IT全史 情報技術の250年を読む 中野明

IT全史  情報技術の250年を読む

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腕木通信

[ナポレオンが政権に就いた1799年にはパリを中心に総距離は1426kmに]1813年には、ブリュッセルからアムステルダム、リヨンからアルプスを越えてヴェネチアまで至っている。[総距離3000km超](略)
発明したシャップはナポレオン政権時代の1805年に謎の自殺を遂げる。鬱病が原因とも癌が原因とも言われるが理由ははっきりとしない。
(略)
 腕木通信では3本の腕木で信号を作り、それを望遠鏡で確認してバケツリレー式に遠方へ伝える(略)
1本の調節器、2本の指示器という3本の腕木からなる。調節器は水平と垂直の2ヵ所を指し、その両端にある2本の指示器は7ヵ所の位置を指す。これにより「2×7×7」で98種類の信号を作れる。このうち類似した紛らわしい信号を除いた92種類[に数字を割り当て、92ページ、92行からなる符号表を作成](略)
各行には主に戦争や治安に用いる用語が列挙されていた。92×92で8464種類のボキャブラリーになる。また、割り当てる用語は単語に限る必要はない。「至急援軍をよこせ」「食糧を手配せよ」などの文章でも構わない。
(略)
 腕木通信の信号は完全に露出しているから誰でも見ることはできる。しかし92ページ92行のコードブックを所有しているのは限られた人物だけだった。腕木通信基地に詰めている通信手でさえコードブックは持っておらず、ために信号の意味を知らなかった。(略)[当然]一般の人が「かぶと虫の足」のように動く腕木通信の信号の意味など知るよしもなかった。そういう意味でやはり腕木通信も一種の暗号通信だった。
 信号が伝わる速度も想像以上に速かった。前述のパリ〜リール間の204kmでいうと、基地数は合計21ヵ所(パリとリールを含む。時代により前後あり)で、一つの信号をパリからリールに送るのにわずか120秒しかかからなかった。秒速に直すと1700m/秒となる。
(略)
クロード・シャップが腕木通信を開発した当初、この新たな通信手法を「タシグラフ(tachygraphe)」と命名しようと考えた。これはギリシア語からの造語で「タシ=速く」「グラーフェン=書くこと」の意味が込められていた。これに対して政府の要人が、「速く」よりもむしろ「テレ=遠くに」を強調するほうがいいのではないかと提案した。(略)
つまり「テレグラフ」とは、もともと(略)腕木通信の固有名詞だった。
(略)
電信が生まれた当初、これを「電気式テレグラフ」と表現した。しかし電信が普及するにつれ「電気式=electric」の部分が落ち、「テレグラフ」と言えば電信を指すようになる。
(略)
[さらにインターネットのパケット交換方式の「ヘッダ」同様]
腕木通信でもメッセージの先頭に、メッセージ以外の情報を付加して、送信メッセージをコントロールした。(略)
[信号がどこかの基地で衝突した場合]基本となるルールはパリからのメッセージを優先するというものだった。
 ただしメッセージには緊急度の違いがある(略)リールからのメッセージが超特急レベルの緊急度だとしよう。パリからのメッセージを送り終えるまで待っていたら一大事になるかもしれない。そこで腕木通信ではメッセージの先頭に緊急度を示すコントロール信号を付け加えた。
 緊急度を示すコントロール信号は、「普通」「特別」「緊急」「超緊急」の4段階で表現した。
(略)
[またHTMLのタグのようなものもあった]
腕木通信のボキャブラリーにはない単語を送信したいこともあるだろう。この場合、単語をアルファベットで送信する必要がある。(略)[その場合]「ここからアルファベットが始まります」を示す信号(調節器が水平で左が右下、右が垂直上)を送信する。すると以後に送る数字はアルファベットを示す。そうして全アルファベットを送り終えたら、再び「調節器が水平で左が右下、右が垂直上」の信号を送信する。今度はこれが「これでアルファベットを終わります」という意味になった。
(略)
[シャップは莫大な運営管理費に頭を痛め]
三つの方策をナポレオンに提案している。まず腕木通信を民間に開放して商用に利用することだ。特にシャップは諸国の金融情報を腕木通信でパリに集めれば、パリをヨーロッパ一の金融都市にできると考えていた。次にニュースの配信だ。当時はパリで印刷した新聞を地方へ郵便馬車で送り届けていた。シャップはこの新聞に載るニュースを腕木通信で地方に届けるよう提案した。
 最後にシャップが提案したのは公営宝くじの当選番号を伝えるというものだった。当時、公営の宝くじは国庫を潤す手っ取り早い方法として活用されていた。しかしこれはパリだけの話で、地方では闇の宝くじが横行していた。そこに目をつけたシャップは、腕木通信で宝くじの当選番号を配信することで、地方でも公営宝くじの販売を行えると考えたのだ。
[結局、採用されたのは宝くじ当選番号の配信のみだった]

世界初のネット犯罪と小説

1834年、銀行家だったフランソワとジョゼフのブラン兄弟は、腕木通信を悪用して大金をせしめることを画策する。当時、パリの株式市場の情報は、郵便馬車で5日かけて約550km離れたボルドーに送られていた。(略)ブラン兄弟はこの時間差に着目した。(略)
[当初私設の腕木通信設置を考えたが、費用がかかるため、既存の腕木通信を利用することに。ピエール・ルノーという第1階級の監督官を仲間にし、株式情報を腕木通信のメッセージに紛れ込ませた。しかし、仲間の一人だった通信手が重い病で死ぬ間際]病床で看護してくれていた友人に、悪事の一切合切を話してしまう。その後、この友人はもう一方の通信手を捜し出して金を要求するとともに、自分も仲間に加えてほしいと頼み込む。通信手が知らぬ存ぜぬを押し通すと、その男はことの次第をあらいざらい警察に話してしまった。結果、通信手が逮捕され、そこから芋づる式にルノーやブラン兄弟の存在が浮かび上がり一味は一網打尽となる。
(略)
[デュマの小説で]
 モンテ・クリスト伯はこのモンレリーの腕木通信基地に詰めている通信手を訪問し、2万5000フランの大金(現在価値に直すと約2500万円)を積んで偽の情報をパリ宛てに送らせる。偽の情報とはスペイン国内で内紛が勃発したというものだった。この情報を素早く入手したモンテ・クリスト伯の仇敵ダングラールは、ガセネタとも知らずに手持ちのスペイン国債を売り抜ける。(略)ところが翌日の新聞で、昨日の情報は腕木通信による誤報でスペイン国内は平穏の知らせが流れると、スペイン国債は一挙に2倍の値がついた。

「おしゃべり」の発見

 電信がそうだったように、電話という情報技術でも、まったく予期せぬ可能性が現実のものになる。その一つが「おしゃべり」だった。
 ネットワーク外部性が進み、電話は桁外れに使いやすくなった。目的の話し相手をすぐ呼び出せるようになった。では、電話事業にとっての電話回線上にのる「キラー・コンテンツ」とは何だったか。ビジネス上の用件を話すことだったのか。もちろんそれもあった。しかし電話会社の収益に大きく貢献したのは長々と続く「おしゃべり」すなわち「無駄話」だった。これは電話事業者にとっては予期せぬ可能性の展開だった。
 そもそも電話会社にとって電話はビジネス上の注文やサービスの依頼などに用いるものだという先入見があった。そのため、無駄話は電話会社にとって電話の正しい使い方に映らなかった。無駄な長電話に反発さえ感じていた。しかし定額制ならばともかくも、従量制の長電話ならば、電話会社の収入増につながる。これは電話会社にとって「予期せぬ成功」になるはずだった。しかし当初、電話会社の経営者にはこの理屈が理解できなかったようだ。
 ここで用いた「予期せぬ成功」という言葉は経営学ピーター・ドラッカーが言いだしたものだ。(略)この点に関してドラッカーは次のエピソードを披露している。
 1950年頃、ニューヨーク最大のデパートであるR・H・メイシーの会長からドラッカーに相談があった。会長が言うには、最近ファッション製品の売上げよりも家電製品の売上げがよくて困っている、とのことだった。ドラッカーは「それで損をしているのか」と質問した。すると会長は、本来メイシーのような百貨店は売上の7割がファッション製品でなければならない。ところが家電の伸びが大きくて6割に達した。残された手段は家電の売上げを抑えて、正常な水準に戻すことだ、と言う。
(略)
当時の電話会社が直面した事態もメイシー百貨店と同じだった。電話は注文や依頼といったビジネス用途に使うものだ。この信念が邪魔になって電話会社は「おしゃべりによる収入増」という予期せぬ成功を受け入れられなかった。実際、ベルがコンサートの中継を電話の主たる用途だと決めつけて、この用途に固執していたら、ベル電話会社の歴史は実に短いものだったに違いない。しかし幸いなことに電話会社の重役はやがて「おしゃべり」が電話会社にとって大きな収益になることに気づき始める。そして、予期せぬ成功を受け入れることで、電話会社の収益を大きく底上げすることに成功する。(略)
そのテクノロジーが市場でどのように使われるかは市場に聞かなければわからない。市場からのリアクションに耳を傾けなければならない。(略)
 歴史は繰り返すと言うけれど、同様のことは近年のインターネットでも起こっている。[SNSでのやりとりがそれに相当する]

ラジオ

 そもそもラジオは当初、無線電話と呼ばれていたように、双方向のコミュニケーション装置だった。しかも(略)プロフェッショナルの占有品ではなく、アマチュアにも広く利用されていた点だった。いやむしろラジオ放送の誕生からも明らかなように、その端緒となったのはビジネスマンの戦略的発想ではなく、アマチュアの好奇心だった。(略)
 電信を考えてみてもらいたい。アマチュア電信士が個人で所有している電鍵でモールス符号の練習をすることはできる。(略)
 しかし本格的な電信士として活躍しようとするならば、ウェスタン・ユニオン社などの企業に所属しなければならない。(略)
[無線では]通信網を構築する必要はない。(略)ちょっとした資本さえあれば誰でもラジオ放送に参入できる。(略)
[決定的な違いは]無線がリアルタイムで1対nのコミュニケーションを実現できる情報技術だという点だ。
(略)
[だが]電波の送信になると特殊な知識が必要となり、整備する機材の価格も高くつく。そこまでして電波を送信しようとするのは好きだからであって、これがマニアのマニアたる所以だ。しかし一般の人はそうではない。無線電波の送信に興味があるのではなく、にわかに話題となったラジオ放送を聴取することに興味があった。だから彼らにとっては、送信機能がまったくない、安価な鉱石ラジオでも問題はなかった。
 こうしてラジオの受信を通じて人は新しいコミュニケーション様式を受容する。それは大衆が1対nのn側になるコミュニケーション様式(略)が成立する過程だった。ラジオ放送の登場により大多数の人々は、無線がもつ送信の可能性には背を向けて、手軽な受信に可能性を見出した。

デービッド・サーノフ

[給仕として採用されたが]モールス信号にも覚えのあったサーノフは、やがてアメリカ・マルコーニ無線電信会社の無線通信士の座を得る。(略)
その日、夜勤をしていたサーノフのイヤホンには偶然にも、2200km余り離れた汽船オリンピック号からの緊急信号が届いた。
 「汽船タイタニック号が、氷山に衝突。急速に沈没中」
 サーノフはオリンピック号に詳細を確認すると、すぐさま新聞協会と各新聞社に情報を流した。以後、サーノフは続々と入る情報を受信し続ける。混信を避けるため、時のアメリカ第27代大統領ウィリアム・タフトは、サーノフの受信が妨害されることがないよう、ワナメーカー局以外の通信局を一時的に閉鎖するよう命令したほどだ。ワナメーカー百貨店には、家族や友人がタイタニック号に乗船している人々や野次馬であふれかえった。(略)サーノフは責任の重大さを感じ、三日三晩、持ち場を離れずに刻々と入る情報を収集し報告し続けた。
(略)
 1921年、サーノフは30歳の若さでRCAの総支配人になると、いよいよ温めていたラジオ・ミュージック・ボックスの計画をスタートさせる。(略)
[目玉にしたジャック・デンプシーのタイトルマッチ実況中継は40万人が聴取。デンプシーが4回KOで勝利した直後、社長からサーノフ宛に「君たちは歴史をつくった」と電報]
以後、サーノフのラジオ・ビジネスは急成長を遂げる。
(略)
[広告代理店はこの全国規模のネットワークに目をつけたが]
 意外なことにサーノフ自身は広告放送について否定的で、広告以外の収益でラジオ放送を維持するべきだと考えていた。まず、放送は公共事業だから誰でも聴けなければならない。だからリスナーは無料で番組を聴取できる必要がある。そのためには、事業者側が放送費用を工面すべきだ、とサーノフは考えた。ド・フォレストも広告放送によりラジオがもつ最大の利点、すなわち質の高い放送の提供がぶちこわされると考えていた。企業は儲けるのに忙しいから番組の質など目もくれない、とド・フォレストは歎く。
 その一方で、アメリカ3大ネットワークの一角で、のちにNBCの強力なライバルとなるCBSの社長ウィリアム・ペイリーは、ラジオの広告放送を積極的に支持した。ペイリーによると、ラジオ放送には金がかかり、政府がその面倒を見てくれるわけではない。したがって財源は広告に求めざるを得ない、というものだった。
(略)
[結局]大量に生産した商品を広く告知し大量に売り捌くための装置として、ラジオ放送は巨大産業にのし上がっていく。

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