メディア・ビオトープ

鶴見俊輔津野海太郎スメルは好きですか。いやあ、におうにおう。ああっ、反感を買う書き方しちゃった。
ラジオのインパクト(興味ある人は『「放送」以前のラジオをめぐる多様な欲望』[id:kingfish:20050227]も)

無線からラジオヘ。この転回の過程には、僕にいわせれば人々をメディア論的に覚醒させる豊かな鉱脈が埋まっていた。その鉱脈から掘り出された原石は、僕たちの日常生活をまばゆく照らし出す閃光を放ち、誰もが抱いているメディア観を激しく揺さぶり、当たり前だと思っていたメディアのイメージを突き崩すインパクトがあった。(略)
有線の電信や電話は当時、すでに国営事業や大企業のビジネスとして確立されていた。一方新しい無線は取るに足らない、おもちゃのような、周縁的な情報技術だとされていた。そのためもあってこの新しい技術は、欧米を中心に世界各地にいた市井の発明家やアマチュアたちの手で育まれることになった。とくにアマチュアたちは「無線少年」と呼ばれる、十代の男の子たちが中心だった。無線少年は、ちょうど一九八○年代のパソコン少年たちのように、社会的な語題を呼び、尊敬と揶揄の対象になっていたのである。(略)
彼らは無線がただの技術ではなく、音声を介してこれまで出会うことがなかった人々を結びつけ、伝統的な村落共同体を超えた電波のコミュニティを形作る力を持っていることに覚醒していった。彼らのなかからは、無線局を中継して世界中を結びつけ、グローバル・ビレッジを実現しようという気運も現れてきたのである。

メディア・リテラシーとは

[母の世代は衣服を作ることができたし、子供に衣服を作ることは愛情表現であった]
そして僕たちは今、母の若いころよりははるかに多くの色や素材、ブランド、デザインのなかから衣服を選ぶことができる豊かさを手に入れた。しかし僕たちの多くは、衣服を作ることができない。その仕組みや作り方を知らないし、場合によってはなおしたり、掛け接ぎすることさえできない。そしてかんたんに捨ててしまう。捨てたモノがどうなるか想像することもない。衣服とメディアを同じ位相でとらえてみよう。僕たちはさまざまなメディアがあふれかえるなかに暮らしていて、多様な選択肢を手に入れている。しかし大半の人々はメディアの仕組みを知らず、メディアを作ること、メディアで表現することを知らない。そういうことができると想像したことさえない。多様な選択肢から手に人れたメディアの情報を楽しみ、消費し、そして捨てたり消去したりする。捨てられたものがその後どうなるかは、衣服の場合以上にまったく知らないのだ。(略)
このように考えてきたとき、メディア・リテラシーとはなんだといえるだろうか。それはメディアという衣服を、ただの商品として買って使うだけだはなく、それがどこで、誰によって、どのように作られたかを知ることによってより賢く、したたかに着こなすことができる営みであり、同時に自分で衣服を編んだり、繕ったり、新しい編み方を考えたりすることができる営みのことを意味するといえるのではないか。そうした活動を通じて、衣服をもっと自分のものにできるようになること、衣服を通じて自分と社会の関わりや、社会の仕組みを理解できるようになることまでを射程にしているのである。

すがすがしく無知な私は、カルスタってナニかね?と文太ちっくにばかにしていたわけだが。ますます、ますます。

メディア・リテラシーは一九七〇年代後半以降、カルチュラル・スタディーズという『空飛ぶじゅうたん』に乗って浮上したのだよ」。カナダ・メディアリテラシー協会の元会長であり、マーシャル・マクルーハンの教えを受けたバリー・ダンカンは、あるとき僕にそう話してくれたことがあった。メディア・リテラシーはもともと、日曜学校や成人教育など正規の学校教育の外側で広まった、日常生活のなかのメディアを振り返る学習活動だった。カルチュラル・スタディーズもまたオープン・ユニバーシティのような成人教育の場を拠点として発達した、周縁的な知的思潮だ。この思潮の中心人物であるスチュワート・ホールはかつて高校教師として、メディアと、ホピュラー文化を批判的に読み解く本を書いたこともある。それはメディア・リテラシーの本だった。カルチュラル・スタディーズメディア・リテラシーは複合的に共生し合い、発展してきたのである。

相手の体重さえ軽ければ草野仁は勝てるという発想で片八百が清清しく展開されていたレッスルコロシアム。草野仁の面白さを成立させるには接待レスリングという構造も仕方ないかなとは思うが、第一回から草野失神でもそれはそれでありな気もするが、まあ面白かったからいいや。で、ナニが言いたいかというと、片八百の悲しみといいますか。負けてモロに不快感を露にしていたジョーダンズ三又とか、逆にアレッって表情のマギー審司とか。負けてやる方も面白くないだろうけど、勝たされた方も、じゃあガチでやったらオレが負けると思われてるわけという面白くなさでありまして。何が言いたいかといいますと、ネットはガチなとこがいいんだから、てめらがリーダーだの、バランスだの、交流だのふざけんなって話。勝手にオフ会やってろってことです。(この部分、著者の意図というか異種混淆ネットワークの意味を理解できてないという突っ込みがあるでしょうが、自分を棚に上げて言うならば、お前が相手にしなきゃいけないのは、お前を全然理解してくれない人間だろうということですよ。話のわかる同士でコミュニティとかね、何様だよ。うーん、これでも言わんとするところは伝わらないかな)

つまり、異種混淆ネットワークを仕掛けるのだ。どんな場合でもはじめは少人数がよい。たとえば四〜五人程度。異なる領域、ちがう立場のリーダーたちを立体的に、バランスよく見出し、位置づけ、集まってもらう。彼ら/彼女らはきっと自己紹介をひとめぐりするだけで、おたがいがどれだけ似たような境遇におかれているか、同じような志を持っているかに、すぐ気付くことになる。このような出会いが、どれだけ個別のメディア表現者を勇気づけ、はげまし、力を与えることになるか。幸せな出会い方をしたメディア表現者たちにとって、異種混淆ネットワークはなにものにも代え難い価値を持つ。

それはそうと録画の時間設定を間違えて決勝の草野vsマギー戦が判定に問題発生という箇所で切れていて、ぬおおおお。再放送を待つ。