ファシストのように押しつけてくる気まぐれなルールは六歳の子ども心にすら理不尽に思えた。子ども時代と青春時代のほとんどを通じて、母は私にとっての敵対者だった。

 怒り出すといつも、母は人差し指で私の額をつついていた。あんたあんたあんたあんた、と言い、私が私であることが問題なのだと言わんばかりだった。

(略)

 私を罰するのは母だった。暗いバスルームのバスタブのなかで私をひざまずかせ、アラーム設定がついた父のカシオの腕時計を持ってきて、いつまでその姿勢でいればいいのかわかるようにした。

(略)

 初めてひざまずくよう命じられたのは七歳のときだった。「おままごと」のかわりに「ホームレスごっこ」をしていたのを見つかったのだ。ホームレスごっことは、その名のとおりの遊びだった。自分がホームレスだというふりをするのだ。

(略)

段ボール箱を拾ってきて、動物のぬいぐるみをたくさん入れた。みんなで一緒に(略)想像上の通行人に小銭をせびった。

(略)

母の顔には涙があった。

 あっちを向きなさい、と母は言った。私を見る権利なんてない。(略)

私たちがアメリカに来たのは、あんたがホームレスになれるようにしたかったからじゃない。よりよいチャンス、より多いチャンスを求めたから来た。あんたのために。父さんのために。

 それから母さんのために、と私は言って、先回りしようとした。

 母は首を横に振った。いや、私のためじゃない。あんたのため。一生懸命勉強して、大きくなって、仕事を手にしてもらうために、ここに連れてきたの、と続けた。だから、ホームレスになるいわれなんてない。わかった?

(略)

 しかし、ずっとあとになって、私がいくつかの大学に合格したとき、第一志望の大学からは奨学金が出て学費のかなりを相殺してくれるのに、そこに行かせるための学費を払いたがらなかったのは、母だった。結局は、行かせてやれと父が粘った。たったひとりの子どもなんだぞ、と母に訴えた。いろいろ大目に見てくれるのは父のほうだった。私にだめだとは言えなかったのだ。そして、父がその話をしたのは高校の最終学年が始まる前の夏、交通事故の前だったから、母は折れた。その後母も他界するまでの四年間、その事故を私のせいだと思っている節がずっとあった。

 母が亡くなるまでの数日間、ベッドのそばに座っていたときは、私はその話をまったく出さなかった。心のどこかでは、母を諌めて、それまで母が犯した違反のすべてを挙げて清算したかったが、最後の数日は真実ではなく心の平安のためにあるものだ。それに、私が真実を口にしたところで、歪んだ中国語をついばむように進んでいくのだから、母に理解できるかどうか。そばにいるのが自分の娘だとすらわかっていないときもあり、妹や自分の母親や、私には名前もわからない遠い親戚と取り違えていた。その人たちの中国名で私を呼ぶので、大混乱だった。

 英語で独り言を言っていることもあった。それはさほど変なことではなかった。父も母も英語で独り言を言うのは日常茶飯事で、アメリカ人の知り合いや同僚、洗車スタッフやスーパーのレジ係との会話を再現しつつ、ぼんやりと皿を洗ったり掃除機をかけたり、バスルームで顔を洗ったりしていた。二人は自分のアメリカ人らしさを演じ、それを磨き上げて輝く硬いベニヤ板にすることで、内なる中国人としての自己を隠していた。プリーズ。タンキュー。

 ときには、母は私を中国人クリスチャンコミュニティー教会の婦人会のひとりだと思い、一緒に祈りましょうと言ってくることもあった。高校生のときに父が世を去ってから私は祈るのをやめていたが、それでも両手を組み合わせて首を垂れた。母の頼みに応えて、祈ってほしいことはなんでも祈った。

 神様、と私は英語で言い始めた。愛する父であり夫であるチーカンを、病院からここに戻してください。父が早くよくなって、家に帰ってこられるようにしてください。アーメン。

(略)

 父は人生でずっと懸命に働き、オフィスで遅くまで残業して、家に帰ってくると冷蔵庫にある残り物を食べていた。次から次に昇進した理由のひとつは、休日も出勤していたからだった。父の労働倫理は多くの移民たちと同じく、ありがたくも自分たちを受け入れてくれた国に対して自分が役に立てることを証明したい、というものだった。自分の生活の楽しみについては二の次だった。ひとつだけ例外があったことを覚えている。父と私がアメリカの市民権試験に合格した午後、父は通りの向かいにあるケンタッキーに私を連れていき、フライドチキンのデラックスセットにサイドメニューを全種類注文した。私はそこまでお腹が空いているわけではなかったが、父が自分で自分にご馳走するなんて一度もなかったから、一緒に何切れか食べて、お祭り気分で食欲旺盛なふりをした。私たちは窓際の仕切り席にいた。高速道路を次々にのんびり過ぎていくトラックが見えるその場所で、父は記憶に浸っているようだった。自分が福建の田舎にいる子どもだったときは、肉も卵も全然なかったから春節のときにしか食べられなかった、と私に語った。父は自分の祖父母と小作人たちと暮らしていた。春節のお祝いのとき、祖母はひとりにつき卵を二個使って、両面を油で焼いて醤油をかけ、端はぱりぱりにしてくれた。子どものころはそれが一番好きな料理だった。それを超える食べ物なんて考えつかなかった。

 でもな、と父は付け加えた。ソルトレイクにやってきたときに、父さんと母さんでビュッフェレストランのチャック・ア・ラマに行ったんだよ。フライドチキンを食べたのは、そのときが初めてだった。そして思ったよ、これのほうが上だってな。フライドチキンのほうがうまい。

 父はめったに昔の話をしなかった。もしかしたら、中国と正式に断絶してようやく、中国での生活について自由に話せるという気がしたのかもしれない。(略)

福建の田舎での朝は、早くに起きて、幸運のペットにしていた山羊と一緒に山を歩き回って薪を集めていたのだという。午後に学校が終わると、フランスの小説『赤と黒』の英訳版を使って独学で英語を勉強した。英中辞典ですべての単語を引いた。

 どんな内容の本?と私は訊ねた。

 貧しい生まれの男が、よりよい人生を求める話だ。

 それを手に入れるの?

 父は微笑んだ。手に入れるが、代償は払うことになる。ハッピーエンドはないよ。

 そのころには、太陽は低く、空は暗くなりかけていた。高速道路の向こう側では、合衆国市民権移民局のオフィスはもう閉まり、職員たち、私たちのアメリカ市民権を認可してくれたその人たちが、駐車場から車を出していくところだった。

(略)

 妙なことに、春節に卵を食べたという話をのちに母もしてくれたが、その話のなかでは田舎で暮らしていたのは母だということになっていた――実際には母は福州市内に住んでいたのだが。夫の思い出を吸収して自分のものにしたかのようだった。あるいは、母は父のかわりに話をして、思い出が消えてしまわないようにしていたのかもしれない。

(略)

最後の数日間でも(略)頭がはっきりした瞬間は何度か感じられた。昔はほんとに仲良しだったね、と母は出し抜けに何度か繰り返した。

(略)

 私たちが中国にいたときだよ、と母はさらに言った。あんたは小さかった。

(略)

いよいよ終わりかというころ、母の頭にかかっていた霧は完全に晴れたようだった。そばにいるのは娘の私だとわかっていたし、厳かな口調の中国語で話しかけてきた。

 父さんは野心のある人だから。あんたによりよい人生を望んでたし、それはアメリカじゃないとできない。あんたはひとりっ子だ。父さんより上か、同じくらいやらなきゃだめ。

 でも、なにをしてほしいの?

(略)

 母はようやく言った。父さんが望んだものを、あんたにも望んでるだけだよ。役に立つ人間になること。なにがあっても、役に立つ人になってほしいだけだから。