メディアの近代史

メディアの近代史―公共空間と私生活のゆらぎのなかで

メディアの近代史―公共空間と私生活のゆらぎのなかで

またぼんやり読んでしまったとDEATH。
19世紀の通信問題。配信拒否、身元明示、検閲。

ルイ=ナポレオンボナパルトの政府では、サン=シモン主義にのっとって電信を産業の振興策と見なし、電信利用の拡大を目指した。しかしながら下院は消極的であった。(略)電信を独占できなくなった「政府は特権を失い、一般人も政府と同時に国内で起こった出来事を知ることになる。そうなれば、政府にとって電信の発明はまったく無意味だ」。通信のビジネス利用は公共の利益を損なうという危惧を下院が抱いたために、法案では政府の利用に優先権を与えた。
さらに、「凶悪な犯罪グループが通信を容易には利用できないようにする」ために、私的な文書は明確な言葉で記述し署名も入れなければならない、ということが法律で定められた。利用者は身元を明示しなければいけないのである。警察によるこのような規制に下院が条文を追加し、政府案(「誰でも通信ができる」)を「身元の確認できる者なら誰でも利用できる…」に変更した。通信の管理責任者は文書の配信を拒否できるのだ。このような検閲を認めているのはフランスの法律に限ったことではなく、隣国のプロイセンオーストリア、オランダでも同様だった。英国の場合、個人の通信であっても特別な状況下では国家が通信網の利用を規制できる。
このように、国の通信に関する基本的な考え方は、1850年の法律にも引き継がれたのである。

無線の商業化への道

一対一の電気通信手段でしかなかった無線電信は、わずか十年のうちに大衆文化の主要な担い手である放送の仕組みと化した。ここにみられる(技術と社会間の)用途の相互循環過程は、現在にも通じる二つの進化の潮流に関連して発生している。まず最初に、第一次世界大戦が無線電信の量産を推進した。そして米国では、無線はアマチュア愛好家が自由に交流できるコミュニケーション空間となった。

アマチュア無線家という下地

無線放送をマスメディアとするには、受信機の量産と市販が必要である。それを同時並行的に主導したのはウェスチング・ハウス社である。(略)
1922年11月の時点で米国には五つの局しかなかったが、12月以降に本格的なブームが発生する。八ヵ月後には150の局が新設されたのだ。このような増加が可能になったのは、あたらしい局を運営できるアマチュア無線家の集積が存在したからにほかならない。アマチュア無線ブームは、最初の聴衆だけでなく最初の専門家をも供給することになったのである。

金を出すのは誰だ

無線電信のあらたな用途が定着するには資金的な裏づけが必要である。ウェスチング・ハウス社が事業を開始した当初は、機器の製造業者が番組に支払うという構想があった。実際には番組は存在せず、受信機の生産者は大量の製品を流通させられなかった。番組の資金は一種の商業的な投資とならざるをえない。また、機器の売上げから番組の管理コストをまかなうという方策は、ラジオ放送の黎明期には好都合かもしれないが、普及期にはそぐわない。

受信者に税を課すことを考えたウェスチング・ハウス社に対し、広告という手段をとったAT&T

電話事業者、なかんずくAT&Tは、ラジオの事業基盤に対してまったく異なる見通しを立てていた。AT&Tの経営者のひとりは「われわれは番組を提供しない。利用者がわれわれのところまで来るべきである。メッセージを広めたいと希望する者、あるいは娯楽を提供したい者は、電話利用者が大人数に伝達したいときに実行しているように、みずからが送信を手がけて料金を払うべきだ」と記述した。メッセージの作成者に支払わせるという発想から広告収入という発想に到達するには、あと一歩踏み込むだけでよかったのだが、AT&Tはあっさりと踏み切ってしまったのだ。しかしながら、その滑り出しから広告への反発は非常に強かった。たとえば1924年に商務省長官フーバーは、「大統領の演説が広告に挟まれたサンドウィッチのハムのように扱われるのだとしたら、ラジオには何かあるというのか?」と主張している。