西洋音楽史 岡田暁生

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

以下のような定義に鼻白む方もおられましょうが、色々面白い話しがありますから。
「芸術」としての音楽のありようとは

紙の上で音の設計図を組み立てるという知的な性格を強く帯びているのが、芸術音楽である。(略)
本書で辿るのは、楽譜として残された知的エリート階級の音楽の歴史である。

「西洋芸術音楽」の定義

「知的エリート階級(聖職者ならびに貴族)によって支えられ」、「主としてイタリア・フランス・ドイツを中心に発達した」、「紙に書かれ設計される」音楽文化のことである。

グレゴリオ聖歌の空間

異端審問と火あぶり、巡礼と托鉢僧の行列、数々の災害と天変地異、悪魔の憑依、血を流すマリア像といった奇跡の数々……。人々は絶えず神の怒りに恐れおののいていた。映画『エクソシスト』のような世界を、彼らは本当に生きていたのだ。そんな時代にあって、ひんやりした修道院の中で絶えずこだましていたのが、修道士たちが歌う聖歌だったはずである。歌とも呪文ともつかない、その空中を漂うような不思議な響きが、当時の人々にどのように聴こえたか、想像に難くない。それはまさに「神の言葉」ないし「神の世界で鳴り響く音楽」として響いたはずである

中世の作曲

今日、ヒットした歌謡曲の和声進行をそのまま流用したり、あるいは同じ歌詞とメロディーに少し和声のアレンジを加えただけで新曲を作ったのが露見したら、盗作で訴えられることは間違いない。だがまさにこれこそが、中世の人々にとっての作曲行為だった。当時はまだ、ゼロから何か曲を作るという意識はほとんどなかった。「曲を作る」とはグレゴリオ聖歌に何かを少し加える(飾る)、つまりそれを編曲することだったのである。この聖歌編曲が、オルガヌムと呼ばれるジャンルである。

音楽は聴くものではなかった。元祖アンビエント

当時の人々にとって「本来の」音楽とは、何よりこの「世界を調律している秩序」のことであった。(略)
実際に鳴る音楽などどうでもよいものであり、「本当の」音楽とはその背後の秩序のことだとされたわけである。(略)
音楽は快楽ではなく、科学や哲学に近いものだったのである。
このような中世の音楽観から考えて、ペロタンらの曲の背後にあったのは「神の国の秩序を音で模倣する」といった意図ではなかったかと思われる。少なくともそれが「人間が聴いて楽しむ」といったものでなかったことだけは確かだ。(略)
これらのおそろしく引き延ばされて唸りをあげる音の振動を聴いて、それが聖歌だと分かる人などいないだろう。「聴いて分かりもしないものをなぜ?」と思うのが、近代人の音楽観のはずである。だが当時の人々にとっては、人間が聴いて聖歌をそれと分かる必要などなかったに違いない。耳で聴こえるものの背後に、神の秩序(聖歌)が確かに存在しているということこそが、彼らにとっては重要だったはずである。

バロック音楽は壮大な祝典のサントラなのだから、音楽だけではわかりにくい

今日われわれが体験できるのは、宮殿や庭園や花火や噴水や食事や舞踏会といった本来の文脈から切り離された、「音楽そのもの」だけでしかない。王の晩餐会に招かれ、選り抜きの食卓音楽が響く中、数時間におよぶ食事をとり、それからやおら宮廷内の目も眩むような装飾を施されたオペラ劇場へ場を移し、人気カストラートの声を夜更けまで堪能し、その後で庭に出て、噴水をバックに花火を楽しむ。

18世紀まで音楽学習とは演奏ではなく作曲

今日「音楽の勉強」といえば、ほとんど「楽器演奏の勉強」と同義である。だが18世紀までの徒弟制度的な音楽家養成においては、音楽学習は何より「作曲の勉強」を意味した。音楽家はあくまで、自分の作品を自分で弾いて人前に披露できるようになるために、楽器を学んだのだった。少なくとも独奏者の場合、演奏とは基本的に自作自演のことであって、もっぱら他人が作った作品ばかりを演奏する「演奏家」などというものは存在しなかった。

まさにバブルガムだった音楽

端的にいって18世紀までの音楽は、原則として一度(ないし数度)演奏したらそれで終わりの消耗品だった。オペラの場合、ヒットした作品が別の都市でも上演されたりすることはあったが、それでも数年たてばレパートリーから消えるのが常だった。
[パトロンの要求に応えることが眼目であり]
「永続的にレパートリーに残るものを書く」という意識は、作曲家にはあまりなかった。その意味で18世紀までの西洋音楽における作曲意識は、たとえば今日のポピュラー音楽とあまり変わらなかったといってもいい。

音楽が大衆化した19世紀

ツェルニーいわく、「いずれにせよ聴衆の大半は、感銘を与えるよりも、アッといわせる方が簡単な客」であり、「こうした大勢の玉石混淆の聴衆に対しては、何か途方もないものによって不意打ちする必要がある」(略)のである。繊細さや知的な面白さではなく、「スゴイ!」といわせる方が容易なこの種の聴衆の出現は、音楽のありように根本的な変化をもたらすことになる。それはいわば、作曲原理としてのハッタリである。
19世紀の多くの作曲家が武器としたのは、何より大音量と高度な演奏技術である。19世紀は「大向こうを唸らせる効果」に取り憑かれた時代だったといってもいい。

バカテクの時代

素人には真似できないような演奏技術が続々と開発されるようになるのも、19世紀音楽史の特徴である。いわゆるヴィルトゥオーソ・ブームの到来である。(略)
[パガニーニに衝撃を受けた]フランツ・リストは彼を聴いて以来、それまで身につけていた自分の奏法を完全に作り変える決意をしたといわれる(略)その結果として彼が編み出したのが、雷鳴のようなオクターヴや目も眩む跳躍、鍵盤上を縦横無尽に駆け巡る分散和音、怒濤のごときトレモロといった、あの超絶技巧の数々だったのである。(略)
このように19世紀に入るとともに音楽史は、まるで技術開発競争史のような性格を帯びはじめるのである。

スターシステム

19世紀において、音楽はいやましに、「途方もない技術をもったプロが、ステージの上でするもの」になっていった。専門技術に特化した音楽院での教育がこの傾向に拍車をかけたことはいうまでもない。演奏会制度と音楽学校の成立、聴衆のマス化、技術開発による物量作戦、舞台上の「プロ」と客席の「アマ」との分離、ステージで大喝采を浴びるスター演奏家の誕生---これらはすべて、互いに深くつながった、きわめて19世紀的な現象である。

音楽の終焉をシニカルに見つめるストラヴィンスキーのパロディ技法は、

決して誰にでも真似できるようなものてはなく、あの《ペトルシュカ》や《春の祭典》を書いた彼にして初めて可能な、一種の曲芸であったことは確かである。だがいずれにせよ新古典主義時代の彼は、「パクリ」と「継ぎ接ぎ」を誰はばかることなく作曲の中心原理として創作の前面に押し出してきた。これは19世紀ロマン派の独創美学に対する痛烈なアンチテーゼ(略)であった。(略)
ストラヴィンスキーは、こうした「新素材開発」の方向に完全に背を向ける。その引用とアレンジのやり方こそ途方もなく独創的だが、素材自体はほとんど既成のものなのだ。(略)
「音響素材の開拓史としての音楽史は、もうこれ以上前へ進めることはできない。既成の音響素材の換骨奪胎=意味の解体としてのみ、かろうじてまだ少し新しいことをする余地が残っている」---それが諦念であれ、ニヒリズムであれ、嘲笑であれ、彼ははっきり音楽史の発展の限界ということを意識していたように思える。

対照的にロマンチストであるがゆえに不協和音だらけになったシェーンベルク

ある無邪気な知り合いから「どうしてかつては(《浄められた夜》1889年作曲]のように)ロマンチックで美しい調性音楽を書いていたのに、なぜ不協和音だらけの曲しか書かなくなったのか?」と尋ねられたシェーンベルクは、憤然として「自分だってできるなら調性で音楽が書きたい。しかし三和音を書くことを、歴史が私に禁じているのだ」と答えたというのである。シニカルに西洋音楽史の限界を眺めていたストラヴィンスキーとは対照的に、シェーンベルンは究極のロマンチストであったともいえるだろう。彼はまだ、「これまで誰も耳にしたことのない未曾有の響き」というユートピアが、どこかに残っていると考えていたのであろう。

「型」を再建しようとした二人

創作行為が単なる独りよがりに陥ってしまわないための大前提は、大多数の聴衆が共有する「既知の型=期待の地平」の存在である。型をある程度押さえておくからこそ、そこからの逸脱が何らかの個性や独自性の表現として意味をもち、それとして聴衆にきちんと伝えられるのであって、何の規制もないところには独創性も存在しない。(略)
ストラヴィンスキー、過去のさまざまな様式に「聴衆の期待の地平」を形成する機能を求めた。(略)
対するにシェーンベルクは、自ら十二音技法という新しい規則を作り出し、それをもって未来の音楽の「型」となそうとしたのではないか。

「現代音楽の歴史」は語れるのか

今日もなお、古典派やロマン派の時代と同じく、音楽史の主役は本当に作曲家であり続けているのか?根底から何かが変わってしまって、20世紀前半までを説明するのと同じ論法では、もはや音楽史を把握しきれない状況が起きているのではないか?そもそも20世紀後半の音楽史は、それまでと同じ意味で、まだ「音楽史」であり続けているのか?

20世紀の音楽史風景は「3つの道の並走」
1.前衛音楽は公衆不在であり、アングラ化しており、可能性があるとすればサブカルチャー化に徹するしかないのではないか
2.巨匠によるクラシック・レパートリーの演奏。「誰が何を作るか」から「誰が何を演奏するか」へ。
3.19世紀の「感動させる音楽としてのロマン派」をほぼ踏襲し「市民に夢と感動を与える音楽」であるポピュラー音楽。