相倉久人にきく昭和歌謡史

相倉久人にきく昭和歌謡史

相倉久人にきく昭和歌謡史

相倉 僕は今、ポップス化現象の崩壊時期だと思うんです。ポップスというのは完全に20世紀の発想で、ポップスはジャンルじゃないんですよ。(略)
 20世紀の中盤ぐらいから、すべての音楽がポップス化するという現象が起こったんです。共時的な現象でもってね。売れるものは全部ポップスなんで、当時はカラヤン指揮の交響曲「運命」だってボップスですよね。(略)
なぜカラヤンが評価されたかというと、売れるからですよ。そういうことの前提には、必ず物事は成長して大きくなって売れるようになっていくという、それが目標だっていう考え方があるわけですよね。それが崩れてきたわけでしょ。(略)
それだけに、これからの音楽を語るというのは、語ることはできるけれど、なんと名付けて語ったらいいのか、わかりにくいということがありますね。

笠置シヅ子「ラッパと娘」

相倉 すごいですよ。戦前これだけスキャットをきちっと歌えた人っていうのは、他にいなかったようですね。例えば、戦後になって、美空ひばりが非常に巧く歌ってますけど、あれはね、まったくのコピーです。誰かのコピーですからね。全然アドリブじゃないんですよ。そういう意味ではスキャットじゃない。ただ、ひばりさんは非常に音感がいいんで、聴いたのをそのまま再現できる。ところが、笠置シヅ子は自分の思うようにスキャットをやっている。すごい人だった。

「山寺の和尚さん」

相倉 ほとんどの人が勘違いしててね、昔からあった日本の俗謡じゃないかと思っている人が多いんですよ。でも、これを作曲したのは服部良一なんですね。
松村 ジャズ・コーラスの面白さを狙った曲です。これが、彼のファースト・ヒットと言っていいですね。(略)
実は服部さんがいちばん聴いてほしかったのは“〽ダガジグダガジグ”っていう部分だったんだそうです。
相倉 これね、昔からある手毬唄を戦後になって服部さんがジャズ風にアレンジし直したんだと言われたら、知らない人は信じますよね。でも、昭和一二年、一九三七年作ですよ。

新田八郎「南洋航路(ラバウル小唄)」

松村 これ、大ヒット曲ですよね?
相倉 というか、発表当時は、そんなには流行らなかった。この歌が流行りだしたのは、むしろ戦後ですね。(略)
原曲に“ラバウル”なんて言葉はぜんぜん出てこないでしょ。まあ、出たのがアメリカとの戦争が始まる前の年ですからね。ところが戦争が終わる頃に、南方作戦なんかでいろんな地名が出てきて、兵隊がこの歌を“〽さらばラバウルよ”という歌詞に替えて歌いだしたんですね。それがそのまんま、戦後やたら流行ったんですよ。戦争が始まる一年前に作られた歌が、戦争が終わる頃から戦後に引き継がれた。戦時下を抜け出しちゃった変な歌なんです。その「ラバウル小唄」の方が有名になった。(略)
引き揚げが盛んになった頃ですよね。何て言うんでしょうか、戦争が終わってしまったんで、戦時中を懐かしむと言うとおかしいけども、戦地にいた頃のことを思い出して歌ったんですね。
(略)
余計な話をしますと、僕は小学校時代、非常に体が弱かったんです。なぜか勉強だけはできたんですけどね(笑)。(略)
そういう虚弱体質なのに、[成績がいいので]なぜか中学一年のときに陸軍幼年学校っていうところを受験させられたんですね。[だが入学した年に敗戦。寮で一緒だったのが西村京太郎。一つ上に、いずみたく、なだいなだ、もう一つ上に加賀乙彦。後年座談会をやったら、加賀から、かわいい相倉は上級生に狙われてたと言われた]

防空壕

相倉 平井太郎さん?江戸川乱歩さんですね。その平井さんが町内会の会長みたいなことをやってて、金持ちで大きな家でしたね。防空壕の見本を庭に掘ったからって、みんなで見に行ったりしましたね。

コロムビア合唱団「比島決戦の歌」

相倉 もう、やけくそな歌ですよね。
松村 この歌が出た直後に、文化人グループが、これは行き過ぎだっていう意見を情報局に申し入れたそうです。(略)
 フィリピンのレイテ島沖海戦というのが、この年の一〇月二○日に戦闘の火蓋が切られて、途端に日本軍が負けてるわけですよ。じつは、このレコードが出た頃は、もう負けてた。そのときの米軍の陸軍総司令官が、かのマッカーサー。海軍の総司令官がニミッツ元帥。ニミッツは、沖縄上陸作戦の司令官を務めた人ですね。その二人の名前を入れて“地獄へ逆落し”にしてやるっていう歌。これは、よく流れてたんですか?
相倉 ずいぶん聞いた憶えは確かにありますね。で、これ、おかしいのはね、作詞が西条八十なんですね。当人が後に、なんでこんな詞を、ってきかれて「あれは改作されちゃったんだ」って弁明したというんだけど、ホントかなあ?(苦笑)(略)
松村 まあ、軍人が書いた、って言われてるんですが。とにかく、こういう生々しい攻撃性を、バーンっと出すというのは、要するに、追い詰められていた証拠ではないかと思うんですが。
相倉 当然そうでしょうね。

美空ひばり「真っ赤な太陽」

相倉 (略)[曲を依頼された原信夫]全然いい曲が浮かばなくて困って(略)前に書いて使わなかったやつを出して(略)持ってったら、美空ひばりが「これ、私の曲じゃないわね」って。(略)じゃあ、大いに趣を変えようっていうんで、ジャッキー吉川とブルー・コメッツを付けたんですね。ブルー・コメッツの連中も、「ええっ、美空ひばりがこんな曲を歌うの?」って、半ば信じなかったっていうんですが。そういう曲が彼女のレパートリーになって、大ヒットしたというね。

タモリとジャズメン

 不思議なことに、ジャズメンってほとんど全員、落語が大好きなんです。それで、その場にいる人を笑わせて、わかせる。タモリの芸はね、ほとんどが仲間内のジャズメンから取り入れたものなんですよ。ただ、ジャズメンは内輪だけで、そういう芸を公の場じゃ、あんまりやらない。そういうのをタモリが吸収して、放送でやったりなんかするようになったということでね。タモリの芸の原点は、ほとんどジャズメンの芸ですね。
(略)
坂田明は非常に物真似とギャグが巧い。同じように、サックス奏者の中村誠一というのが、これまたやたら巧いんです。この二人に漫画家の南伸坊を加えて(略)あるバーでもって討論会を始めちゃったんですね。で、南伸坊自民党田中角栄をやってたら、坂田明が突然、共産党田中角栄になっちゃった。(略)そういう場で、後ろの方にタモリがいて、それに加わるという。そういう感じでしたね。

山口百恵「ひと夏の経験」

相倉 (略)歌詞を見て、当然、彼女はショックを受けるわけですよ。(略)[他の子は]明るくて、ひらひらした洋服を着て歌ってるわけでしょ。それなのに、私はこんな歌をどうしてって。(略)
 当時、にやにや笑いながらやってきて、中学生の女の子であんな歌詞が歌えるってどうなのってきいてくる記者がいたんですね。そういう質問に対して、彼女は怒るっていうより軽蔑するんです。(略)
「じゃあ、うかがいますけど、映画の中で殺し合いをやってる人たちっていうのは、そういう経験があるんですか?」 って。要するに、私はまだ中学生ですし、こういう歌詞を私が書いたわけじゃありません。先生から歌をいただいたときに、14歳の女の子として、どうしたらいいかなって自分なりに想像力を働かせて演技をしているんですよ、ということなんです。だから、こういう経験ってどうなのっていうきかれ方がいちばん嫌なわけですよ。まあ、自分では意識していなかったかもしれないけれど、はっきりとした演技論みたいなのを、もう持ってたんですよ。

山口百恵「イミテーション・ゴールド」

相倉 (略)彼女が「これまであんまりはっきり言わなかったけど、宇崎さんの歌を歌いたいって言いだしたのは、じつは私自身なんです」って言うんですよ。
[当時、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドはツッパリのイメージ]
(略)
「宇崎さんの曲を歌いたいって言ったので、私は阿木さんの歌詞に出会うことができました」って。(略)
「でもね、阿木さんだって私が歌ったことでずいぶん変わったと思いますよ」って言ったんですよ(笑)。これは、すごいですよね。(略)まだ20歳ですからね。

[キャンディーズ引退宣言直後、『GORO』の企画で相倉、小倉エージ、北中正和鏡明の]四人でね、彼女に会ったんですよ。
 いろいろ話しているうちに、鏡明が「ところで百恵ちゃん、キャンディーズの問題どう思う?」ってきいたんです。彼女は、もう言下に言いましたね。「あれは、つまんない話だと思う」って。「えっ、どうして?」ってきいたら、「だって、私だって今こんなわけのわからない生活してますよ。でも、心の中では、普通の19歳の女の子だと思っています。そう思ってなかったら、こんな仕事やっていられません。だから、あの人たちが、本当に心から普通の女の子に戻りたいって言うんだったら、さっさと辞めればいいでしょう」って、すごい冷たいことを言うんですよ。(略)
「でもね、ああ言って辞めるのはいいですよ。ところが、こういう芸能界ですからね。一年、二年経つと、誰も憶えていないっていうことになる。たまたまスーパーヘ買い物に行って顔を見られても、何も言われない。そうなってしまって、寂しくなって芸能界へ戻ってくるようだったら、あの人たちの負けですよね」って言ったんですよ。びっくりしましたね。
 それを聞いてますから、彼女が三浦友和と結婚して辞めると言ったとき、よほどのことがない限り、どう口説いてももう絶対に出てこないと思いましたね。

はっぴいえんど「春よ来い」

曲作りに関しては、基本的に大瀧詠一が作曲するんですが、曲先が多かったそうですね。それに、松本隆が詞をつける。ところが、曲を松本君に見せないことが多かったっていうんですよ。こういう曲を作ったから詞をつけてくれって言わないんですって。「じゃあ、どうすんの?」ってきいたら、字数だけ言うんだって(笑)。一行目が五、次が七、六、八とか。だから、松本君はメロディを知らないまま詞を書いてたんだって。
 どうも巧くはめ込めないときもあって「そこは六にできないか?」「しょうがないなあ、じゃあ六でやってくれ」みたいなやりとりもあってね。それで、ようやく出来上がるでしょ。それからが大変なわけですよ。それを大瀧君は歌わなきゃいけないんだから。それを歌いこなすのに、ずいぶん苦労したっていうんですけどね。そういう試行錯誤でもって、はっぴいえんどの新しい日本語の歌のスタイルができた。字数だけ言って詞を書かせるっていうやり方。
(略)
それまでは日本語で歌いこなすという発想は、ロックの中にあまりなかったんですよ。でも、作曲して、それにこんなやり方で詞がついてしまうと、大瀧君はそれを歌いこなさざるを得ないわけでしょ。

音色の問題

相倉 違う種類の音楽文化を融合するときに、いちばん難しいのは音色の問題なんですよ。音色だけでその国の音楽、お国柄を表象してしまう楽器っていっぱいあるでしょう。それがね、絶対に溶け合っていないような感じをもたらすんですね。それをどうミックスするかというのが、いちばん難しいんですよ。これはおそらくテクニカルな分析だけでは絶対に近づけません。たいていの取り入れ方が面白くも何ともないというのは、それだと思うんです。具体的に誰とは言わないけれど、その点に鈍感な音楽を聴いてるとね、何でこういうことをやるんだと思いますね。スタイルそのものをミックスすることは簡単にできます。それが巧く溶け合って、もとのどっちでもない、違う音楽になれるかどうかっていうのは、音色をどうするかっていう問題なんですよ。
(略)
リズムとメロディとハーモニーがどうで、というような音楽学の分析では、音色は絶対に扱えない。機械で音の波形なんかを測定しても、何が違うかわからない。それなのに、この人の音色には品格があるとか、この音は奥深いとかね、聴けばわかるでしょ。その不思議さっていうのは、やっぱり音楽学の守備範囲ではないんでしょうね。
松村 津軽三味線の世界でも、完全に洋楽の枠組みの中で、限りなくエレクトリック・ギターに近い弾き方で三味線を弾いている若手がいますね。三味線の音色だから何となく和風に聴こえるんだけど、やってる音楽は完全に洋楽。溶け合ってない。それだったらギターを弾けばいいじゃないか、と言いたくなっちゃうような例があるんですよ。でも、本人は融合しているつもりなの、たぶん。やっぱり、楽器が持ってる固有の音色の落とし穴みたいなものが、確かにありますね。そうじゃなくて、伝統的な楽器をまったく使わないで、それに頼らないで、たくさんの人が日本的な感性で音楽をつくってきたわけでしょ。

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