伊藤博文の憲法バカ一代

岩倉使節団では英語ができるからと浮かれて高価な葉巻や帽子で散財、紗が燃えるかためしてみようと踊り子の服にマッチで火をつけたりして、周りの顰蹙を買う伊藤博文

文明史のなかの明治憲法 (講談社選書メチエ)

文明史のなかの明治憲法 (講談社選書メチエ)

遅れをとり焦る伊藤博文

大隈重信は、明治16(1883)年には議会を開くという急進的な国会開設論とその国会を中心とするイギリス流の議院内閣制を提唱して、他の政府指導者に衝撃を与えた。(略)
政変は大隈一派の追放をもって幕を閉じた

たしかにこの時期、伊藤を中心として憲法を起草しようとの意思で政府は一致していた。しかし、「権力者」伊藤の胸中には複雑なものがあったと推測される。それは彼個人に、憲法制定の明確なヴィジョンが描ききれていなかったからである。
(略)
大隈との関係についていえば、元来両者は肝胆相照らした仲であった。(略)
ところが、あろうことか熱海でともに今後の立憲政策を確認しあったはずの大隈が、独自の憲法構想を取りまとめ、有栖川宮を通じて天皇に「密奏」しようとしたというのである。(略)[出し抜かれただけでなく]
大隈の意見書は、そのスケールと精緻さという点で、漸進主義の名の下に安閑としていた伊藤の度肝を抜くものだったのである。(略)
 大隈のみならず、他にも伊藤を脅かす影が政府のなかにあった。それは、大隈意見書に対抗して著された岩倉の憲法意見書の存在であり、その執筆者・井上毅の姿である。

政変の過程で政府の憲法起草の責任者として岩倉−井上に担ぎだされた伊藤であるが、それはまさに祭り上げられている、というに等しいものであった。木戸・大久保の衣鉢を継ぐ立憲指導者としての威光は薄れ、大隈一派と岩倉・井上の狭間でリーダーシップを取りあぐねているというのが伊藤の実状であった。(略)
 伊藤をヨーロッパに派遣し、憲法調査に当たらせるとの話が持ち上がったのは、そのようなときであった。

井上と伊藤の思惑

[井上による]プロイセンを参考にした詳細な立憲原則が確定された今、伊藤の調査にことさら期待する理由などなく、後は[機密漏洩の心配がない]ヨーロッパで静養しながらゆっくり憲法草案を練ってきてください、というところだったのであろう。(略)
 だが、当の伊藤にとっては、この渡欧は立憲作業における自らの主導権を奪回するための唯一無二のチャンスと映っていたはずである。

はりきってドイツに来てみれば、ブルガリアにドイツ憲法参考にしたいと言われて困ったくらいですから、日本なんかは問題外とつれない扱い。
しかも本家のドイツが議会運営に苦しんでおり「当初は軍備や予算のことに国会を介入させない」方がよいと指導。伊藤はこれを「頗る専制論」と受け取る。
そこでウィーンのシュタインを訪問。自身の学問が時代遅れとされ借金苦でもあったシュタインの方も日本人との交流に積極的。

「君主はいかなる国事行為にも自ら介入すべきではない」とされ、君主権力の広範な制約が正当化される。シュタインの理論体系のなかで、君主は国家の一機関として、国家統一を表象するというシンボル的機能を負わされているに過ぎない。(略)
 明治憲法体制をプロイセン流の君権主義の範疇でとらえ、シュタインについてもそのような天皇制国家のイデオローグとみなす傾向が一般的である。けれども、実際には彼の国家論のなかにそのような思考は認められず、むしろ逆に「君臨すれど統治せず」の原則が明示されている点は強調しておく必要があるだろう。
[君主に代わって国家の統治作用を担うのが官僚。不断に変化する社会に立法部は対応できないから実際の問題を処理するのは行政である。]

舞い上がる伊藤

シュタインの講義を通じ(略)憲法なり議会とは本来国家生活の一部をなすものに過ぎず、また行政による補完をまってはじめてその機能を完遂し得る。そのようにして国制の全体像についての認識を獲得し得たことは、伊藤に立憲指導者としての資質を付与するものであった。この点は何よりも、自由民権派をはじめとする知識人に対する彼の自信となって現れている。今や伊藤はそれら知識人を「ヘボクレ書生」と呼び
(略)
民権派を理論的に克服したとの自負を抱いた伊藤は、「彼の改進先生〔大隈〕の挙動、実に可憐ものなり」と気炎を上げるほどに精神的に蘇生するに至ったのである。

そのくせ、シュタインが反面教師としたオーストリア皇帝に感銘を受けている伊藤

朝四時に起床し、五時には執務室に入るという生活を死の直前まで乱さなかったという皇帝は、まさに親裁者であった。複雑な構成をもつ帝国のあらゆるレベルで起こっていることを真に知っている唯一の人間が、フランツ・ヨーゼフだったといわれている。彼のもと、閣僚たちは「皇帝の意思の道具」に過ぎず、首相とは文字通り「皇帝の大臣」であり、内閣は「純然たる官僚政府」と化していた。受動的な官僚たちの頂点に立ち、彼らを差配して国家を運営するのは、他ならぬ皇帝その人だったのである。先述のシュタインの教える君主像とはまったく対照的な君主の姿である。

伊藤ちゃんの健全な議会制度を備えた立憲国家の「あしたのために」その1、その2

 第一に国民なき国制のもとでは、議会制度は機能しないということである。議会が階級や民族などの諸々の政治イデオロギーによって引き裂かれないためには、国民精神という内的な支柱が必要とされる。その涵養が立憲国家の前提として不可欠とされる。
 第二に議会を外から補完するシステムの必要である。
(略)
伊藤は議会政治の不安定さを認識しつつ、にもかかわらず日々の政治的業務を円滑にこなしていくための行政システムの存在、そして議会が破綻した際にそれをいわば高権的に救済する立憲君主の存在を学んだのである。
 このようにして議会制度を支える内外両面の条件を整備し、そのうえで漸進的に議会政治を日本に定着させていくというのが伊藤の描いたヴィジョンだったと思われる。これは、国制の進化を説いたシュタインの教えの伊藤による変容ともいうことができる。進化の媒体たる行政権に力点を置くシュタインに対して、伊藤の関心は議会政体の実現という国制の進化の推進にあったのである。それは、伊藤によるシュタインの教えの換骨奪胎であった。

残りは僅か、ライバル山県有朋の話で終わるのだけど、録画がたまってHDD残少なのでアホなタイトルをつけて明日につづく。