2トーン・ストーリー スペシャルズ

クラッシュとリー・ペリー

[ジュニア・マーヴィンの「ポリスとコソ泥」をカヴァーした]ザ・クラッシュはこのふたつの文化を衝突させた最初のパンク・グループだった。(略)
[数年後ストラマーは]「今は思うんだ。なんて厚かましい曲をカヴァーしたんだろうってね。でも、やってよかったと思ってる……だって、後になってリー・ペリーボブ・マーリィなんかが、俺たちのカヴァーを耳にするなんていうグレイトな状況が生まれたんだからね。(略)
その年が終わるまでには、リー・ペリー自身が彼らの次のシングル「コンプリート・コントロール」をプロデュースしていた。そして、アルバムのプロデュースを終えるや否や、ペリーはすべてをボブ・マーリィーに興奮気味に話していた。そしてペリーとマーリィーのふたりは即座に彼ら自身の曲「パンキー・レゲエ・パーティ」を録音したのだ。

Dawning of a New Era

Dawning of a New Era

オートマティックス

 オートマティックスが初めてのショウを行なったのは、1977年の秋だった。ヴォーカリストのストリックランドは、次のように主張している。「俺は歌わせてもらえなかったんだ。でも俺も、歌詞を書いた紙を見ながらそいつを読み上げる(もちろん俺じゃなく、ダマーズが)のは、面白いしパンクだと考えてた。よく連中が楽器をプレイしている間、俺は床に座ってたもんさ。(略)
ローカル・バンド、ザ・スクワッドのヴォーカリストであったテリー・ホールは、初めてオートマティックスを聴き、彼らのことを「レゲエのオーヴァートーンが加えられたストラングラーズ」と評すほど感銘を受けた。(略)
12月になる頃、ダマーズは彼を交替させることを考え始めるのだった……テリー・ホールと。
 18歳のホールは、他のオートマティックスのメンバーよりもかなり若く、ストリックランドによれば、「俺なんかよりむちゃくちゃ歌が上手くて、俺と同じぐらい頑固で救い様のないやつ」とのことだった。そして、彼はもっとアクティヴな男だった。(略)
「(テリーには)まったく大笑いしたもんさ。あいつは客の中に飛び込んで、みんなに唾を吐きかけるんだぜ」。(略)
 テリー・ホールはそのようなカオスをオートマティックスに持ち込み、そのカオスによって、ストリックランドが今までに一度も生み出せなかったような興奮をもたらした。
(略)
 こうしてオートマティックスは急速に頭角を現わし、コヴェントリーでもっとも優れたパンキー・レゲエ・コンボとして自らを確立していった。(略)
[ネヴィル・ステイプルズ談。色んなバンドをサポートした]
ロカルノにXTCがやって来たときも、ダムドが来たときも、それにティファニーズにウルトラヴォックスが来たときもね。

クラッシュのオープニング・アクト

[ピストルズを脱退したジョニー・ロットンに一緒にギグをやってもらおうと、ロンドンに向かったダマーズは取り巻きへの潜入を試み、コヴェントリー出身のクラッシュのローディーにテープを渡したが、結局バーニー・ローズに届き、バーミンガムでクラッシュの前座をやることに]
 オートマティックスにとって、クラッシュと共に過ごしたあらゆる瞬間がマジカルだった。「クラッシュは俺のオールタイム・フェイヴァリット・バンドなんだ!」ネヴィル・ステイプルズは興奮しながらそう話す。「クラッシュのパフォーマンスにはエネルギーが満ち溢れているんだ(略)サポートしたときは、毎晩欠かさず彼らのショウを見たもんさ。こいつは、他のバンドでは有り得ないことなんだ。(スペシャルズを除いて)今まで俺が一緒にやったバンドに関して言えば、過去も、現在も、俺のツアー時代のすべてにおいてもね」

〈ザ・スペシャルズ

[同名バンドがいることが判明し]
 彼らには急いで新しい名前を手に入れる必要があった。[クラッシュからのさらなる前座オファー](略)
 バーニー・ローズは1月に行なわれたバーミンガムでのショウ以来、オートマティックスに対し好意的な考えは持っていなかった。しかしその一方で、ジョー・ストラマーはすっかり熱くなっていたのである。「演奏はラフだった。でも、俺は彼らのエネルギーに本当に熱くなったんだ」彼は数年後、そう振返っている。(略)
当時、パンク・レゲエをプレイするバンドは他にもたくさんいた。俺たちも含めてね。でも、そういう連中はすごく真面目で、しかもルーツに則ってやっていたんだ。でもオートマティックスはまったく違ったアプローチを持っていた。(略)一番重要だったのはテリーの声なんだ。彼の声はレゲエ向きじゃない。それに、彼はレゲエみたいに歌おうともしてないんだ。彼はどう見たってイギリス人さ。そこが違いだったんだ」
 この驚きのハイブリッド・グループをもっと聴きたくなったストラマーは、オートマティックスを前座に組み込むよう強く望んだ。(略)
[ショウ数日前]
ダマーズは遂に新しいバンド名を公開した。それは、〈ザ・スペシャル・AKA・ジ・オートマティックス〉というもので、明らかに長すぎた。ショウが始まる4時間前、彼らはそれを〈ザ・スペシャル・AKA〉に短縮。ここで、多くの人々がさらにこの名前を短縮しているのに気付き、ついに〈ザ・スペシャルズ〉に落ち着いたのである。「あれは内輪のジョークみたいなもんさ。だって、俺たちはそのときはまだスペシャルじゃなかったからな」ラディエーションはそう言って笑った。

ギャングスターズ〉

[バーニー・ローズの傘下に入りパリへ送られるが、宿の女主人はダムドの未払いをスペシャルズに請求、担保としてギターを取り上げる]
[だが]クラブに着いてみると、もうギターも機材もそこに置かれていた。俺は思ったよ。『ワォ、こいつはすげえや。どうやってここまで運んだんだ?』って。つまり、彼らは拳銃を突き付けて、すべてのギターや機材を渡せって要求したんだ。ざまあ見やがれ!そんなわけで〈ギャングスターズ〉って曲ができたのさ!」(略)(俺が話してる間は邪魔するんじゃねえ。さもなきゃ、やつらにお前らのギターを差し押さえられちまうぞ)』。当時はまだ書かれていなかった歌詞の一節が、この事件を永遠のものにしている。
(略)
週30ポンドの魅力的な給料も、現在の状況に対するダマーズの落胆を軽減することはできなかった。契約書は作成された。しかし、彼はそれを断ったのである。「かなりもめたよ……でも、俺たちは結局契約書にサインしなかったんだ」
 さらにひどい言い争いが、グループ内でも起こっていた。彼らはほとんどカネを受け取っておらず、ついにドラマーのハッチンソンが我慢の限界に到達(略)コヴェントリーヘ帰ってしまった。(略)
[手持ちバンドのシャッフルが好きなローズはサブウェイ・セクトからヴィック・ゴダードを引き抜きブラック・アラブスに引き合わせたがうまくいかず、代わりにテリー・ホールを入れようとした]
[ロディ・ラディエーション談]
「彼はああやってバンドを組み立てるのが好きだった。つまりローズは俺たちをバラバラにしようとしていたんだ。でも、誰にもそんなことができるはずがないよ」
 1978年の初秋、スペシャルズはローズに何の未練もなく別れを告げ、コヴェントリーヘと戻った。彼らのカードの中には、もちろん解散という一枚も含まれていた。(略)
パンク的なレゲエ(あるいはレゲエ的なパンク)は刺激的ではないという現実に気付き始めただけであった。(略)
「俺たちの曲は一部がレゲエで、その次にロックヘ行って、またレゲエにって具合で、それが人を混乱させてしまったんだ」。ダマーズはそう振返った。

ベスト・オブ・2トーン

ベスト・オブ・2トーン

2トーンの誕生

スペシャルズサウンドは、終始熱狂的エネルギーに溢れるジャマイカのオリジナル・スカよりも、ザクザクと大股で歩くロックステディのテンポに近かった。(略)
カヴァー曲を選択する際も、彼らはダマーズが少年時代に心酔したジャマイカ音楽からの影響のみに立ち返り、再び60年代のロックステディと初期のレゲエ、つまり、ステイプルズの表現によれば、「何かを訴えている曲」にくさびを打ち込んでいった。
(略)
俺はレゲエのギターをプレイしていた。でも、ロディはロック・ギターだった。ホレスは言ってみればロック寄りのレゲエで、ブラッドはさらにロックが混ざったレゲエをプレイしていた。それが違いだったんだ。あの形が生まれた理由は、バンドのメンバーそのものにあるんだ。
(略)
[テリー・ホール談]
「俺たちには、スカを復活させようなんて気はさらさらなかった。新しい音楽を作るために、古い音楽の要素を使っただけさ。言ってみれば、あれはパンクの一種なんだ。俺たちはパンクから離れようとしたことなんかない。ただ何か違う方向性を示したかったんだ。前へ進むために、過去を振り返ってみる必要があったってわけさ」(略)
スペシャルズがバーニー・ローズの元にいたあの期間にダマーズが学びとった教訓、あるいは、彼の頭に叩き込まれたマントラの中で最大のものは、イメージの重要性であった。
(略)
 ダマーズにも同様の自信があった。(略)舞台裏で、60年代のモッズ服に身を包み、ポーク・パイ・ハットをかぶったポール・シムノンは、まさしく輝く存在だった。実際ダマーズがこの服装を見たのは、モッズ・ファッションが全盛を極めた10年前以来のことであった。しかし、彼はこのスタイルを直感的に「クールだ」と感じたのである。
[クラッシュとの巡業でスーサイドのアラン・ヴェガがスキンヘッズに暴行され血まみれに。2002年にダマーズは]
スペシャルズのコンセプトが生まれたのはまさにあの時だったと語っている。「あの時、強烈に思ったんだ。『俺たちはこういう連中を相手に音楽をやっていくんだ』ってね」。ダマーズ自身の青春期には、白人のスキンヘッズが楽しそうに黒人の音楽に合わせて踊っていた。あの平穏な日々を思い浮かべながら、ダマーズはそれを実現する方法を見つけたと確信したのである。「英国の、新しく一つになった音楽なんだ。白人がロックを演奏し、黒人は自分たちの音楽を演奏するんじゃなくてね。『俺たちの音楽』は、白と黒という二つの音楽の統合なんだ」
 ダマーズは古い新聞記事や写真、レコード・ジャケット、それに彼の十代の記憶など、あらゆる分野から手当たり次第にヒントとなるものを集めながら、まず自らが現代のスカ・バンドに不可欠だと信じるある種のイメージを系統立て、その後、自分たちに当てはめていった。そして彼は遂に、その完成品とも言えるスケッチを仲間たちに見せたのである。それは、四角張ったドクター・フーのようなポップ・アートだった。彼がウォルト・ジャバスコと名付けたそのキャラクターは、半分がジャマイカのルード・ボーイで(ダマーズがこのキャラクターの着想を得たのは、ザ・ウェイラーズのピーター・トッシュ1960年代中期の写真だった)、半分はロンドンのスキンヘッズであった。そして、彼は部分的にモッズであり、部分的にパンクでもあった。
(略)
サークルズやアロウズ、ポーク・パイ・ハット、2トーン・トニックとモヘヤーのジャケット、クロンビー、ハリントンズ、ベン・シャーマンズ、ドック・マーティンズなど、どれも10年前に半ば見捨てられた若者のファッションだった。ステイプルズは次のように解説している。「それまで、こういうスーツや装飾品を身に付けているのは、老人だけだったんだ。それを俺たちが変えたのさ。半分はもうどこでも作られていないようなものだったよ。俺たちは、黒人と白人をごちゃ混ぜにした服装を生み出した。そのうちに、また作られるようになったけど、俺たちが探してた頃には、古着屋にしか置いてなかったんだ」

One Step Beyond

One Step Beyond

  • アーティスト:Madness
  • 発売日: 2010/09/14
  • メディア: CD

マッドネス

[79年3月]スペシャルズホープ・アンド・アンカーをを訪れた(略)最初の晩、ある地方のバンドから、3人の代表者がやってきた。マッドネス。それが、彼らのバンド名だった。
(略)
[UKレゲエ・グループのトライブスメンの前座をやったときにプリンス・バスターの「マッドネス」と「ワン・ステップ・ビヨンド」をやったらウケがよかった]
 インヴェイダーズのレパートリーがロックン・ロールからスカへシフトする上で、バルソーはとても重要な役割を果たした。初期のスペシャルズがそうであったように、バルソーのオルガン・サウンドがバンドを支配し、一風変わったカーニヴァル的空気をまとい、結果としてシンコペートされたダンス・ビートとうまく溶け合っていた。ダンス・フロアから沸きあがる熱狂に、すでに彼らも気付いていた。これがバンドを、新しい音楽的方向性の模索へ導いたのである。そして最終的に、彼らは自らのロックン・ロール時代にケリをつけた。いまやインヴェイダーズのレパートリーはスカ・サウンドで満たされていた。唯一の例外は、まったく新しい解釈によるスモーキー・ロビンソンのヒット曲「ティアーズ・オブ・ア・クラウン」や、イアン・デューリーのカヴァー曲「ラフ・キッズ」「ローデット・ソング」などだった。(略)
チャス・スミスは、次のように回想している。「俺たちはロキシー・ミュージックも好きだった。初期のロキシーさ。それとイアン・デューリーのバンド、キルバーン&ザ・ハイ・ローズもね。あとはアレックス・ハーヴェイ……キンクス……スカはこれらのほんの一部だったんだ」(略)
[同名バンドがいると知り、改名]
[自分たちとおなじ音楽性のスペシャルズに驚愕し]
 ショウが終了してすぐに、3人は自己紹介を行い、その後サッグスのアパートで夜まで話を続けた。

『モッド・リヴァイヴァル』

 モッドが体現するもの、つまり自由と平等のセクシャルな爆発こそが、このムーヴメントの根幹であった。(略)
 モッズは自分たちの収入、つまり労働者クラスの若者に棚ぼた式に舞い込んできたカネを、無制限に、際限なく、カネでしか手に入れられないすべての物に注ぎ込んだ。格好がよくてシャープな最新のストリート・ファッションに。「連中は1日4回ぐらい着替えるんだ」
(略)
[ピート・タウンゼント談]
「一人前のモッドでいるためには、髪を短くカットして、本当にスマートなスーツや良質な靴、それに格好いいシャツを買うだけの十分なお金を持っていなければならなかった。そして狂ったように踊れなきゃダメ。いつも大量のピルを懐に忍ばせて、キメてなくちゃいけない。スクーターには沢山のランプを装着して、乗る時は軍隊の防寒用フード付きジャケットを着るんだ」
 「モッズはまさに軍隊そのもので、移動手段をもったティーンエイジャーたちで構成された、強力で攻撃的な軍隊だったんだ。そうさ、彼らにはあのスクーターとお洒落の流儀があったんだ。(略)
必要なのは、そういうものを手に入れるために仕事に就くこと。そいつが唯一の条件だな。あれは信じられないような若者たちの反撃だった。言い表わせないほど影響を受けたよ。俺は今でも悩まされるんだ。自分が『いいか、若さなんていつまでも続きゃしないんだ』って考えるときにはいつでも、あのとき英国で起こっていた出来事を思い出す。あれは俺が今まで感じたなかで、一番愛国心に近い感情だな」
 もちろん、1979年という年には、仕事も金も十分ではなかった。(略)
「『モッド・リヴァイヴァル』という言葉は、それに関わりを持っている若者たちにとって、少しばかり悲しく、安っぽい表現だった」。ザ・ジャムポール・ウェラーはそう鼻であしらうように言った。「労働者階級のキッズたちを取り巻く環境は、まさにガラガラと崩れ落ちそうな状況にあったんだ。なのに彼らがドレス・アップに夢中になって外見ばかり気にしている姿を見て、あまりに悲しいことに思えたよ」。
(略)
[78年のサード『オール・モッド・コンズ』は]
グループと彼らのオーディエンスに一つの新しい方向性を示した。それは彼がパンクを非難した時と同じように厳しく、これまでずっと否定してきたものであった。しかし、彼は今やその中に密かな誇りを感じずにいられなかったのである。そして爆発的な熱狂は揺らぎ、数百人の(いや誰も正確には数えていないが、恐らく数千人の)若者が、突如として以前に着ていた流行りの服を脱ぎ捨て、モッド・カルチャーの中に消えていった。
 ある者たちにとっては、ただフード付き防寒着のパーカーを手に入れ、それに英国国旗を縫い付けるだけで十分であった。(略)かつてスペシャルズやマッドネスが自分たちの服装を探していた店々にはモッズが押し寄せ、商品を根こそぎ買って行った。オリジナル・モッドの持ち物の中で最も輝いていたスクーターは、過去13年間の防虫剤漬けのお蔵入りから開放され、60年代中期の彼らの先輩たちのイメージに合わせ、アンテナをたくさん立て、鏡をつけ、鋭く尖ったシンボルをつけて、念入りに飾られたのである。(略)ぎっしりとすし詰め状態に並んだ、キラキラと銀色に輝く夢のマシーンがきれいに磨きあげられ、通りすがりの足を痛めたモッドたちから賛美のため息とせん望の眼差しで見られている光景を。

スペシャルズ、マッドネス、セレクタ

 すし詰め状態で汗まみれの沸き立つ観衆を見渡しながら、たった1枚のシングルしかリリースしていない三つのグループが、ロンドンのど真ん中で3000人収容できる会場を埋め尽くした観衆を魅了できるとは、さすがのダマーズも想像してはいなかった。事実、このシングルに迫っていた運命も、彼の想像を越えるものだった。七月末にUKチャート入りしたシングル「ギャングスターズ」は、なんと3ヵ月もチャートに居座り、九月には最高6位にまで上り詰めた。そしてスペシャルズは、クリフ・リチャードロキシー・ミュージック、そしてアース・ウインド&ファイアーといった連中に、鼻を擦り合わせて挨拶したのである。しかし、少なくともテリー・ホールは気付いていた。自分の足が動かなくなっていることに。
 「俺は19歳で『トップ・オブ・ザ・ポップス』に出たんだ。あの時は完全にブルってたよ。倒れそうになっても、笑顔でいるように努めたんだ。だって、自分がどこにいるのかさえわかんないんだぜ……こんなつもりはなかったんだ。自分がシーナ・イーストンみたいになっちまうなんて」
(略)
 あのエレクトリック・ボールルームの熱狂を再び狙って、2ヵ月にも及ぶ派手なツアーが国中のステージで展開された。(略)マッドネスとセレクターがスペシャルズとともに出演し、ディキシーズ・ミッドナイト・ランナーズは、マッドネスが地味なアメリカ巡業のため短期間ツアーを抜けるときのために、ステージ袖で待機していた。(略)
[セレクターのチャーリー・アンドリューズ談]
「俺たちが目指すのは、音楽というファミリーなんだ。言ってみれば、コヴェントリー版スタックスさ。それが2トーンのすべてなんだ。俺たちは決して競い合うことを目的にしている訳じゃない。(略)
要は、それぞれのバンドの最高の姿を示すことが重要なんだよ」(略)
[マッドネスのチャス・スミス談]
「実に素晴らしかったよ。スペシャルズは、少しばかりパンク調が強くて激しいグループに思えたね。でも俺が思うに、バンドを動かしていたのは間違いなくジェリー・ダマーズだった。ダマーズは政治に対する考えをしっかり持っていたんだ。彼の父親はリベレイション・セオロジスト(開放神学派)の聖職者だったんで、その意味では彼にはかなり急進的なバックグラウンドがあったと思うんだ。そしてセレクターは、ダンスとの関連で言えばスペシャルズに比べてもっと楽しいバンドで、踊りやすかった。でも、彼らがかなりクレイジーだったことには変わりないね。キーボード・プレイヤーなんか、まるで精神分裂症患者さ。彼はまるで人の耳を食いちぎろうとでもしてるみたいにデカい音でプレイするんだ。(略)
2トーンは偉大だった。多文化的であることが大きな波の一部であるように感じたぐらいさ。踊りまくって楽しい時間を過ごす事ほど、素晴らしいことはないよ。2トーンのアイデアは尊敬に値した。そして進歩的かつクールだった。それに俺たちの友情も強力だった。長い間同じバスに乗ってる間に、三つのバンドでお互いの曲を演奏する機会も増えた。偉大な人気者たちさ。楽しくて仕方なかったよ」

「ゴースト・タウン」

 なんと皮肉な事であろうか。その後の3週間に起こる出来事によって、スペシャルズが目指し、体現し、そして象徴してきたすべてのものに、鉛色の照明が当てられることになるのだった。彼らがゆっくりと消えて行くのに合わせるように。(略)
[81年6月「ゴースト・タウン」リリース]
このレコーディング・セッションは、テリー・ホールによると「リハーサル・スタジオでの数ヵ月」を単にまとめたものであった。それは、口論、不和、そして露骨な拒絶などによって、彼らがひどく傷ついた期間であった。ダマーズ自身も、他の誰かから自分のアイデアが拒否されると、激怒して、何回となくリハーサルを放り出して歩き去った。
 情況は、音楽そのものの性格のため複雑になっていた。ラディエーションは言う。「ジェリーはすべてを、もう頭の中で組み立てていたんだ」。この点はダマーズも認めている。「〈ゴースト・タウン〉は自由なジャム・セッションなんかで生まれた曲じゃないよ」(略)「細かい部分まで計算して作られていたんだ」。ダマーズは「少なくとも」1年も前から「ゴースト・タウン」の歌詞を書き始め、スペシャルズがこれまでに作り上げた、あるいは作り上げようとしていたすべての要素を併せ持った作品を目指していたと主張している。ダマーズは、彼の何でも自分で決めてしまうやり方が、バンド仲間からどれほど強い反発を受けるのかも予想していた。(略)
ステイプルズはダマーズの要求に対し、皮肉たっぷりに「ハイ、御主人様!」と答える癖がついていた。ラディエーションも一度厳しい言葉で噛み付いたことがあった。「わかったよ、専制君主野郎!」。
(略)
 ダマーズは、この歌の悲痛な歌詞がいかにして生まれたかを、次のように説明している。「国がバラバラと崩れ落ちつつあったんだ。街から街を旅したけれど、そこで起こっていたことは最悪だった。リヴァプールでは店のシャッターがすべて下ろされ、すべてが完全に閉鎖されていた。マーガレット・サッチャーは明らかに気が狂っていて、あらゆる産業を一時的に閉鎖し、何百万人もの人間に失業手当を支給していたんだ。俺たちはあちこちを旅して、実際にそういう光景を目撃してきた。君だって、観衆の中に欲求不満と怒りが存在していることはわかるだろ?グラスゴーでは、小柄な老婦人たちが自分たちの所帯道具、コップや皿まで路上で売っていた。まったく信じられない光景だったよ。何かが大きく、大きく間違っていることは明らかだったんだ」
 最初、このレコードには何の反響もないように思われた。ラジオは最初からこのレコードを避けていた。(略)
[チャートインまで二週間を要したが]いったんチャートに登場すると、その勢いは誰にも止められなかった。
(略)
[第2位になった]次の火曜日、250人の若者が、ウッド・グリーンの北ロンドン郊外で暴れ回った。商店の窓を破壊、警官隊と衝突。さらに同じ日、マージーサイドの警察署長ケネス・オックスフォードは、リヴァプールの黒人住民のほとんどは「白人娼婦と黒人水兵の密通の産物だ」と発言し、人種関係の悪化の火に油を注いだ。まさにそんな日に、「ゴースト・タウン」はチャートのトップに輝いたのである。そして物質的、精神的な意味において、近代英国が経験したこの悲惨な夏への欠かかすことの出来ないサウンドトラックになったのである。
(略)
 7月8日、あるひとりの黒人青年の逮捕の後、1000人を超える抗議者がトクステスと並ぶ危険地帯、マンチェスターのモス・サイドにある警察署に押し寄せ、二日間にわたる暴動の口火を切った。
(略)
 ルーディたちは暴動に走った。黒人も、白人も、アジア人も、すべての人々が。そして、この瞬間、同世代のあらゆる人々が、不満と憤激、そして怒りによってひとつになったのである。
(略)
 「ゴースト・タウン」がそこら中で流された。(略)
[政府はメディア管制を「お願い」したが]
警察が火炎瓶工場の捜索と称してブリクストンの数多くの場所を急襲したときも、まだ第1位に居座っていた。(略)
 この曲は、7月25日、ケジックのレイク・ディストリクト・パラダイスで警官と1000人からなるバイク集団が衝突したときにもプレイされていた。そして、ウィンドウが割られ、酒類売店が略奪されたあのロイヤル・ウェディングのその日にも。今日、我々は「ゴースト・タウン」を、確かな知識の裏づけをもってこう振返ることができる。これほど正確に、そして徹底的に時代精神を強打したレコードは、後にも先にも存在しない。
(略)
スペシャルズが、ネズミたちに明け渡され、廃墟となったクラブや街、そして国全体のために書いたこの追悼歌は、3週間という長く熱い期間、英国チャートのトップに輝き続けた。そしてこの直後、スペシャルズは真の意味で解散した。なぜなら、彼らにはもう、これ以上作品を生み出すことができなかったからである。
 もう誰も、そして何もできなかった。

スペシャルズ<スペシャル・エディション>

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