『魔法の庭園』
彼は秋のなかごろ、現に存続しているとても美しい縦横百フィートのオレンジ園の上に、これを冬の寒気からまもる巨大なガラスの建物を造らせた。その壁の中には無数の暖炉が熱気をひろげていた。この大建築のドーム全体がきわめて美しい緑色を帯びており、支柱など一本も目にとまらないほど高く空中にかかっていた。そこでは、オレンジの樹々が果実の重さでしなっていた。冬でも秋のように房をいっぱいつけたぶどう園を人びとは横切り、さまざまな果樹がゆたかな実を差し出すのであった。また別のぶどうの樹々は円天井のようにあずま家をつくっていた。この庭園全体が一個のみずみずしい葉飾りをなしていた。三十あまりの泉水が冷たい水を振り撒き、上に向かってはきらびやかな星空をかたちづくる十万もの照明ランプが、下に向かってはこよなく美しい花壇を照らしているのだった
古ぼけた聖界領
ベネディクトゥス十四世(一七四〇-五八)を別とすれば、彼らは文学・学術の世界でも相手にされなかった。教皇は、ほとんどイタリアの一君主にすぎなかった。それも行政の乱脈な、「教皇国家」と呼ぼれる古ぼけた聖界領で、そこの君主が教会最高の称号をおびていたのである。
理想の妻像・家族スタイルは牧師家族にあり。
プロテスタントの教会は、聖職者の独身強制--反宗教改革はカトリックの聖職者に対してこれをいっそう強化したのだが--を意識的に廃棄したから、教会は新しい社会制度ともいうべき「プロテスタントの牧師館」、すなわち牧師夫人と牧師の息子や娘たちを含む牧師家族を創り出した。これは市民的なサイズの模範的家族であって、十六世紀にはまだ目新しいものだったが、十七世紀にはその地歩を固め、十八世紀には全盛をきわめるに至った。ここではとりわけ主婦のために、新しい地位が築かれた。なぜなら牧師夫人は、教区共同体の内部で、世俗的な美徳の模範でなけれならかったからである。
市民(ビュルガー)
市民というものは、けっして都市の全住民からなっていたわけではない。すでに十六世紀いらい、諸都市は市民権への門戸を閉ざしはじめ、新たな受容れをわずかしか認めなくなった。アウクスブルクでは、十八世紀に、三万の住民のうち、わずかに六千の「市民」しか見られなかったという。「市民団」は、下に向かって閉ざされ、貴族制的ないし寡頭制的な性格を帯びたのである。共和制的な「平等」はといえぱ、わずかに市民権をもつ人びとの間にしか妥当しなかった--その「市民」が富んでいようと貧しかろうと。君主の冠と対をなすものは、昔も今も「自由帽」、つまり共和主義者たちが国王の前でもかぶっていてよい、あの象徴的な頭覆いである。しかし、とかくするうちに、「王冠」も「自由帽」も、すでに古びてしまった。
金儲け主義的「公共心」。
ドイツ人行政貴族は見た、あの反逆オランダ商人は今。
フリードリヒ・カール・フォン・モーザーは、商人たちについて、何となし薄暗い像をえがいている。オランダに滞在した時のことを、彼はこのように語る。「たえ間なしに、一日じゅう至るところで、貸したの呉れてやったの、儲かったの損をしたの、貯金だの集金だのと、吐き気のするようなお喋りを聞いているより、どんよりした海の空気のもとでは、もっと深く息を吸うことができない。それも商人衆の間でばかりか、心の充足と気高さ、趣味と濁りない考え力を求めて見出せるのではないかと思われる人たちのもとにあってさえ、である。・・・『公共心』とは、ここでは商人の精神のことなのだ。政府のお偉方について、私はある御婦人が彼らを特徴づけたようなことを、あえて言う勇気はない。『これはもはや共和国ではない。これはオラニエ公に服属させられた商人の団体である』というのだ。(略)
ネーデルラントの独立の開始いらい、たんにカトリックのスペインに対してばかりか、オラニエ家の総督やこれをとり巻く地方貴族に対しても同様に抵抗してきた、あのオランダ商人たちが。
「ふさわしい」貧民と「ふさわしからぬ」貧民。
貧民を労働者へ
宗教改革は、純粋な喜捨の考え力から脱却しようと試みた。もとより、その後も喜捨は金持ちによって要求されたが、この状況に秩序をもたらそうというのであった。わけてもカルヴァン派のもとでは、「ふさわしい」貧民と「ふさわしからぬ」貧民とが区別されるに至った。施しはもはや盲目的に与えらるべきではなく、そこにはっきりした狙いがあってしかるべきだ、というのである。教区民は「救貧財団」を設立しなければ、つまり教区民から真の意味での救貧税が徴集されなければならなかった。そのうえ、人びとは、これまで自明であった貧乏を、貧民を労働者へと教育することによって、克服しようと欲した。旧約聖書にあるとおり、働かざる者は食うべからず。貧乏はもはやキリスト教的な理想ではなくなった。
ラ・シーヌ
ヴォルテールが彼の世界史を「中国」から始めたとき、彼は決定的な、新しい指針を与えたのである。そのことによって彼は、古典古代=キリスト教的な伝統を相対化した
啓蒙の反動でオカルト
急進的な啓蒙主義は、啓蒙されざる世界のなかに、誤謬・迷信・暗黒また野蛮しか見なかった。しかし多くの者にとっては、啓蒙主義のうちにいまなおひとを元気づける太陽のぬくもりを発見することが、しだいに難しくなってきた。ドイツの作家ノヴァーリスは、「数学的な盲従」でもって「すべての不思議なもの、神秘なもの」を一蹴しようとする啓蒙主義の「冷酷な光」という言葉まで使っている。すでにしてしばしば殺風景な素面がはびこり、ひとの世は神秘のヴェールをはぎとられてしまった。若い世代の人びとは、それにだんだんうんざりしてきた。けだしこのような徹底した啓蒙主義は結局のところ底が浅く、奥行きを欠いていたし、批判や道徳に関する無駄話に明け暮れ、霊魂の力を遊ばせていたのである。合理主義の時期の哲学的な皆伐のあと、十八世紀の六、七〇年代にはロマン主義以前的ともいうべき動きがはっきり現われ、それは科学的ないし擬似科学的な心霊術・錬金術ないし魔術の研究への熱中によってもよく示されていた。