明治のワーグナー・ブーム 近代日本の音楽移転

明治のワグネリアン

 時期はだいたい明治30年代の半ばあたりである。ワーグナーの魅力の虜になり、楽劇に熱狂した人々が俄然、多数現れた。彼らは熱に浮かされるように、この新しい総合芸術の崇高さを語ったのである。その広がりと熱度は、中村洪介は「ヴァーグネリアン・ペスト(略)が猖獗を極めた」と評するくらいである。
 今、中村にしたがって、このペストに罹った文人の名を挙げてみるなら、島崎藤村上田敏永井荷風石川啄木北原白秋高山樗牛島村抱月などとなる。
(略)
 彼らはどんなふうにワーグナーに熱中したのだろうか。好例は石川啄木である。早熟な啄木がワーグナーに熱中し出したのは17歳のときであった。当時彼にとって、ワーグナーは、「空前の模範と、人類の帰趨に対する宏大な予言、教理とを遺して逝いた偉人で」あった。この偉人に心酔するあまり、少年啄木は気宇壮大な計画を立てる。ワーグナーの思想を受けついで自ら発展させ、一箇の文明論を執筆しようというのである。
 この計画は、結局は実現しないままに終わるが、啄木のワーグナーヘの傾倒は、音楽や芸術という領域をはるかに越えた、全面的なものだったことが分かる。またその熱中ぶりはほとんど拝跪に近いものであった。実際、啄木は、ワーグナーの写真を自室の床の間に掛けていた。(略)
永井荷風は下町趣味で名高いが、実は若き日の欧米滞在時にクラシック音楽にかなりのめり込んだ。(略)
[NY滞在中の1906年]「トリスタンとイゾルデ」を観る。そして次のように日記に記す。「余は深き感動に打たれ詩歌の極美は音楽なりてふワグネルが深遠なる理想の幾分をも稍々窺得たるが如き心地し無限の幸福と希望に包まれて寓居に帰りぬ」

姉崎嘲風

姉崎こそ、ワーグナー・ブームの火付け役というべき人物(略)
宗教学者である。東京帝国大学の教授を長く務め、日本の宗教学の基礎を築いた。(略)学生時代の親友に高山樗牛がいる。姉崎は樗牛が早世するまで、ずっと密な交友を保った。
 姉崎は三高時代からドイツに強く傾倒し、ドイツ語を熱心に学習した。熱が昂じるあまり、ついには「夢伯林士」と号したくらいである。今日なら定めし「ベルリン・ドリーマー」とでもいうところか。(略)
[1900年から三年間ドイツ留学、ベルリンで「ラインの黄金」を観て、ワグネリアンと化す。その興奮を樗牛に宛てた公開書簡の形で『太陽』に掲載]
 樗牛は当時、文壇の寵児であり、とりわけ若い世代に絶大な影響力を誇っていた。彼の著作は必読書扱いであり、「青年学徒の必ず通過する人生鉄路の停車場」のごとき観があった。こうして、ワーグナー熱が一気に燃えさかった。
(略)
しかしある一点において、明治のブームには、今日と異なる、きわめて奇妙なところがあった。(略)
 それは、明治のワグネリアンのなかで、ワーグナーの楽劇の舞台をわが目で観たことのある者はほとんどいなかったという点である。
(略)
上演の場となる劇場もなければ、舞台を作る演出、舞台美術、照明技術などもなかった。ソリストも足りなければ、合唱もオーケストラも満足に揃わなかった。つまり、何もかもがないない尽くし、だったのである。
(略)
 では、明治のワーグナー・ファンはいったいいかにして楽劇を経験したのだろうか。念を押しておきたいが、彼らが渇仰したのは楽劇なのである。ワーグナーの音楽なら何でもよかったのではない。それは、先に紹介した幾多の崇拝の言を見ればわかろう。
 なるほど、蓄音機はあるにはあった。だが、録音技術が幼稚きわまる段階であって、楽劇のような複雑で長時間の楽曲は完全に論外である。そもそも、洋楽のレコードは明治末年でもまだ発売されたことがなかった。といって、在外経験のあった者は鴎外や荷風など、一握りにかぎられる。とすれば、ワグネリアンの圧倒的大多数には、楽劇を観る術がなかったという結論にいたらざるをえない。
(略)
中村洪介が「ヴァーグナー聴かずのヴァーグナー論者を多数生み出」したと言うのは、まさにそのとおりなのである。

近代日本の音楽移転

音楽移転がこれほどのスピードと深さで進行した例は、他にほとんどないといってよい。洋楽が日本にもちこまれたのは幕末の開国期のことである。それから100年もしないうちに、日本の音楽文化は――むろん、日本風にアレンジを加えた面が多々あるが――すっかり西洋風に変わった。

浄瑠璃の家元が洋楽を学ぶ

 明治の初年、東京上野の山上に音楽取調掛なるものがあった。役所のような名前だが、実は当時はここで洋楽が教えられていたのである。(略)
 さて、ここで学ぶ生徒のなかに、すでに50歳も過ぎた禿頭の男性がいた。(略)この老人、実は四世豊前太夫と名乗る富本節の家元であった。(略)
 浄瑠璃の家元が洋楽を学ぶとは奇妙な話である。しかも、事典の類によると、四世は富本流中興の祖といわれたほどの名人だったらしい。(略)
 彼の意図はともかくとして、この師匠、取調掛の教室では奇癖をもって始終、教師を悩ませていた。というのも、唱歌を習っている最中、メロディーが一息つく箇所になると決まって、師匠は「ヤーホイ」とか「ヤッ」と合いの手を発するのである。教師は再三、これをたしなめるのだが、何せ幼いころからの習い性である。考える前に口が動いてしまう。結局、豊前太夫はこの癖を直せないまま卒業したという。
 いささか滑稽な光景ではある。同時に、舶来の響きを懸命に学ぼうとする当時の日本人の姿には、一種の健気さすら漂う。ただ、それはそれとして、豊前大夫には定めし勉強は大変だったろうと思わざるをえない。(略)
 まず、音程のとり方が彼には容易ではなかったはずである。西洋音楽で使用する平均律の音階は、日本の在来音楽のものと音高が異なる。(略)
[さらに]師匠のなじんできた邦楽では、そもそも和声という観念がない(略)[邦楽では]めいめいに音を出すだけで、互いに共鳴させることはない。
 リズムという洋楽の拍も戸惑いである。曲があのように規則的に、しかも強弱の拍を打つなど、師匠の知らない世界である。(略)[邦楽なら]「間」であろうか。しかし、間は音の長さの加減で生じるものであって、強弱ではない。

日本人にとっての西洋音楽

洋楽に当惑したのは豊前太夫ひとりではなかった。西洋音楽の響きは当時、だれにもまったく耳新しかったからである。(略)
[1860年幕府の使節団がハワイに到着]
一行は国王に謁見し、その後夜会に招かれた。夜会では当然、社交ダンスがある。生まれて初めて見るダンスであり、初めて聴く西洋音楽である。一行はどう感じたか。「其様唯飛廻るか如くにして更に面白からず、鼓の音騒々たるのみ」というのがその感想であった。ただ、男女が跳ね回っているだけで、何が面白いのか分からないし、ただドラムがうるさいだけだ、というのである。
 一行はさらに、あるアメリカ人の家庭に招持された。遠来の客のもてなしにと、その家の主人が娘にピアノと歌を披露させた。(略)
 若い娘だけに、ソプラノの高い声だったのだろうが、使節団副使の村垣淡路守範正の耳にはどうしても、夜中に夢うつつに聞く犬の遠吠えとしか聞こえなかった。歌い方もいかにも苦しげだし、ともかくすべてが滑稽千万である。というわけで、彼は失笑を抑えるのに一苦労だった
(略)
 時代が明治に変わってからも、洋楽の受けとめ方は大して変わらなかった。

西洋人の耳に響いた邦楽

[東洋研究家フィッシャーは謡曲を耳にし]
「われわれヨーロッパ人の神経を苦しめるこうしたすすり泣き、喉音、吼え声は、そもそも音楽と言えるのだろうか。(略)わたしが現地で聞いたすべての異国音楽のなかで、日本の音楽ほどわたしに苦痛を与えたものはなかった」
(略)
[日本に30年住んだ医師のベルツは当時随一の知日家だが]
とりわけ彼を閉口させたのが、座敷での音曲である。芸者の唄は「ネズミの鳴くような不快な声」にしか聞こえないし、三味線にいたっては、これがいったい音楽なのかと問わずにはいられなかった。
(略)
 ミヒャエーリスは生来音楽好きで、居留地仲間の素人楽団に加わっては、合唱などを楽しんでいた。
 それにもかかわらず――あるいは、むしろそれゆえにこそ、かもしれないが――、彼は日本音楽にうんざりしどおしだった。まず何より、旋律が「際だって退屈で単調」である。加えて、歌い方がこれまたひどい。「日本の歌い方というのは、われわれの方法とは正反対である」。西洋では、胸郭を広げて発声するのに対して、「当地では声を押しつぶすようにする。まるで歌い手は気分が悪いかのように」。
(略)
[イザベラ・バード]の旅行記からは、彼女が日本の事物に積極的な関心を示したことがうかがえるが、音楽だけは別だった。謡曲を聴いたバードは、「苦悶の叫び声(略)蛮風の精髄ともいうべき響き」でしかなかったと書き残していいる。
(略)
 幕末の外交官のアーネスト・サトウ(略)は日本事情に精通しており、また日本語に堪能であった。芝居小屋にも出入りし、その際、木戸番の理不尽な言動をやりこめることすらできたくらいである。ところが、そのサトウの耳にも、日本の調べは「音調の十中の九までが調子はずれ」にしか聞こえなかった。だから彼は、日本音楽はとうてい鑑賞に湛えないと断じる。
 このように、西洋人の側は日本音楽にほとんど全否定の体であった。実際、好感をもった人物はほとんど思いあたらない。あえて言えば、アメリカ人の動物学者モースくらいだろうか。日本の事物に多面的な関心を示した彼は、音楽にも手を伸ばし、ついには梅若某という観世流の師匠について謡曲を習うにいたった。
 ただ、そのモースにしても、当初から邦楽のファンだったわけではない。三味線の演奏に接した当初は、「私が生れて初めて聞いたような、変な、そしてまるで底知れぬ音楽」だと、かなり否定的な印象をもったのである。

開拓者伊沢修二

 こうした音楽取調掛の活動を先頭に立ってリードしたのが伊沢修二である。もっとも、彼は元来、音楽家ではない。後年には、自ら簡単な作曲も手がけるくらいになったが、歴とした文部官僚である。(略)
 この経歴が示すように、伊沢は維新エリートの典型といってよい。軽輩の身分と貧困からの脱出を目ざして刻苦勉励し、新時代の教育たる洋学をてこに立身をはかった。(略)
 伊沢がアメリカ滞在中に唱歌教育の導入を具申したのは先述のとおりである。それを受けて設立されたのが音楽取調掛である。(略)音楽教育に取り組むかたわら、伊沢は文部省内で、編輯局長として教科書編纂事業や体育教育などにも携わっている。後述のとおり、音楽取調掛は1887年に改組されて東京音楽学校となるが、伊沢はその初代校長にも就任する。
(略)
伊沢は元来、音楽と接点のあった人間ではない。(略)初めて洋楽にまともにふれたのは、先にも述べた留学先のボストンにおいてであった。しかも、その留学ももともと、音楽を目的としたものではない。本来の使命は、アメリカにおける師範教育の研究調査であった。(略)
[マサチューセッツ師範学校の音楽の授業にまったくついていけない伊沢に校長は免除を提案したが]
伊沢は憤然としてこの申し出を断る。せっかく笈を異国に負いながら、「一科でも二科でも除いた以上は、片輪修業になって、師範学科取調の趣意にも叶はぬ」から、というのである。
 大した気概である。といって、気概だけではどうにもならない。
[そこで個人教授を受けたのがL・W・メーソン](略)
 こうした伊沢だったから、唱歌教育導入の責任者に任せられたといっても、それを自ら推し進める知識も技能もなかった。(略)そこで白羽の矢が立ったのが、伊沢がボストンで世話になったメーソンである。(略)文部省ルートでの最初の「お雇い」外国人音楽教師である。
 唱歌教育の大枠を定めたのは、このメーソンであった。彼は、歌唱や演奏を指導する一方、和声学などの講義も担当した。(略)『小学唱歌集』の編纂にも中心的な役割を果たした。実際、唱歌集には讃美歌からの借用が多いなど、メーソンの影響が色濃く表れていることが知られている。それ以外に、楽器や楽譜の手配、その調律・修理にいたるまで、文字どおり、洋楽のドレミの段階にあった明治日本を手取り足取り教えたのである。

「国策」という考え方

 以上のような経緯を経て、音楽取調掛は始動した。(略)
ただ注意したいのは、当の伊沢は別段、モーツァルトベートーヴェンやらを日本に根づかせたいと考えたわけではない、という点である。(略)
 洋楽を取りいれた後、それを日本在来の音楽と融合させ、そこから新生明治日本にふさわしい新たな音楽を作り出す――これが彼のねらいであった。伊沢はこの新たな音楽を「国楽」とよぶ。(略)
洋楽はあくまでも、「国楽」を作りあげるうえで、素材を提供するだけのものにすぎなかったのである。
 以上のねらいについて、伊沢は明快な意識をもっていた。あるとき伊沢は、この点を音楽教師メーソンに向かって次のように明言したことがある。「われわれのめざすところは、欧米の音楽を全面導入することではありません。新しい日本の音楽を作りあげることなのです」と。
 伊沢にとっては、音楽取調掛はこの国楽理念を実践する場なのであった。それで、先述の伝習人の経歴の奇妙さも合点がいこう。生徒が身につけた邦楽の素養にメーソンがもたらした洋楽を加えて、両者の融合をはかるというわけである。
(略)
伊沢が音楽に期持したのは、それが生む実際的な効用であった。

音楽の効用、「国楽」

 まずは精神面の効用である。伊沢は、教室で快活明朗な旋律を繰り返し歌わせれば、子供は知らず知らずのうちに進取の気性を発展させるだろうと考える。だから、唱歌の旋律には、悲しげな短調ではなく、気分を高揚させる長調がふさわしいと彼は考える。(略)
 身体を強健にするという作用もある。正しく歌うことで、肺の機能が鍛錬され、体格がよくなる。(略)
 以上に加えて伊沢にとってとくに重要だったのが、忠良な臣民を育てるという効用である。歌詞のなかで忠君愛国を謳いあげておくなら、子供たちは、歌とともにそれを吸い込み、無意識のうちにこの道徳を身につけるだろうという算段である。
(略)
もっとも、音楽なら何でもよいわけではない。伊沢はこの点、日本の在来音楽は完全に失格だという。雅楽や能では高踏的すぎて、人々に親しまれるものにはならない。といって、端唄や小唄なども困る。お座敷芸として発達しただけに、低俗野卑で、社会の風俗を害するだけの代物である。(略)
 では、西洋から音楽を借用すればいいではないか。維新以来、舶来の制度文物を取りいれ、珍重してきたのだから、音楽もそうしてもかまうまい。ところが、伊沢はこれにも肯かない。彼に言わせれば、音楽とは風土と国民性の産物である。文化的土壌の異なる西洋から歌を直輸入しても、日本人の間に根づこうはずがない。(略)
結局、新たに作るしかない道理である。こうして伊沢は、文明的かつ健全で、しかも日本人の感覚に合った音楽を創造することをぶちあげる。それが「国楽」である。

洋楽流入ルート

 幕末維新期の洋楽流入のルートとしては(略)文部省ルート[音楽取調掛]はむしろ後発に属する。もっとも早かったのが軍楽隊である。(略)
 薩摩は、軍制の洋式化を進めるなか、調練の一端として軍楽による行進訓練を取りいれた。指導を請われたのが、当時横浜に駐屯していたイギリス軍の軍楽隊楽長フェントンという人物であった。彼の下で薩摩藩士の伝習生は洋楽を一から勉強し、翌年には吹奏楽演奏を行うようになった。最初に演奏した曲は、イギリスの国歌「ゴッド・セイヴ・ザ・クィーン」だったという。
[維新後、海軍軍楽隊を指導したのが「君が代」に和声をつけたドイツ人のF・エッケルト。遅れて軍楽隊を組織した陸軍はフランス人のダグロンとルルーが指導]
(略)
 もう一つのルートは宮中の雅楽師であった。(略)
[欧化政策の一環として宮中儀式にも洋風が一部導入されたため]
 宮中の洋風化に熱心だったのは伊藤博文である。

「お雇い」外国人ディトリヒ

1888年東京音楽学校への改組に前後して雇われたのが、オーストリア人のR・ディトリヒであった。彼は、1894年まで六年間、音楽学校で指導することになる。(略)
この人事には、設立されたばかりの東京音楽学校がいったい何を目ざすのかという、将来像が明白に反映されていた(略)
 歴代の外国人教員を見ると、まず初代のメーソンは音楽家というより、むしろ音楽教育家であった。だから音楽の実技となると、はなはだ不十分で、ピアノとヴァイオリンが少々できる程度だったらしい。これに対して、次のエッケルトは、ドレスデンなどの音楽学校で正規の教育を受けた人物である。ただ、学生時代の専攻はオーボエで、しかもその後軍楽隊で経歴を積んだ(略)ため、彼は管楽器には十分精通していたけれども、鍵盤楽器や弦楽器の演奏能力となると、どうしても見劣りがした。(略)
[次のソーヴレーにも日本側は満足しておらず、在任三年だった]
たしかに技能の点では不足はなかったものの、芸風に難があった。彼はそもそも、出稼ぎ興行で各国を転々とする歌劇団の指揮者兼ピアノ伴奏者として来日した人物である。したがって、大向こうの受けをねらう派手さの一方、音楽教育を託するだけの堅実さには欠けていた。ソーヴレーのこういう側面を、彼から教えを受けた幸田延は、「専門家ではありませんでしたが大変器用」だったと、いささか手厳しい語で回想している。というわけで、日本側はもっとアカデミックなスタイルをもった音楽家を望んだのである。
(略)
[ディトリヒは]このとき27歳、ウィーン音楽院でヘルメスベルガーやブルックナーの下で学んだ若手の俊秀であった。彼は在学中から成績優等で表彰されたほどで、卒業後もウィーンの音楽界で活躍した。本来の専門はオルガンだが、多面的な才能に恵まれており、ピアノ独奏や伴奏でもコンサートに登場していた。さらに弦楽器もよくし、恩師の主宰する著名な弦楽四重奏団「ヘルメスベルガー四重奏団」でヴィオラを担当していた。
 以上の経歴からだけでも、彼の水準の高さはうかがえるが、その後の経歴を見ればいっそう明らかとなる。日本での滞在を終えた後、彼は故国に戻り、ウィーンで1901年に宮廷オルガニストに就任した。さらに1906年には、母校ウィーン音楽院から声がかかり、オルガン部門の教授に就いたのである。世紀転換期のウィーンではオルガン・ルネッサンスとでもいうべき、オルガン楽曲の流行があったが、その中心にいたのがディトリヒであった。つまり、ディトリヒはウィーンの楽壇で通用する第一級の芸術音楽家だったことがよくわかる。
 実際、彼の招聘は、明治の洋楽史で大きな節目をなしていた。というのもこれ以後、外国人教師の質が決定的に向上したからである。

次回に続く。