ポール・ウェラー ジョン・リード

モッズ

リチャード・バーンズは「モッズの生活のすべては、いかにクールに見えるか、クールでいられるかというところに向けられていた」と、モッズ・カルチャーを分析した著書『モッズ』の中で書いている。(略)
彼らがもっとも好んで着ていたのは、細身の優美なシェイプを持つジャケット。それは20世紀初頭のエドワード七世の服装からインスパイアされたものだった。(略)エドワードという名前の愛称がテッドであることから、テディ・ボーイという名前が生まれることになる。
(略)
流行に敏感な審美家たちにとって、ロックンロールとは汗臭くて騒がしく[彼らの対極にあった]。(略)モダン・ジャズは垢抜けていて音楽的に痺れるような魅力を持った、まったく新しい世界だった。
(略)
「マイ・ジェネレイション」を聴いて数ヶ月のうちに、ポール・ウェラーも中古のランブレッタを購入した。
(略)
ソウルが黄金期を迎えてから、モダン・ジャズは遠くに追いやられてしまった。(略)
アメリカから到着したこうした最新の音楽で踊るナイト・クラブ・シーンが出現する。その中で(略)“アッパーズ”と呼ばれたアンフェタミンは(略)モッズにはなくてはならないものになっていった。
(略)
 「マイ・ジェネレイション」がリリースされた1965年10月、モッズ・ルックは全国的なブームになっていた。そして、モダニストが最初に出てきた状況とはまったく反対の方向に進み始める。つまり、ユニフォームに身を包みながら個人主義を貫くというパラドックスを生んでいったのだ。
(略)
モッズのスタイルは二つの流れに分かれた。多数派であった労働者階級のグループは、フリルのついたファッションを捨ててスキンヘッドとなり、ソウル、ジャマイカのスカやロックステディ、レゲエヘと順にシフトしていった。そしてもう一方は、よりファンシーな路線になっていった。“ダンディ”と呼ばれたそのファッションについて、キンクスのレイ・デイヴィスは(略)「最新のトレンドを何でもかんでも必死で取り入れようとしている」と揶揄している。
(略)
「最初に60年代初期のモッズに興味を持ったのは、1974年のことだった(略)
僕は70年代の音楽が大嫌いだったからね。1976年に自由で栄光に満ちたあのセックス・ピストルズが出てくるまでは……。(略)くだらないグラム野郎とか、骨抜きの音楽。フィラデルフィアサウンドとか毒にも薬にもならないMORとかさ。ボウイとボランはいいんだ。でも彼らにしても、アルバム三枚か四枚で興味をなくしてしまった。僕はモッズを知ってから、ものを書く視点や角度を持つようになったんだ。(略)
黒いスーツを買って、モータウンやスタックスやアトランティックのカバーをやり始めた。(略)
1966年頃スティーヴ・マリオットがやっていたヘア・スタイルも真似したんだよ」
(略)
 ともあれウェラーによると、アルバム『マイ・ジェネレイション』には「目茶苦茶やられた」らしい。彼の作曲、プレイ、イメージのすべてに多大なる影響を与えたのだ。
 「今まで聴いたことがないサウンドだったんだ。モールス信号みたいな音やフィードバック・サウンド……あれがすごく気に入ったんだ。本当に新鮮だったね(略)
あのアルバムのすべての曲からネタを盗んでいる。僕はただ、別のタイトルをつけただけなんだ」

父・ジョン

ジョンはポールを贔屓するような言動を極力控えていた。冷静なジョンはメンバー全員を同等に扱おうとしていた。このようなジョンの献身的態度がなかったら、ジャムはウォーキングあたりのパブに出演する一地元バンドで終わってしまっていただろう。
 スティーブ・ベイカーは、ポールの父親の役割がいかに重要だったかについてきっぱりと語っている。
 「ジョンがいなければジャムは成功できなかった。彼ならエスキモーにアイスを売ることだって、ユダヤ人の結婚式でベーコン・サンドイッチを売ることだってできるさ。“これはすごいですよ。絶対にいいですよ”なんていう昔からの商売口上を言ってるだけなのに、人々は買ってしまうんだ。ジョンは体が大きくていかついから、思わずそう言ってしまうんだろうね。彼はやり手でもあったよ。火曜日の夜のギグなんてのは取ってこなかった。当然だよね、土曜日の夜が一番客が入るんだから」

パンク・ファッション

[スティーブ・ベイカー談]
 「ポールは派手にストライプの入ったパンツをはいてパブに来ていたね」と笑う。
 「僕が“何だいそりゃ?”と叫ぶと、ポールは“新しいファッションなんだぜ!流行なんだ。まったく革命みたいな世の中だよな”なんて答えたよ。彼はシャツの上から下まで安全ピンをつけて、髪をツンツンに立てていたんだ」
 こんな風に、ウェラーはオフ・ステージではパンク・ファッションに夢中になっていたのに(スクーターは売り払い、モッズのトレード・マークであるパーカーはクローゼットの中でほこりをかぶっていた)、ステージにおけるジャムの白黒のスーツは相変わらずだった。スティーブ・カーヴァーはこう語る。
「僕らは“おい、あれじゃ時代遅れじゃないか。間違ってるよ。スーツはやめなよ”と忠告したけど、ポールは頑として譲らなかった。ステージのファッションだけは変えたくなかったんだね」
 ウェラーは、バンクの動向には敏感に注意を払っていたはずだ。しかし、ジャムはポールのモッズ狂に端を発した60年代スタイルのスーツに身を包むことで通していた。そうすることで彼らのイメージは“目茶苦茶に暴れ放題”なパンクスたちとはどんどんかけ離れたものになっていった。そのサウンドよりも、むしろイメージにおける差別化ができていったのだ。

チズウィックとポリドール

チズウィックは同じ頃に発足していたスティッフ・レーベルとともに、パンク・シーンの有望な新人を嗅ぎ回っていた。[スティッフはダムドの「ニュー・ローズ」をリリース](略)
チズウィックの方は、その年の終わりまでにジャムを獲得しようと奔走していたのである。
 テッド・キャロルは特に熱心だった。「ほとんどのパンク・バンドはアート・カレッジ系のヒップな方向に走っていた(略)でも彼らは違った。ジャムを見た時、まずフィールグッドを連想した。彼らは郊外出身でまったくヒップじゃなかったけど、すごく素晴らしくて、外見から来る先入観を払いのけてくれたんだ。ジャムがシーンに登場した最初の頃は、パンクはまだパンクとは言われていなかった。バンドはみんな60年代のバンドをモデルにしていて、その手の曲をカバーしようと古いレコードを漁っていた。でもどのバンドも基本的にはピストルズの二番煎じ。だけどジャムは、すごく速いテンポで演奏すること以外はどこもパンクじゃなかった。彼らはすごく絵になっていたよ。(略)演奏もすごくタイトで、ピストルズみたいに曲間がダラけることもなかった。
(略)
 「僕らは、ジョン・ウェラーともバンドとも何度も話し合った。彼らと長期に渡る契約ができる立場じゃないということはわかってたから、むしろ気軽に条件を持ちかけることができたんだ。“我々がスタジオ代を持つからシングルを作ろうよ。メジャー・レーベルに行くための布石になればいいじゃないか”ってね」
 両者は1977年が明けてすぐ合意し、チズウィックの方からはPAを自由に使っていいということ、さらに五百ポンドのアドバンスを支払うという条件が出された。(略)
その夜、ジャムは突然ポリドールのクリス・パリーから契約を持ちかけられたんだ。これは後から知ったことだが、クリスは最初クラッシュと契約するつもりだった。でも彼らがCBSに行きそうだと読んで、ジャムの獲得に乗り出したらしい。でもそんなオファーがあったのに、ジャムがまだ僕らと話をしようと思ってること自体に驚いたね。おそらく彼らにしてみれば、確実にレコードが出せるかどうかという点が一番大事だったんだと思う。
(略)
[ロジャー・アームストロング談]
 「僕ら(チズウィック)は〈イン・ザ・シティ〉を録音するためにスタジオをキープしてたんだ、だけどテッドのアパートに行ってみたら“たった今キャンセルされたよ。彼ら、今日の午後ポリドールと契約したんだってさ”と言われたよ」(略)
有能なA&Rマン、クリス・パリーは、当初セックス・ピストルズにアプローチしていた。(略)[だが]上司に、セックス・ピストルズに示した契約条件を納得させることができなかった」[クラッシュも同様で](略)
パリーはジャムは逃してなるものかと思っていたのだ。
(略)
[キャロルの回想]
 「ウエスト・ロンドンのパブで二流のパンク・バンドを見た後に、早くからセックス・ピストルズを応援していたシェイン・マッゴーワンに会った。彼は“ジャムというバンドが、今度の土曜日マーキーに出演する。ぜひ行ってチェックすべきだ”と言っていたんだ。行ってみてすぐにジャムのことを気に入ったのに、惜しいことをしたよ」

ポールの初恋

[2ndアルバムの準備のために]「どこかの農家みたいなところ。うち捨てられた小屋」[に缶詰にされたが](略)
実は、ポール・ウェラーは別のことで頭がいっぱいだったのだ。[ダンスタブルでのライブ後](略)ギル・プライスという女性と出会った。彼女は、あるファッション・デザイナーの元で働いていた。ポールは『ディグ・ザ・ニュー・ブリード』の裏に、「ダンスタブル、そう、あのホテルで?!」と書いている。ふたりは急激に親しくなった。ポール・ウェラーは生まれて初めて恋に落ちたのだった。
 ギル・プライスはポールに深い影響を与えた。それによってバンド内の雰囲気も次第に変化していった。彼女の存在は、レノンとビートルズにとってのオノ・ヨーコだったと言えるだろう。「ある日突然、そこに彼女がいるようになった」とクリス・パリーは語る。
 「だってそれまでは男三人しかいなかったのに、突然、男二人対ポールとその彼女という図式になったんだから。彼女に真剣になるほどポールはバンドから離れて、自己中心的になっていった。バンド内のいい雰囲気は崩れて、以前と同じようにはいかなくなってしまった」
(略)
 ギルはウェラーにとってガール・フレンド以上の存在だったと言われている。(略)
[音楽とファッションにしか興味のなかったシャイなポールをパーティ好きで社交的なギルが外の世界に目を向けさせた]

亀裂

『ザ・モダン・ワールド』の制作時に生じたメンバー間の亀裂は[明確になりバンド存続が危ぶまれる状態に](略)
 当時のバンド内の険悪な状況を語るエピソードとして、こんなものがある。ウェラーは元ピストルズのグレン・マトロックに、ジャムに入ってみる気はないかとまで言ったりもしていたのだ。その頃グレンは、リッチ・キッズという新しいバンドを結成していた(略)
 「ポールと僕が一緒にやるらしい。僕がリズム・ギターを担当するんじゃないかってね,そしたらロキシーに行ったときにブルースとリックがやってきて、“ジャムに入るんだって?スーツを着るのかい?”と言うんで、僕は“そうさ”と笞えた。すると彼らは“ええ?僕らみたいのが好きなんだ。カーナビー・ストリート出なのに?、僕らみたいな田舎者と一緒にやる趣味があるのかい?”なんて言ってね。僕は“ふざけんな!”と言ってやった。それで終わりさ。その後、僕の方もリッチ・キッズに加入しないかと声をかけたことがある。いいシンガーが見つからなくてね。だけどジャムのマーキーのギグの前に挨拶に行って“ジャムなんてクソだ”と言ったらそれまでだったけどね。でも彼だって少しはそう思ってたんじゃないのかな」

78年、二度目の訪米、初の本格的ツアー、スランプ

[ブルー・オイスター・カルトの前座]
 「麻薬でヘロヘロになったカレッジ・キッズたちの前で行なったライブは、ジャムにとっても観客にとっても非常なカルチャー・ショックだったようだ。しかしウェラーは自信に満ち溢れていた」
(略)
最後に、ジャムは西海岸でのコンサートに臨んだ。しかしモッズ・ファッションを知らないアメリカのパンクスの目には、ジャムのスタイルは銀行員のようなものとしか映らなかったのだ。ラジオを初めとしたアメリカのマスコミは、暗くて不機嫌に見えるこのいかにもイギリス的なバンドに困惑の表情を隠せなかった。ツアーそのものは決して失敗ではなく、実際、ファイナルとなったサンホセでのショーは完売だった。しかし、彼らが夢見ていた怒涛のような成功もつかめなかった。「小さなクラブ回りは早めに切り上げて、スタジアムに乗りだそうか……なんていう期待は、大はずれしてしまったんだ」とブルース(略)
[帰国後、3rdアルバムに着手したが]ポールの創作意欲はもう枯れ果てていた。(略)ギルの影響か、古着屋を始めようかなどと言い始めてもいた。(略)
 冴えないデモ・セッションに対してクリス・パリーから辛辣な意見が出されたこともあり、プロジェクトは先に進まなくなってしまった。結局セッションは中断された。(略)
[曲として完成していたのはフォクストンの曲で、それは基準以下のデキ]
僕は“いいかいブルース、作曲なんてやめるんだ。君はソングライターなんかじゃないんだ。ポールがまた書けるようになるまで、このプロジェクトは始まらないよ”と意見をした。だけど理解してもらえなかった。フォクストンは僕を決して許せなかっただろうね。バックラーのやる気も失せていたようだった。
(略)
[ウェラーは後に]
 「ジャムにとっては最悪の時期だった。その原因の大部分は僕にあったけどね。僕はセンチメンタルな曲ばかりを書いていたし、派手にしようとかアートっぽくしようとか、よけいなことばかり考えていたんだ。そんなのはジャムじゃないのにね」(略)
 そのセッションのうち現在でも聴くことができるのは、三曲入りのアナログ盤のみだ。荒削りの演奏がパンキッシュな味となっている「ビリー・ハント」。B面には、フォクストンの「ザ・ナイト」と、ポールの(略)ラブ・バラード「イングリッシュ・ローズ」
(略)
残るレコード契約期間が一年というところで、ポリドールの関心はすでにシャム69の方に向いてしまっていた。
(略)
 そんな状況に反発するように、ポールはこの時、その全キャリアの中でもっとも素晴らしい部類に入る一連の楽曲を作り上げた。「二日間ほどでものすごい数の曲を書いたんだ。あまりにも次々に曲が沸き上がってくるものだから、一曲をゆっくり弾いてみる時間もなかったほどさ(略)同時に何曲も浮かんできたんだ」
 ポールにとっては背水の陣だった。「僕らは消し去られようとしているという危機感があったんだ」(略)
「《イン・ザ・シティ》は良かったけど、そこからは悪くなる一方だった。その状況に奮起して《オール・モッド・コンズ》を書いたわけさ。自分の価値を証明できるのは自分しかいなかったんだからね」

モッズ・リバイバル

[79年初頭モッズ勢力が広がり、アリスタ・レコードが“モッズ”レーベルのI-スパイを設立、シークレット・アフェアとジャムのウォーキング時代の友人バンド、スクワイアーと契約。79年6月リック・バックラーがマートン・パーカスのライブでドラマーの代役を務めた]
バンドはボーカル兼ギターのダニーと、オルガン担当のミックのタルボット兄弟を中心に作られていて、彼らはすでにベガーズ・バンケットと契約を結んでいた。(略)
「ダニーはポールに出会ってすぐ仲よくなった。ポールはそれでミックを知ることになったんだ」とドラマーのサイモン・スミス
(略)
[ようやくザ・フーとの比較から脱皮したところだったので]
モッズ・リバイバルたちとは親密な関係を保っていたが、ウェラーはムーブメントそのものには一歩距離を置いていた。(略)
ゴーイングアンダーグラウンド」(略)一位という結果は、ポリドールが立てた戦略の勝利でもあった。このシングルは、ライブ曲が三曲別に収録されたダブル・パックという特別な形態で出されていたために初回二十万というオーダーがつき、それだけでチャート一位の穫得はすで決定的だった。
(略)
 アメリカ・ツアーの予定を早々に切り上げて、ジャムは 『トップ・オブ・ザ・ポップス』に出演するために帰国した。番組の中でポールはエプロンを着て(ポップ・アート・ファッションのつもりだろうか)、視聴者を大いに困惑させた。またイースターには、五周年記念で沸き返るレインボー・シアターでニ日間のライブを行なった。(略)
[79年12月の]ライブ同様、ミック・タルボットハモンド・オルガンで参加した。(略)[サイモン・スミス回想]
「ミックはメンバーと離れて、後ろの方で隠れるようにして弾いていた。すごいオルガン・サウンドが聞こえているのに、姿は見えなかったというわけさ」
 このように『セッティング・サンズ』のセッション以来、ウェラーはミック・タルボットと急激に親しくなっていく。

ピート・タウンゼント、シェイン・マッゴーワン

 ジャムは当初、この曲を「スタート」に続くシングルとして出すことを拒んでいた。しかし「ザッツ・エンターテインメント」がドイツ向けのシングルとしてリリースされるや国内の反応も大きくなり、輸入盤として史上最高の売り上げを記録した。(略)
 ウェラー自身の話によれば、彼は一連のジャム・アルバムの中で、今でも『サウンド・アフェクツ』が一番気に入っているという。
(略)
[『メロディ・メイカー』の企画でピート・タウンゼントを訪問したが、話は噛み合わず]
「長く続けていくのなら新曲をやらなきゃ」とウェラーは大胆にも意見し、「お前は俺が若かった頃よりスゴイね」とピートは答えている。(略)
ポール自身も後に、「多くの点で彼とは意見が合わなかった」と『トラウザー・プレス』誌に語っている。
「おかしな話さ。常にどこかしら共通点を感じてきたのにね」
(略)
 『サウンド・アフェクツ・ツアー』は、スカンジナビア、オランダ、ベルギー、ドイツと各地で旋風を巻き起こし(略)ロンドンのミュージック・マシンのライブでは、「ヒート・ウェイブ」の時にシェイン・マッゴーワンがボーカルでジョイントした。マッゴーワンとウェラーはパンク時代の初期からずっと友人関係を保っていた。マッゴーワンのバンド、ニップスは何度かジャムの前座を務めたこともある
(略)
デニス・マンデイはこう語る。
 「僕がまだA&Rを兼任していた頃の話だ。僕はシェインと契約をしようとした。シングルのみの契約で一万ポンドを提示したが、彼のマネージャーは六万ポンドと吹っかけてきたんだ。だから僕は“シェインは酒飲みだという噂だね”と突っ込んだ。“いやいや、酒はもうやめたよ”と言うことだったけどね。でもそれより二週間前、ジャムがギルドフォードで演奏をした時シェインがやってきて、酔って担架で運ばれてたんだよ」

次回に続く。

 

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