ボブ・マーリー、パンクとレゲエ、スライ・ダンバー

キング・タビー、ダブ、ディージェイ - 本と奇妙な煙)からの続き。
いよいよ最終章。夢のあと、という感じで前半のような興奮はないのであります。

アイランド時代のボブ・マーリー

 驚くかもしれないが、この時期のボブ・マーリーは、ジャマイカ音楽の中で最も知られたアーティストだったにもかかわらず、ジャマイカ音楽そのものからは除外された存在だった。プレゼンテーション方法や曲の内容についても、彼の周囲で起きていたことがレゲエに影響を与えることはほとんどなく、またレゲエの世界が彼に影響を与えることもほとんどなかった。これは私の意見ではない。ありのままの事実だ。途方もない皮肉だが、レゲエの王座に君臨し、レゲエの象徴的存在であるボブ・マーリーが、グラス・ルーツ・レヴェル(つまりキングストンのスタジオ・レヴェル)ではレゲエの発展に何の影響も及ぼさなかった。ジャマイカの人々、あるいは世界中にいるレゲエのコアな愛好者にとっては、彼の力が及んだのは精神世界、インスピレーション、知性、そして社会政治の分野だけだった。彼は、70年代末に急速にジャマイカ以外の世界ではレゲエを象徴する存在となった。カリブ海域諸国や黒人全般的にどうだったかは別にして、彼自身の音楽の地盤であるジャマイカでは、尊敬はされつつもその存在は無視されていた。

移民第二世代

 奇妙なことに、ラスタファリにある「転地」の概念は、ジャマイカよりも英国で遥かに現実昧をもって受け止められた。(略)
第二世代は、英国に生まれ育っても、選択の余地なくカリブ系と呼ばれ、この事実が彼らには常につきまとった。そんな彼らにとっては、アフリカからジャマイカヘの強制移送を、西インド諸島から英国への強制的なエクソダスと頭の中で置き換えるのは簡単なことだった。(略)
UKルーツでは、物語の色合いが濃い歌詞や、高層建築やバーミンガムブリストル、ロンドンの灰色の空に覆われた風景から創造力を豊かに広げた歌詞ができあがった。詩人のように歌詞を書くソングライターたちは、生まれ育った英国で下等市民のような扱いを受ける世代の不満を表現した。

元B.A.Dのドン・レッツが語る

パンクとレゲエの関係

1975年頃、父親のサウンドシステムを利用して、彼と仲間はコヴェント・ガーデンのニール・ストリートにあった「ロキシー」でディージェイ、バー、入場の全てを仕切っていた。
 「『ロキシー』はロンドンに最初にできたパンク専門の店だ。当時、パンク・ナイトをやっている店は他になかった。どうやって始めたのか覚えていないが、店は繁盛したよ。パンクスの連中は黒人がやっている店ならいいハッパがあるだろうと思ってやって来た。実際、バー・カウンターで上物が買えた。でも、笑っちゃうことに、パンクスの連中は誰もハッパの巻き方を知らないんだ。結局、連中はハッパを買った後でカウンターに戻ってくる。もちろん〈巻き巻き〉料金として別に50ペニーをもらって、巻いてやったけどね」
 「『ロキシー』ではライヴ・バンドがチェンジする合間にサウンドシステムを鳴らした。(略)[パンクバンドは沢山いたがパンクのレコードは10枚もなかった。穴埋めに]
自分が持ってるレゲエやダブをかけ始めたんだ。何よりも自分たちが楽しもうと思ってさ。ところがパンクスの連中もそれを気に入ったんだ。じきに連中は、パンクのレコードはどうでもいいからレゲエをかけてくれと言うようになった。

ヴァージンが<フロントライン>をつくった理由

[第二のマーリーを狙ってピーター・トッシュと契約。黒人市場では売れたがメインストリームでは失敗。ところがアフリカ市場でヒット、ヴァージン単体で1975年に15万ポンドの売上げ]
これは当時の金銭価値からしても莫大な数字だ。ナイジェリアが主な輸出先で、ヴァージンはナイジェリア市場用に8トラック・カートリッジ・テープ(英国では使用されなくなって久しかった)を急いで作ったほどだった。(略)
[そこでジャマイカへ飛び青田買い]
2週間と10万ドル以上のお金を費やして、プリンス・ファー・アイ、グラディエイターズ、マイティ・ダイアモンズ、トゥインクル・ブラザーズ、ジョニー・クラーク、ビッグ・ユースと契約を結ぶと、ヴァージン一行は島を去っていった。(略)
プレスが済み、パッケージされ、売るばかりの状態になったアルバムが空路、ナイジェリアヘ向かっているまさにそのときに、ナイジェリア政府は経済封鎖の実施という新しい政策を発表した。(略)
[行き場を失った在庫をさばくため〈フロントライン〉を立ち上げ]

スライ・ダンバー

コンピューターが手に入れば、誰だってコンピューターを使う。ボブ・マーリーだってコンピューターを使うだろうさ」
 「ただ、コンピューターで何をするのかわかっていなければならない。俺とロビーは他の人が無視しているようなテクノロジーを使う。本来そこにはないものを使ってリズムを作る。俺は他の人がギターで演奏することをドラムで演奏する。他の人が楽器で演奏するようなフレーズを、俺はドラムで叩き出すんだ。レゲエを再構築しているというわけじゃない。(略)
 「ドラム・マシーンはいいに決まってる。というか、いいものでなければならない。ところが、使い過ぎて、今はライヴでプレイしている感触が損なわれてしまっている。80年代が進むにつれて、事態は急に悪くなった。ジャマイカで作られるレコードにはミュージシャンの進化が少しも表われてこなかった。いい曲がない。リズムには創造性がない。どの曲も皆、同じように聞こえた。(略)
 「だから音楽シーンが衰退した。皆、楽器としてではなくて、コンピューターとしてコンピューターを使って曲を作るからね。

ドラッグ・マネー

[80年代ガンジャに代わりコカインが急速に蔓延。アメリカからのドラッグ・マネーでギャングスタは祭りを援助したり貧困者を救済したり]
 彼らにとって、これらは全て安全を買うための投資である。かつて政党の戦闘要員の巣だったゲットーはギャングスタの砦となり、ドラッグ・ディーラーは地域にお金を落とすことでそこを支配下においた。アメリカでのドラッグ・ビジネスがヤバイ状況になると、ゲットーは彼らが身を隠す場所となった。ギャングスタは黒い幽霊のように北米や英国に密かに出入国する力があり、一度キングストンのゲットーの拠点に入れば、彼らは実質上アンタッチャブルだった。(略)
レコード・レーベルのオーナー、コンサートのプロモーター、ナイトクラブのオーナーをやるのは薬物取引で儲けたお金を洗浄するには理想的な方法で、おまけに彼らの地元での評判を高める。こうしてギャングスタは(略)サイド・ビジネスとしてプロデューサー業を行なったり、コンサートの興業主となり、音楽業界に参入し始めた。