ドイツ現代史の正しい見方

なぜナチスがというのが本題なのだが、それ以外のとこをつまみ食い。

ドイツ現代史の正しい見方

ドイツ現代史の正しい見方

成金ぬるま湯国家プロセイン

ナポレオンからビスマルクまでの50年間一度も戦争をしなかった成金ぬるま湯国家プロイセン

18世紀の古典的プロイセンは、進取の気性に富んだ、戦闘的で、精神の自由を謳歌する啓蒙主義の国だった。これに対して王政復古時代のプロイセンは、反動的で平和的でしとやかな、まさにロマン主義の国だった。(略)
ナポレオンの時代にも、プロイセンは時の流れに忠実だった。それなりのやり方でフランスの近代思想をとり入れ、それを国内の政治改革で実践しようと試みたからである。しかし改革はさしたる実を結ばず、結局は旧体制の列強連合に加わって、みんなでナポレオンを倒したのだった。このことによって改革派の気勢は挫かれはしたものの、しかし旧体制側に身を寄せたことで、プロイセンは迫りくる国家の瓦解や滅亡を免れたのである。メッテルニヒ時代のプロイセンは、暗黙の処世訓として次のような言葉を胸に刻み続けた。「とにかく助かることが先決だ」
こうしてプロイセンは、何よりも平和を愛する、それどころか臆病で、しとやかで控えめな、しかし国内的にはきわめて保守反動的な国家になった。対外的には、1813年のライプツィヒの戦いで救いの手を差し伸べてくれたロシアとオーストリアにおずおずと親しげに擦り寄り、というよりしがみついて、この両大国と同盟を結んだのだった。

18世紀の古典的プロイセンは、どこまでも前に突き進む、勇猛果敢ないわば海賊国家だった。ロマン主義プロイセンは、ナポレオン戦争を命からがらくぐり抜けた後、小市民的なぬるま湯生活にやれやれとばかりにどっかとつかり、戦争はもうこりごりとほっと息をつく、いわば堕落した成金国家だった。

ビスマルクは反ナショナリズム

[プロイセンは]民衆蜂起の弾圧者としては恐れられたが、ドイツ・ナショナリズム運動の牽引車としておおいに衆望を集めていたのである。
しかしこのようにドイツ国民運動の指導役と見なされながら、当のプロイセンは半世紀ものあいだ、まったくそのことを自覚しようとはしなかった。「国民運動だって? それは民主主義を実現すること、つまり革命じゃないか。くわばらくわばら」。これがプロイセンの態度だった。
だがそれからビスマルクが現われ、彼の指導のもとでプロイセンはそれまでの守りの姿勢を転じて、みずから打って出たのである。若い頃のビスマルクは、ドイツ・ナショナリズム運動の支持者などではまったくなかった。その反対で、1848年、49年の市民革命のときなどは、頑迷固陋このうえないプロイセン一国至上主義者であり、ナショナリズムに陶酔する民衆をいつも馬鹿呼ばわりするほどだった。
[やがてオーストリアに対抗する手段としてナショナリズム運動を利用していく]

観念の帝国の実現でプロイセンは無意味に

ドイツが統一されドイツ帝国が生まれることでプロイセンが不要になってしまうことを、ビスマルクは考えていなかった。独立した領邦国家の連合体である旧ドイツ連邦の中では、オーストリアが主導するにせよ、プロイセンヘゲモニーを握るにせよ、ともかく指導的地位を担う国が存在した。しかし統一された国民国家(すなわちドイツ帝目)の中では、いくら最大の領邦国家といえどもそれはもはや帝国全体の一部を構成する一州でしかなく、したがって主導権を握ることはできないのである。
ビスマルク憲法にさまざまな小細工をして、プロイセンの主導権獲得を画策したがむだであった。その意味でヘーゲルの言ったことは的を射ている。「観念の帝国が革命で現実となったら、それまでの現実はもはや居所がなくなるのである」

プロイセン首相がつねにドイツ帝国宰相を兼ねるはずが、ビスマルク後には、バイエルン人が帝国宰相となり自動的にプロイセン首相にもなってしまう。

若き皇帝ヴィルヘルムニ世に対してビスマルクはあるときこんなことを言った。「ドイツ帝国は可もなし不可もなしです。プロイセンを強くすることだけを心がけてください。それ以外はどうでもけっこうですから」
しかしこんなことを言ったところで、すでに後の祭りだった。若き皇帝にはビスマルクが何を言っているのかさっぱりわからなかった。何しろヴィルヘルムニ世はすでに押しも押されもせぬドイツの皇帝であり、プロイセン王の肩書きなどはほんのおまけにすぎなかったからである。

抹殺されたセダンの戦いの記憶。


「フランスをぶちのめして凱歌をあげろ」

かつてあれほどまでに人々の政治意識・歴史観を支配したセダンの勝利の記憶、これを戦後のドイツ人たちはほぼ完璧なまでに記憶から抹殺してしまったのである。(略)
セダン戦勝記念日はほぼ半世紀のあいだ、ドイツの国民的祝日だった。(略)そのときの気分を今日的な感覚でいうと、まるでのドイツのナショナルチームが、サッカーのワールドカップで毎年連続して優勝するような気分とでもいおうか、とにかくそんな気分であった。毎年この日になると、人々は頭の中で、この偉大な戦争の勝利の場面をくりかえし何度も思い描いた。(略)
誇り高きフランスの皇帝も、もはや全軍の先頭に立って名誉の死を遂げることも許されず、今はただプロイセン王に和を請うのみの敗残の姿。(略)どっかと腰を下ろした巨人ビスマルク、隣りにかしこまるナポレオン三世
こうした戦勝の場面を、人々は毎年この日が来るたびに、記憶を新たにしながら、何度も昧わったのである。これこそが本当のお祭りだった。あの頃の愛国心に満ちた自己陶酔の興奮を、今日想像できる人はほとんどいないだろう。(略)
だからドイツ人が長いあいだ、自分たちを選ばれた民族だと思い込んだのは、セダンの勝利がそうさせたといっても誇張ではない。(略)
セダンの戦いの中でつくられた国民の宗教とでもいうべきドイツ帝国建設神話の中で、フランスは永遠の敗者、これからもずっと負け続けねばならない悪者、ドイツの不倶戴天の敵として、確固不動の地位を獲得してしまったのである。当時つくられ、その後何十年も歌い継がれた歌の冒頭の一節は「フランスをぶちのめして凱歌をあげろ」というものだった。

1930年のドイツ

は病んではいたが、非常に力強い国だった。

ドイツ国民の意識の中に潜在的に眠る力への自信、ヒトラーはこうした潜在意識にうまく語りかけた。ヒトラーに走り寄った大衆の胸のうちにあったのは、絶望感だけではなかった。彼らの胸には、野性味をおびた現状打破の意思、腕まくりをして一丁ぶちかましてやろうという強烈な意気込みも生きていたのである。(略)
彼が示したのはそれまでにない何か新しいもの、旧来の右翼政党とは違った、何か右翼と左翼を漠然と統合した、新しい「国民共同体」のようなものだった。また大衆がヒトラーを選んだのは、ブリューニングやヒンデンブルクに対する抵抗、とりわけ、好機到来と見てふたたび勢力を盛り返そうと図る、貴族将校やエリート官吏たちに対する庶民の反抗でもあった。
ヒトラーを選んだ人々はもはや、帝国や階級社会に後戻りしたくなかったのであり、ヒトラーもそれを望んでいなかった。もちろんヒトラーが民主主義者などではなかったのはいうまでもない。しかし彼は大衆の人気に足場を築くポピュリストだった。

1932年、新首相パーペン男爵

パーペンのような金持ちの貴族からすれば、ヒトラーなどは立身出世にあこがれる小物でしかなかった。
「まあヒトラーのごときは自分の下で、宣伝相かせいぜい副首相くらいの地位を与えて、持ち前の煽動家としての才能をおおいに発揮してもらって、今の貴族的政権に大衆の支持を呼び込んでもらえばそれでいい」くらいにパーペンはたかをくくっていたのである。
「むろん政治的にはやつの水路は断っておかなくてはならない。つまりナチスの勢力はつぶしておく必要がある、だがそれは民主主義を廃止してしまえば簡単にできることだ。