「声」の資本主義―電話・ラジオ・蓄音機の社会史

演奏会の変遷

ウィリアム・ウェーバーによれば、今日知られるような演奏会のあり方が確立するのは、1830年代以降のことであるという。18世紀までの音楽会では、演奏の鑑賞自体よりも、そうした社交的な場への参加に重心が置かれていた。(略)
聴衆にとって、来場の目的は集まること自体であり、音楽鑑賞が独立の美的経験としては考えられてはいなかった。(略)
1830年代をおよその転換点として、商業的に組織された公開の演奏会がヨーロッパの主要都市で激増していくのだ。この変化の基底にあったのは、いうまでもなく中産階級の台頭である。19世紀を通じ、上層中産階級は貴族階級と連合しながら音楽会の聴衆を形成していき、中下層の中産階級や職人層までもがより安価な音楽会の聴衆となっていった。

電話で無駄話をするな

1920年代にいたるまで、電話による「おしゃべり」は、電話本来の利用法からは逸脱した、無駄なものとして疎んじられていた。社会的に必要な情報を、これまでよりも遠く、居ながらにして伝えることを可能にするのが電話であって、用件のはっきりしない、ただ社交のための会話を電話で長々とするのは、けっして望ましいことではないと考えられていたのである。場合によっては、こうした「間違った」利用法を抑制するための方法が検討されることもあった。(略)そのための一つの方法が、通話時間に制限を加えることであった。

ベルはおしゃべり推奨

著名な音声学者一家の一員として出発したアレクサンダー・グラハム・ベルその人はいささか例外であったかもしれない。彼はすでに1878年、「人々がちょっとしたゴシップについて気楽に電話でおしゃべりができるようになるなら、だれしもが電話を持とうとするようになり、われわれのポケットにはお金がざっくりころがり込んでくるだろう」と、電話の単なる通信メディア以上の可能性に注目していた。

草創期の電話交換手のありよう

北米大陸では1883年まで、加入者に電話番号がつけられていなかったこともあり、交換手は地域の契約者全員の名前と住所を知っていたし、契約者の方も交換手たちの名前を知っていた。したがって、交換手と回線加入者との関係は、単に通話をつなぐという以上のパーソナルな性格を帯びていたのである。交換手たちはそれぞれ得意客を抱えており、そうした客からの通話を他の交換手に取り次がさせようとはしなかった。また契約者も、自分の電話を取り次いでくれる懇意の交換手を決めていた。実際、有閑婦人のなかには、まずは女中に電話をかけさせ、なじみの交換手が局にいないとわかるとそのまま電話を切ってしまう人々までいた。こうして交換手と契約者は、交換業務が暇な時間帯には長々とおしゃべりを交わしてもいた。
しかも、電話会社はこうした交換手たちの活動をけっして禁止してはおらず、むしろ奨励していた。

農村パーティーラインDEATH

草創期、とくに農村部の独立系の電話会社が交換システムが十分に発達する以前に普及させていたのは、それぞれの回線に複数の加入者が直列的につながるパーティーライン的な電話であった。いわば、今日の内線電話を近隣一帯にまで拡げたようなシステムである。(略)
密室的メディアというよりも、地域に散在する個人や集団を一つの多岐的なコミュニケーション空間のなかに接続し、混在させてしまう井戸端的なメディアだった。(略)
人々は、受話器をとって、そこですでに進行している会話に耳を傾け、ときには後からそれに参加していった。もともと互いが顔見知りであるような農村のコミュニティにあっては、このような活動は「盗聴」というよりもむしろ集団生活の一部として認識されていた。(略)
ただし、全体としてみるならば、新たに回線に参入した人は、そこですでに行われていた会話を黙って聞いていることの方が多かったようである。婦人たちは手仕事をしながら、受話器をはずしたままにして、近隣の人々によって交わされる世間話やゴシップに耳を傾けていた。

有線電話

住宅用電話が急速に発達した都市部と違い、農村部では戦時に設置された有線放送設備を元に有線電話が発達。
1955年に千葉では機械好き青年を中心に

施設の工事が始まると、村人たちが山林から電柱にする木を伐り出し、電線を張りめぐらし、各戸に備えつけるテレフォン・スピーカーを組み立てていった。彼らは、比較的低額の負担でラジオと電話が同時にひけるのなら安いものだと、つぎつぎにこの電話ネットワークに参加し、たちまち加入者数は400戸を数えるに至った

住宅用は全体の15%だった公社電話と農村の対立

[住宅用は]1960年度でも45万にすぎなかった。主として都市部を中心とした公社電話の家庭利用と、農村部を中心とした有線放送電話の利用では、すくなくとも60年代前半までは、後者の方がより広範な広がりを見せていたのである。(略)
郵政省や電電公社の側からするならば、こうした有線放送電話の急速な発展は大きな脅威であった。なにしろ公社電話の場合、加入者数が300万を超えるまでに70年もの歳月を要している。それに対し、有線放送電話はわずか十数年で端末数300万を超えてしまったのだから、普及のスピードには雲泥の差があった。しかも、有線放送電話には、さしあたりは町村単位のシステムが、もしもやがて相互にネットワーク化されていったならば、わが国の国家主導の電話制度を根底から変容させてしまいかねない可能性する孕まれていた

法制定で潰された農村電話。70年代に衰退。

当然、郵政省と電電公社は、早い時期から有線放送電話の普及を警戒し、これに歯止めをかけようとした。(略)郵政省・電電公社と、これを拡大させて新しい権力基盤にしていこうとする農林省・農協の間には種々の駆け引きが見られた。結局、1957年に「有線放送電話に関する法律」が公布・施行され、①有線放送電話の設置は郵政大臣の許可制とすること、②業務区域は農山村地域に限定すること、③複数の市町村にまたがってはならず、公社回線との接続も認めないことなどが決定される。

明日につづく。