明治のワーグナー・ブーム その2

前回の続き。

洋楽普遍主義

 東京音楽学校での洋楽重視路線への転換の背後にいたのが伊沢であったことに、今や疑問の余地はない。しかし、これは妙である。この理解でいけば、伊沢は国楽ナショナリストから鹿鳴館的欧化主義者に変身したことになる。ほとんど180度の変身である。そのほんの数年前に、伊沢は「お雇い」のメーソンに向かって、欧米音楽のひき写しは御免こうむると大見得を切ったのではなかったか。あの伊沢はどこに行ったのだろう――。
(略)
[だが]伊沢にとって、両者は自分のなかで摩擦なく両立するものであった。(略)
[日本洋楽の父とされる伊沢だが音楽に専心したのは生涯のうちの10年ほどで、理科系的な発想の人間であった。一時在籍した工部省では建築設計に携わり、ハーバード大で理化学を専攻したのも「国富の富強」に肝要と理由]
 こうした経歴と発想は、彼の音楽観に独特のねじれを与えている。第一の特徴は、伊沢が音楽の自然科学上の基礎を重視する点である。
(略)
 われわれが普通、音楽に関して「理論」と言う場合は、和声学や楽典など音楽学の理論を指すに決まっている。しかし、伊沢の場合、それは物理学のことなのである。彼の理解では、音楽とはどんな種類のものであれ、煎じつめれば個々の楽音に帰着する。そして、楽音は必ず周波数云々という物理学的な基礎をもつ。とすれば、どんな音楽でも「之を組成する元素は、毫も異なるに非ず」ということになる。
 つまり、伊沢の発想は、自然科学志向で、しかも徹底して要素還元論的(略)であった。半面、この発想からは、個々の楽音をどのように紡いでどんな楽曲を作り出すかという視角は完全に抜け落ちていた。(略)
平均律には数学的な規則性があり、ピアノは一種の精密機械である。いかにも科学的な基礎があるように見える。(略)つまり、洋楽こそ、客観的な合理性、普遍妥当性をもった音楽なのである。(略)伊沢は筋金入りの洋楽普遍主義者だったわけである。
 もっとも、この見方は決して伊沢特有のものではなかった。
(略)
音楽は単一なのである。そして、その単一の音楽で西洋が最高峰を占めるのだと考えるなら、次には、その最高峰に向かう一本道の発展の道筋を思いつくのは理の当然である。その発展図式では、すべての音楽は西洋音楽との近似度によって優劣が定められ、序列をなす。序列がより高いものは、低いものよりも「進化」していることになる。この見方を「音楽進化論」と名づけておこう。
 容易に想像されることだが、伊沢はこれまた筋金入りの音楽進化論者であった。そして、当時の多くの音楽関係者もまたそうであった。
(略)
 以上のことを考えるとき、伊沢の「国楽」が時とともに洋楽へ傾斜していくのは理の当然だった
(略)
 この点を端的に表しているのが、前章で音楽取調掛の事業として紹介した俗曲改良事業である。(略)この事業ではまず、邦楽曲を五線譜に記譜する。しかしすでにこの時点で、すべての音は西洋音楽の七音階に整理されてしまう。日本の在来音楽に特徴的な音の震えや揺らぎは、雑音として切り捨てられ、平均律にそぐわない音程は修正される。語り物の性格の濃い楽曲にいたっては、音楽にあらずとしてはなから埓外である。
 次に、こうして人為的な加工を施された旋律に和声をつける。和声は日本の音楽には本来存在しない。だから、響きの趣はまるっきり異なったものになる。そして最後に、「改良」の済んだ曲を演奏会の演目に入れ、大きな楽堂で披露する。もともとはお座敷向きの密やかな調べだったものを、ステージの上で多数の聴衆相手に、朗々と歌いあげたらどうなるだろうか。
 つまり、俗曲改良とは、在来音楽を洋楽の異質な座標系にむりやり押しこめるものであった。こうして邦楽は人工的な響きとなり、やがて顧みられなくなる。一方、それでなくとも文明開化の光背を負った洋楽は、欧化時代の華やかな雰囲気に彩られて、ますます輝きを増したことだろう。(略)
 興味深いことに、伊沢個人は自分が唱えた「国楽」がいつのまにか空洞化していたことにまったく気づいていなかったようである。

音楽取調掛の海外広報

 音楽取調掛の年譜をざっと眺めてみると、一つ興味深い事実に気がつく。欧米向けの活動が意外に多いのである。(略)伊沢の執筆による活動報告書『音楽取調成績申報書』は、それが出版された1884年に、すでに抄録の英訳版が出されている。
 さらに、この年から翌年にかけて、取調掛はロンドン、ニューオーリンズなど海外で三度、博覧会に出品している。出展された品目は、この報告書の英訳版と取調掛編纂の唱歌集などの出版物、さらに琵琶や箏、三味線などの和楽器である。(略)
 それだけではない。後年、取調掛で編纂された『箏曲集』では、各自の題や歌詞にローマ字表記が添えられている。これも、欧米に向けて紹介することを含んだ措置と見てよいだろう。
 「国楽」を掲げる機関がなぜ、これほど海外広報に力を入れるのか(略)
[『申報書』では]伊沢が和洋の旋律の同一性を執拗に説いていることである。
 彼が言うには、洋楽の音階と日本の律呂旋法との間にはほとんど差異がない。たとえば日本の旋法はギリシャ音階とほぼ同一である。しかも、これは偶然ではない、というのが伊沢の主張である。というのは、およそ東西両洋の音楽は「印度を以て共同の大源」としており、ここから発展したものだからである。(略)
伊沢は日本が元来、西洋と同等の「文明性」をもつと言いたいのであろう。
(略)
 西洋の眼にどう映っているかという意識が強いのは伊沢だけではなかった。むしろ、同時代の大多数の声であったといって過言ではない。音楽関係者にかぎっても、同様の発言は枚挙に暇がない。(略)
『申報書』が英訳されたことについて、ある新聞記事はこれを報道して高く評価した。その理由は、「欧米の人をして我が音楽改良の手続を知らしむるニハ最好方便と云ふべし」だからであった。

「仙人」ケーベル

 ディトリヒの去った後、東京音楽学校では沈滞した時期が続いた。無理もない。付属校への降格という憂き目にあい、予算削減を余儀なくされ、そして今、指導にあたる外国人教師もいなくなったのである。(略)
 この時期に関してふれておかなければならないのはラファエル・フォン・ケーベルである。ケーベルは1898年から東京音楽学校に出講し、1909年まで長年にわたってピアノの教授を続けた。若き日にモスクワ音楽院に学び、チャイコフスキーなどの指導下で優秀な成績で学業を終えたという経歴の持ち主である。もっとも、彼は専門音楽家ではない。ショーペンハウアーについての学位論文で博士号を得たという哲学者である。彼は、1893年帝国大学に招聘され、文科大学で哲学を講じていた。やがて、そのピアノの腕前を見こまれて東京音楽学校に嘱託講師として出講するようになったのである。
 ケーベルはドイツ糸ロシア人で、生まれ育ちはロシアである。しかし、実質的にはドイツ人といってよい。母語はドイツ語だったし、若き日にイェーナ大学などに留学して以降、その生活基盤はドイツにあった。著作でもほとんどドイツ語を使った。
 経歴からも明らかなように、演奏技量はプロ級であった。音楽院を出た後、哲学研究に進路変更したわけだが(略)
その腕前が日本の洋楽愛好家を恍惚とさせたのはいうまでもない。野村胡堂は当時を回顧して、ケーベルの弾くショパンは「我々若き者の耳に、神の声のように聴こえた」と記している。
(略)
 しかし、ディトリヒとは異なって、ケーベルが東京音楽学校の活動全体に大きな影響を与えることはなかった。(略)
[嘱託講師、そして「仙人めいた人であった」から]
 ケーベルの生活といえば、学校と自宅を人力車で往復する以外は、部屋にこもって読書とピアノに没頭することに尽きた。世間の動きにまったく関心がなく、新聞雑誌の類はほとんど読まない。風采に頓着せず、同じ服を十数年着ていても気にしない。旅行も嫌いで、日本滞在は結局20年以上におよんだのに、その間、東京を出たことはほとんどない。日本の文化や社会にも、ケーベルはとくに関心を示さなかった。だから、日本語を習おうともしなかったし、また自分から日本人との交友を求めることもなかった。
 半面、ケーベルには人文主義的教養を一種宗教的な次元にまでに高めたような趣があり、それでもって多くの帝大生に絶大な影響を与えた。夏目漱石もその一人である。彼は、ケーベルは当時の文科大学の教員中で「一番人格の高い教授」だったと述懐している。

久野ひさの「意志と情熱」

[ケーベルを気取った滝廉太郎のピアノ演奏の所作は気障と言われた]
[西洋風の]所作の模倣という思考がさらに昂じると、感情をより生の形で出すことが、洋楽の本質により深く迫ることになるという発想が生まれる。(略)ついには、所作が演奏から離れて独走しかねない。しかし興味深いことに、これが当時の聴衆に大いに訴えたのである。
 そのことを如実に示すのが、久野ひさの例である。久野はその全盛期には、文字どおり一世を風靡したピアニストであった。単に演奏家として有名だったというだけではない。彼女は三浦環などと並んで、日本のクラシック界最初の大衆的スターであった。(略)
彼女が開く演奏会はどれも大入りである。なかには1000円もの純益を挙げたものがあったという。(略)しかも、彼女の人気は東京だけではなかった。久野は東京から関西、九州におよぶツァーを行ったこともある。(略)
彼女が登場するやいなや、「久野さんが!久野さんが!と人々はこぞり寄つて迎へた」(略)
新聞雑誌の関心は、彼女が上流階級と軽井沢で交際するさまや[私生活にまで及んだ](略)
 メディアが映しだす久野の像は、一言でいえば、「意志と情熱の芸術家」であった。(略)
[幼少期の怪我による下肢障害]に加え、病弱という困難もあったが、彼女は強い意志でこれを克服し、ついには優秀な成績で卒業した。(略)その矢先、久野は今度は交通事故に巻きこまれ、瀕死の重傷を負った。一時は再起も危ぶまれるなか、しかし久野は懸命の努力で怪我を克服する。つまり、度重なる苦難に見舞われながら、その度ごとに類まれなる意志力を発揮して、不幸から立ち上がり、ついには「第一流のピアニストたるの名声を博」すにいたった芸術家――これがメディアの描いた久野の像であった
(略)
久野の演奏スタイルは情熱的そのものであった。(略)
 なかでも久野のトレードマークは、舞台上の熱情的な身振りであった。久野は演奏が佳境に入るにつれて、音楽にどんどん没入していく。(略)舞台衣裳の和服の裾が乱れても、まるで気がつかないかのごとく、ただただ演奏に熱中する。(略)「聴集の中には啜り泣きする人さへもあつた」。
 そして演奏はクライマックスにいたる。「激しい頭部の震動は遂に曲の途中で彼女の髪は解けて肩にかかり、一輪の花かんざしは飛んでステージに散乱」する。
(略)
[しかし専門家の見解は]芸術的な解釈も何もなく、ただ鍵盤を力まかせに叩いているだけ
(略)
野村光一も、久野の十八番の「『アパショナータ』は無理押しの演奏で、音は汚ないし、ペダリングも滅茶滅茶になって、ただわあわあと鳴っているだけでした」と回想している。
(略)
こうした批判は、ある意味で当然であった。久野は音楽の基礎理論に暗かったからである。(略)久野は長短音階すらよく理解せず、対位法や和声学の基本などはまったく不案内だったらしい。つまり、久野は自前で楽曲を解釈するだけの力に乏しく、結果的に「ピアノを楽譜どおり弾くことだけに全精力を費や」すことにならざるをえなかったのである。
(略)
[久野は]1925年、留学滞在先のウィーンでホテルから投身自殺する(略)
[1923年]留学にあたって、久野はヨーロッパでもリサイタルを開くつもりでいたらしい。日本では東京音楽学校の教授であり、何よりも楽界きっての名手ともてはやされた彼女である。当然の考えである。
 ところが、いざ「本場」に来てみると、落差はあまりに明白であった。彼女の技量ではまったく通用しないことを思い知らされたのである。(略)
[E・フォン・ザウアーに技量不足を理由に入門を断られ]意気消沈し、精神的に極度に不安定になっていた。

活字で音楽に感動する

森鴎外と専門的きわまるワーグナー論議を戦わせた上田敏である。上田は早くから演奏合評なども執筆していた。その批評は、楽曲の解釈から演奏技術の詳細にまで論及する本格的なものである。
 たとえば、彼が1894年、20歳のときに執筆した演奏合評では、安藤幸の演奏について、「グリッサンドオの魂をただよはすあたりエキスプレッシオンは美しく濃かにつきて、とくに断腸の思ありしはカデンザソロの部小指のトリル三十二分音譜の難渋なる拍子なり」と論評している。これを読むかぎり、上田には鋭敏な音楽的感性と深い技術的知識が備わっていたように見える。(略)
[しかし上田は島崎赤太郎のピアノ演奏を絶賛している]
[われわれはライプツィヒ音楽院で]島崎が副専攻のピアノでは初級クラスに配属されたことを知っている。つまり、上田は、欧米でなら初心者に毛の生えた程度の腕前に大いなる感激を催したことになる。
(略)
[さらに上田は]歌であれ、楽器であれ、洋楽の稽古をしたことがない。といって、若いころに留学した経験があるわけでもない。(略)上田の頼りとなったのは、活字から仕入れた音楽知識と、それに加えて、華麗なる修辞力だったと見るべきである。
(略)
 上田以外にも例はある。1903年に日本人として初めて歌劇の上演を行った「ワグネル会」の学生グループも、頼りにしたのはもっぱら書物であった。(略)
 慶應のワグネル・ソサィエティーもかなり理屈先行であった。その創設者の秋葉純一郎の言うには(略)
活字での勉強がむしろ主だった(略)
 こうして見ると、明治のワグネリアンの情熱は大部分、書物によって養われたと結論してよいだろう。
(略)
 しかし、いったいなぜ彼らは、そうまでしてワーグナーに情熱を捧げたのだろうか。(略)
 理由としてまず挙げられるのは、ワーグナーには、書物からの接近という便宜があった(略)その著作は音楽論から芸術、歴史、社会哲学などにわたり[10巻の全集を編めるほど](略)
 西洋の作曲家のなかで、ここまで著作の多い者は他にあまり例がない。(略)
 したがって、明治の西洋型知識人にとっては、その外国語の素養をもってすれば、ワーグナーに関する知識はわりに簡単に得られたはずである。(略)
さらに大きな理由は、当時欧米の音楽界をワーグナー熱が席捲していたことである。

姉崎嘲風、ドイツ贔屓から嫌独家へ

姉崎のドイツ熱に最初に冷水を浴びせたのは、1895年の三国干渉であった。
(略)
 しかし、それより決定的だったのは留学後の体験である。(略)
[帝政ドイツの社会的現実に愕然]
とくに彼を激しく憤らせたのは、排外主義と人種偏見であった。
[アジア蔑視を体験、姉崎自身も路上で石を投げつけられた]

人種偏見に憤激していながら、

なぜ、反ユダヤワーグナー崇拝に行き着いたか

整理してみよう。姉崎は留学して、長年のドイツ憧憬が裏切られたと感じた。彼はその失望と憤懣を合理化し、ドイツ社会批判へと抽象化していく。その際に彼が利用したのが、民族至上主義・生改革の思考モデルであった。(略)
姉崎がワーグナーを激賞するのは論理的必然であった。なぜなら、ワーグナーこそ、民族至上主義・生改革の観念世界に深く根ざしていた人物だったからである。
 まず、ワーグナーは若いころより確信的な反ユダヤ主義者であり、後年は人種論哲学者として有名なゴビノーの著作に親しんだ。(略)彼は、「人類の頽廃の化身たるデーモン」である「ユダヤ人の進出になす術もなく侵害されているドイツ民族の衰退」に激しい危機感を募らせていたのである。(略)
彼は、機械化された文明のなかにあって人類は頽廃の極にあり、文化は不毛をきわめていると見た。人間の生は分断され、全体性を失っている。ワーグナーが菜食主義、動物愛護、節酒を熱心に唱えたのも、それが人間性の回復につながるものと考えていたためにほかならない。また、ワーグナーキリスト教を激しく攻撃した。教義の原点――彼によれば、キリスト教ユダヤ起源ではなく、アーリア起源であった――に立ちもどるには、キリスト教を浄化する必要がある、と。(略)
[時代が直面する]危機に出口はあるのか。ある、とワーグナーは考える。それは、愛すなわち芸術による救済であった。「芸術作品だけが(略)生の域を越えた至純の充足感と救済がもたらされる(略)
楽劇こそがさまざまな芸術形態を一箇の形に総合したという意味で最高の芸術だと自負するが、そこにはこうした社会哲学的意味合いが含まれていたのである。
 このようにワーグナーは、ヴィルヘルム期ドイツの産業社会的現状への痛烈な告発者であった。(略)
[そして]姉崎のワーグナー崇拝は、ワーグナーに託して語った彼自身の時代批判なのであった。そして、ワーグナーが芸術による救済を思想の核心に置いた以上、姉崎は楽劇に――その音楽に惹かれようと、惹かれまいと――必然的に感動しなければならなかったのである。
(略)
[一方]明治日本の知識人が姉崎のワーグナー論に共鳴したのは、そこに描かれたヴィルヘルム期ドイツ像に明治日本の姿を見てとっていたためであった。社会の閉塞と文化の不毛を嘆く姉崎の危機意識は、彼らにとって他人事ではなかったのである。
(略)
 ただ、ドイツと日本ではある一点で決定的な相違があると、姉崎はいう。すなわち、ドイツでは、ニーチェワーグナーのごとき預言者がすでに現れた。危機からの脱却を説く彼らの言葉は若い世代の間で熱狂的に迎えられている。しかし翻って日本はどうか。今なお多くの者が惰眠を貪り、危機が存在することすら意識していないではないか。そこで姉崎は、ドイツの預言者の啓示を日本に伝え、それでもって故国の閉塞を打破しようとしたのであった。

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