ポール・ウェラー・その2 ジャム解散後

ポール・ウェラー

ポール・ウェラー

解散

 ジャムの最後のシングルについての話がすぐにやってきたが、ポールは新曲二曲のうちどちらにするか決めかねていた。ひとつは「ビート・サレンダー」、もうひとつは前回のツアー・タイトルでもあった「ソリッド・ボンド・イン・ユア・ハート」だった。(略)
[DJのトニー・ラウンス回想]
 「彼は“わかんないんだよなあ。お前はどっちがいい?この二曲のどちらか。どう思う?”と言うんで、僕は“断然〈ソリッド・ボンド〉”と答えた。すると“じゃあ、取っておこう”と彼は言ったんだ。“一体誰に取っておくんだい?レスポンドの誰か?曲作りに困った時のため?クリスマス用にかい?”と思ったよ」
(略)
解散後、デニス・マンデイはより積極的にポールに関わるようになっていった。
「(略)解散してからのポールは見違えるようだった。ジャムの存在がなくなった途端、みるみる彼の肩から重荷が下りていくのがわかった。
(略)
[ポールは]86年、ファン雑誌『ゴー・ゴー』でそのことについてこう語っている。
 「ジャムが終わりになるにつれてイライラが募っていった。音楽的に限定されていたからね。ファンは“野郎ども集まろうぜ”と言ったタイプだったし、僕はそれが好きじゃなかった。ロック・サウンドがどんどん嫌になったんだ。でかい音のギターもガシャガシャうるさいドラムもね。とにかくロックのすべてが鼻についた。カッコいいロック・バンドというのはセックス・ピストルズで終わってしまったのさ」
(略)
 当初、新しいプロジェクトの名前の候補は“トーチ・ソサイエティ”と“スタイル・カウンシル”のふたつが挙がっており、どちらにしようかポールは迷っていた。一度はトーチ・ソサイエティに決まりかけた。これはおそらくストーク・オン・トレントにある有名なノーザン・ソウルのクラブ、ザ・トーチにちなんでつけられたのだろう。トーチ・ソサイエティはスタイル・カウンシルのファン・クラブの名前として存続した。また“燃え続けろ”というノーザン・ソウルのモットーを反映した“燃え盛る松明”のエンブレムは、スタイル・カウンシルの初期の作品のジャケットに印刷されている。

ミック・タルボット

[ポール談]
「僕らは同い年なんだ(略)自分たちがスキン・ヘッズやスウェード・ヘッズだった70年代初期のレコードをよく知ってるしね。それに僕はどうしても彼のあのスモール・フェイセズみたいなオルガン・サウンドが欲しかったんだ」
(略)
[ミック談]
「パンクにかぶれたことはなかったね(略)エネルギーはすごいと思ってたけど、音楽的じゃないところがどうもダメだった。当時好きだった唯一のバンドはジャム。フィールグッドが若かったらあんな感じかというサウンドだったからね。でも、主に聴いていたのは、ボ・ディドリーとかマディ・ウォータースなんかのブルースだった」
(略)
 80年秋、マスコミのモッズ・リバイバルに対する突き上げが激しくなって、マートン・パーカスは解散に追い込まれる。その後ミックはソウルの影響を受けたデキシーズミッドナイト・ランナーズのヨーロッパ・ツアーに参加した。(略)次にミックはそこから脱退した三人のメンバーと一緒にビューローに加入する。このバンドは八人編成のソウル/ジャズ・グループで、将来性を匂わせる二枚のシングルを出し、81年には海外向けのみにアルバムをリリースしている。しかしその後目立った活動もなく、ウェラーから電話をもらった時、タルボットは失業手当てを受けているところだった。

ディー・C・リー

ダイアン・キャサリン・シアリーは(略)つけ爪や靴のモデルとして働いていた。そしてバッキング・ボーカリストを探していたワム!に見出された。(略)
「ポールはワム!とすごく仲がよかったんだ」とデニズ・マンデイ(略)
ポールは初期のワム!がすごく気に入ってたんだ」(略)
 いずれにせよ生粋のソウル・シンガーだったディー・C・リーにとって、「マネー・ゴー・ラウンド」は仕事のひとつに過ぎなかった。(略)
ポールがディーにソリッド・ボンドを案内している時に、彼女は壁にかかっていた何枚かのゴールド・ディスクを指して「ジャムって誰?」と尋ねたという。「ここでレコーディングしたくだらないグループさ」[とポールは答えた]
(略)
[84年頃のタブロイド紙に] 「これホント!ウェラーのアレ、チョッキン」という大見出しが載ったのだ。「子供はいらないからパイプ・カットしたいね。父親になる素質もないと思うし(略)
自分勝手な人間だから、子供のために貴重な時間を割くなんてできない……。だから、手術を受けようと忠ったんだ。でも医者が、若すぎるといって取り合ってくれなかったのさ」
 彼は結婚についても触れている。
 「結婚する意味ってあるのかな。婚姻届けにサインをしたからって、誰かとずっと一緒にいられる保証はないだろう。バンドの契約と同じさ。時が来れば、人は別れていくもんなんだ」
 しかしそれからしばらくして、ポール・ウェラーはディー・C・リーと結婚した。そればかりではなく、ひとり目の子供までもうけた。ギル・ブライスと別れて一年もしない1986年6月、サン紙はこのカップルの動向をこう伝えている。
「ふたりで密かに、ノース・ロンドンの高級地セント・ジョンズ・ウッドに30万ポンドの家を購入。(略)
 ウェラーはまた車の免許も取り、フォード・グラナダも購入した。そういったウェラーの姿は、ほんの数年前に彼自身が嫌悪していた“マイホーム・パパ”そのものだった。こうしたギャップが積み重なるうち、スタイル・カウンシルは崩壊への道をたどることになる。

85年、ポール・ウェラー、27歳を迎えて

年齢で自分を語ったりはしないけど、白髪は気になる。びっくりして、すぐに金色のメッシュを入れたよ。お次は何だっていうんだい?入れ歯、ハゲ、痛風?あー、まったく年はとりたくない!

86年、ポール・ウェラー『ザ・スタイル・ポピュレーション』

ある日ディーが言ったんだ。妥協さえしなければ、スタイル・カウンシルはいくらだってビッグになれるわって。僕らが妥協するわけはないからそうなっていくんだろうね。でも、ビッグになることを今は恐れたりしないよ……。どっちにしろ、落ちる時は落ちるんだからね。

煌めきは消えたのか

[87年1月、批評家から酷評された]「イット・ディドゥント・マター」の発売直後、スタイル・カウンシルは『NME』の表紙を飾ったが、それが最後となった。(略)
ポール・ウェラーは彼の全キャリアの中で初めて、マスコミから注意を払われない存在となった。ウェラーは決してマスコミのお気に入りではなかったかもしれないが、ほぼ十年の間、常にそれ相当の扱いは受けていた。しかしこの時点から、彼はマスコミから容赦なくからかわれる存在となってしまった。メインストリームの音楽雑誌のインタビュー記事からウェラーが姿を消すことを、マスコミの人々はどこか喜んでいる節すらあった。
 2月に発売されたアルバム『ザ・コスト・オブ・ラヴィング』も同じような扱いを受けた。

ハウス

 当初ポール・ウェラーほ、アシッド・ハウスの音楽性も、そのライフ・スタイルにも疑問を感じていた。(略)アシッド・ハウスに手を出すかという質問に対して「いや。もしハウス・レコードを作るなら、僕らはそれをカウンシル・ハウスと呼ぶよ……それもいいね?」と答えている。問題は、彼らの側にアシッドの切れ目のないビートに合うスタイルがあるかどうかだった。(略)
[88年後半“ガラージ・ハウス”が登場]
ポールは、レイズの「ブレイク4ラブ」などのレコードに夢中になっていった。
 「ガラージものにはイカれてるよ」とウェラーも後に語っている。
 「大嫌いだったのに今は完璧にハマッてる。ラフでむき出しの感じが好きだ。歌詞もなかなかいいよ。80年代のソウル・ミュージックはお洒落すぎた。きっとテクノロジーのせいだろうね。今ハウスが好きなのは、そういうものじゃないからなんだよ」
(略)
 当時のウェラーがもうひとつ夢中になっていたのは、ジョー・スムーズの香り高きハウス・ヒット「プロミスト・ランド」だった。(略)
 スタイル・カウンシルも二月半ば、「トップ・オブ・ザ・ポップス」の中で、オリジナル・バージョンの「プロミスト・ランド」を披露した。(略)
 「ただいい曲だなと思っただけなんだ」と、ポールは、その年の終わり、ファン雑誌『フレッシュ・エア』で語っている。
 「オリジナルはもっとラフな感じだったんだ……。でも、僕にはゴスペル・ソングに聞こえた。コードとかボーカルの感じとかがね。だからあの時は、自分たちの感じるままに演奏した。それほど変えてはいないけど、テンポは速くしたよ」

アシッド・ジャズ

バンドとポリドールの緊張関係が高まっていた。『コンフェッション・オブ・ア・ポップ・グループ』のレコーディング時には、ポリドールはアルバムの発売が一日延びるごとに罰金を取るという条項まで突きつけていたのだ。もちろん、それはすぐに取り消されたが……。
(略)
 この緊張関係は、89年2月にアシッド・ジャズ・レーベルからミステリアスなシングルが出るにいたって、最悪となった。「ライク・ア・ガン」というシングルを出したキング・トルーマンは、スタイル・カウンシルの覆面ネームだったのだ。
(略)
 アシッド・ジャズ・レーベルのボス、エディ・ピラーは、スティーヴ・ホワイトの所属していたジェイムス・テイラー・クァルテットのマネージメントもしていた。それがたまたまポリドールと契約を結ぶことになった時、ひと悶着起こったという。キング・トルーマンの噂を聞きつけていたポリドールの取締役は、ポリドールを訪れたピラーに近寄るや、彼を壁に押さえつけたままこう怒嗚ったのだ、
 「もしレコードを出したら、絶対訴えるぞ。そしたら、キング・トルーマンのレコードなんてすぐに消えちまうんだからな!」
(略)
 いわゆる“アシッド・ジャズ”シーンは1988年頃、アシッド・ハウスに対抗する勢力として発展し、その年のうちにクラブを席捲した。それより以前の主流は“レア・グルーヴ”で、それがハウスが到来する前のロンドンのお洒落なクラブや倉庫でのパーティの基本となっていた。「87年、レア・グルーヴはすごくもてはやされていた。特にサウス・イーストあたりでね」とディーン・ラドランドは語る。
 「しかし突然、それらの居場所がなくなってしまった。若い奴らがみんなアシッド・ハウスに熱を上げるようになったからさ。それまでレア・グルーヴ専門という感じだったDJたちが、突如ハウスをかけるようになった。行き場を失った連中は、アシッド・ジャズ・クラブに向かうしかなかったのさ」
(略)
アシッド・ジャズ・シーンには二種類の客層がいた」とディーンは語る。
 「昔からのソウル好きかモッズさ」
 だからウェラーがそういった音楽に自然に惹かれていったのも不思議ではない。またジャイルズ・ピーターソンは昔からのソウル好きで、エディ・ピラーは元モッズでいくつかのレーベルをやっていたこともある。だからシーンが確立すると同時にアシッド・ジャズ・レーベルを立ち上げることができたわけだ。
(略)
[ウェラー談]
今は音楽への情熱が戻って来ている。ガラージだとかクラブだとか、ジャンルを表わす言葉はいっぱいあるけど、僕には全部がソウル・ミュージックに聞こえる。特に、フェイズ2の〈リーチン〉はいいね。あれは本物だよ。初期のブルースや50年代、60年代のR&Bを思い出したね(略)
アシッド系のものはあまり好きじゃない。それよりも後に出てきた、ディープ・ハウス系の音の方が好きだね。デ・ラ・ソウルなんかの新しいヒップ・ホップも、音楽的にすごくいいね。スウィング・ビートを取り入れてるテディ・ライリーの作品も好きだな」

バ、バブルw、家庭、スランプ

 さらに首をかしげたくなるような事件が起こった。1990年4月に、日本のテレビ番組『ヒット・スタジオ・インターナショナル』の生中継のために、スタイル・カウンシルが一時的に再結成されたのだ。おそらく出演料が相当な額だったのだろう。メンバーはロンドンの撮影スタジオに集まって、お蔵入りになったシングル「シュア・イズ・シュア」を口パクで歌い、さらにウェラーは「ザ・ホール・ポイント」をライヴで歌った。ヨーロッパのウェラー・ファンのほとんどがこの放送には気づかなかったようだが、ずっと疎遠になっていたスティーヴ・ホワイトまでが参加したことは特筆に値するだろう。「スタイル・カウンシル解散後、スティーヴとまた一緒にやれるとは思いもしなかったよ」と、ポールは後に『NME』で語っている。
 「もしその時期に偶然彼から連絡がなかったら、共演は実現しなかったと思う。スティーヴはバンドを解散する二年ほど前に脱退していたんだからね。決して悪い感情は持ってなかったけど、なんとなくぎこちない感じではあった」
 ホワイトによると、ポールは収録の合間にこれからのプランについて語っていたという。
 「ポールは“ちょうどデモを作ってるところなんだけど、ちょっと叩いてもらえるかな”って言ったんだ。それで、二日ばかりソリッド・ボンドに行ってデモを作ったのさ」
 この時期のウェラーは音楽的にはまったく目標を失っており、息子のナサニエルを中心にした家族との生活を謳歌することで何とか気を晴らしていた。「僕は子供のことは何ひとつ知らなかったから、すべてが新しい発見だった(略)
慣れるまでにはちょっと時間がかかった。でも子供が二歳になった今は、ハイハイしたり、立って歩いたり、言葉をしゃべったりするのを見るのが本当にうれしい」
(略)
「皮肉屋ではなくなってしまったよ(略)子供のおかげだと思う。皮肉な態度がなくなると、人生は開かれるものなのさ。若いときほ、ものごとを善悪の価値でしか見ていなかった。白黒はっきりさせないと気が済まなかったんだ。視野が狭かったんだね。今は、誰かに目隠しをとってもらったみたいに、ものごとをありのままに見ることができる」
(略)
後にウェラーは、スタイル・カウンシルの最後の時期にほ新曲を書く意欲を失くしていたと告白している。家庭を築くのに一生懸命になっているうちに、彼の中には音楽が溢れなくなっていた。時おりインスピレーションが湧いても、どうしてもスムーズで洗練された毒気のない曲にしかならなかった。(略)
「方向性を見失っていた(略)あれは僕にとっては失われた時間だね。何を書いても、もうすでに書いたことがあるもののようにしか思えなかった。自分を取り戻すにはかなりの時間がかかった。本当にインスピレーションが湧いてこなかったんだ。螺旋階段を転がり落ちていくみたいに、ますますわからなくなっていったんだ」(略)
深い自己疑念にさいなまれながら、ウェラーはじっくりと自分を見つめ直したのだった。「なぜ自分が音楽をやっているのか考えてみたんだ(略)お金のためだろうか。いや、それは違う。じゃあ、自己満足のためだろうか。いやそうでもない。結局、音楽が好きだからやってるんだと気づくまで二年もかかってしまった。グルッとひと回りして、初心に帰ったんだ」

復活:ポール・ウェラー・ムーブメント

音楽的に行き詰まりを感じていたポールは、自分の古いレコード・コレクションを引っ張り出して聴くうちに、音楽を始めた頃に影響を受けた、スモール・フェイセズビートルズの作品と再会する。(略)
[96年に]「スモール・フェイセズは常に僕のナンバー・ワン・バンドだ。でもああいう音楽をどうやって現代にマッチさせるかという方法論はまだわからない」と語っていたことがある。しかし彼は、この頃になってその答えの糸口をつかむことができたのだった。
 ポールの中ではハウス・ミュージックの代わりに、トラフィックスプーキー・トゥースなど、60年代後期のバンド・サウンドが大きな位置を占めるようになった。そうした中で、ギターを愛するという気持ちに気付き始める。
(略)
 こうしたウェラーの音楽的趣向の変化には、アシッド・ジャズ・レーベルやジャイルズ・ピーターソンがトーキン・ラウド・レーベルなどから出されていた、60年代後期/70年代初期の色を持った作品群のグルーヴが大きく影響している。
(略)
90年の秋までに、ポールは五曲ほどの新曲を作った。それは、スランプの時に書いたものよりもずっといい出来映えだった。ここ数年で最高と言えるほど没頭して新曲を書くことができたが、それでもすべての自信を回復したわけではなかった。そこで彼は、ソロ・アーティストとしてやっていけるかどうかの確信を得るために(略)ライブを行なうことでファンに問うてみようとしたのだった。(略)彼は、自分に言い聞かせるようについにこう語った。
 「もうグループを隠れみのになんてしない。俺はひとりでやっていくよ」
(略)
プロでデビューして14年もの間、あんな状態でツアーに出たことは一度もなかったよ。プロモーションするアルバムも、客が群がるようなヒットもなく、さらにレコード契約もないという状態だったんだからね」(略)
[90年11月1日]
会場に選んだのはアシッド・ジャズのメッカ、ディングウォールズ。ソールド・アウトとなったこのショーにはディーン・ラドランドも果ていた。「あれは、その年で最大の出来事だった。僕は1990年の半ばからアシッド・ジャズ・レーベルで働いていたけど、あのレーベルの人間たちにとってあれほど感慨深いことは他にはなかっただろう。クラブに集まった観客よりも興奮していたよ。そのギグをきっかけに、彼のカム・バックを望む声が高まっていったんだ。その声に応えるように、ウェラーはレパートリーをどんどん充実させていった。その彼、ギルドフォード・シビック・ホールで再び彼を見た時、観客の入りは悪かったけどライブの内容はすごくよかった。エンジン全開という感じだったよ。彼はロックとソウルとの独自の折衷路線を見出したようだった」

[レコード会社との契約が決まらぬまま]ウェラーは、日本(イギリス本国よりもウェラーの人気は高かった)向けの契約をポニー・キャニオンと結び、デビュー・アルバム制作に必要な資金を得た。
 極東での人気に気を良くしたウェラーは、新しいバンド・メンバーを集めて、91年11月に日本でコンサートを行った。(略)
 日本は両手を広げてウェラーのカムバックを迎えた。本国では空席が目立っていたというのに、日本では超満員の盛況ぶり。それに対する感謝の意味もあってか、アルバム『ポール・ウェラー』は日本先行発売となった。

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