吉本隆明質疑応答集〈1〉宗教

吉本隆明質疑応答集〈1〉宗教

吉本隆明質疑応答集〈1〉宗教

  • 作者:吉本隆明
  • 発売日: 2017/06/23
  • メディア: 単行本

僕は親鸞のどこが好きなのか。(略)宗教を信じている人にはいい子になりたいという気持ちがあるんですよ。そして僕自身にも、自分を偽ってでも正しいことをいいたいという気持ちがあると思うんです。ところが親鸞は、人間は正しいことをいうためになぜ自分を偽らなきゃいけないのか、ということを非常によく考えて、自分を偽ることと正しいことをいうことの間に橋を架けたような気がするんです。
 この二つの間に橋が架かっている宗教家、思想家はほとんどいません。たとえばマルクス主義者でも、「おまえ、いいこというじゃないの」というのと、「おまえ、インチキじゃないの」「おまえ、こういう悪いことしてるんじゃないの」ということの間にちゃんと橋が架かっている人はいません。これは国にかんしても同じです。
(略)
 これは僕の考えですけど、もしほんとうの思想がありうるとすれば、国家として共同体として組織として、あるいは自分として自分の内面に嘘をついているということと、正しいことをいうことの間に橋が架かっていなければいけないと思う。親鸞の思想には、橋が架かっている。橋が架かっていない思想を、僕は信じないわけですよ。そもそも僕は、正義なんて信じていない。理念的に正しいことをいうのはやさしいことです。人間は、そんなのは、ちょっとでも知識・教養があればできるんですよ。僕はそう確信します。しかし、そんなことはたいしたことじゃないと思います。
 自分に嘘をついていることと、正しい理念というものと、両方に橋が架かっているということが、非常にたいせつなことだと思います。それがなければ、思想はゼロに等しいというのが僕の考えです。

新約聖書』と親鸞

僕が理解しているかぎりで、『新約聖書』からいちばん衝撃を受けたのは次のような思想です。精神において偉大であろうとするならば、現実には偉大であってはだめだ。つまり現実的には僕[しもべ]でなければならない。あるいは、現実で虐げられた時には観念のなかに入っていけば、そこには無限に救いの世界がある。これは非常に衝撃的な考え方ですが、親鸞もこれと非常によく似た考え方をしています。

  • 『変容論』講演後

「大衆の原像」と構造主義

大衆の像[イメージ]は、たえず変わってきています。僕がそのことを初めていったり書いたりした時と較べて、「大衆の原像」はまるでちがってきている。ですから、具体的にはたいへんちがったふうに考えていかなければいけないんですが、「大衆の原像」という考え方じたいは変わらない。大衆という概念と対応しながら、人間・主体という概念がどう変わってしまったのかということがたいへん問題なわけです。僕は構造主義の考え方はたいへんみごとなものだと思うんだけど、どうも自分はその場所には行けないような気がする。自分なりにさまざまな位置づけをするんですが、それとはちがうような気がするんです。
(略)
現在の段階では、主体・人間という概念も、人間主義という概念も、非常に危なっかしくなってきている。僕自身もそう思っているし、それについてはちっとも異論はない。しかし僕はその一方で、主体あるいは人間という概念がなくなっても、その骨格として、内容という概念が残るような気がするんです。内容がどうということではなく、とにかく内容じたいはなくならない。構造主義においては主体が飛んでしまうと考えるから、内容もまた飛んでしまうと理解しても一向にさしつかえないようになっている。社会主義への理解でもそうですね。しかし僕は、内容じたいはどうしてもなくならないような気がしてしようがないんです。内容はどこまでもつきまとう。内容の意味はみんなすっ飛ばされちゃうけれども、内容じたいはなくならないんじゃないか。そこにかんしては、どうしても構造主義的な考え方になじめないなと思ってるんですけどね。
 では内容じたいとはいったい何なのかということになりますが、主体という概念と同じようなところでそれを摑んだとしても何の意味もなさない。ただ、いくつかの構造の間の連関性を考えたばあい、内容という概念はある意味をつくるだろう。意味を発させる、与える、形成するなどいろいろな言い方があるでしょうけど、とにかくなにかしらの意味を生ずるだろう。しかしそうじゃないばあいには、主体という概念に意味がないのと同様に、内容という概念にも何の意味もなくなってしまう。
 内容という概念が連関のなかに入っていったばあい、ある意味を構成するだろう。僕のなかにはそういう考え方があって、それはちょっと捨てられない感じがしています。頭では理解しているんだけど、そこだけは構造主義に付いていかれないような気がするんですよね。これは最終的に、主体という概念にかかわる。もちろん、人間という概念は歴史的なものです。17世紀から人間という概念が出てきたわけですが、今後は危うくなって全部消えていっちゃうかもしれない。主体という概念の有効性はすでにあやしくなっているかもしれないけど、内容という概念だけは依然としてくっついて、なんらかの連関や系列のなかで意味をつくるということかありうるんじゃないかと。そしてある系列のなかでは、そこでつくられた意味が人間・主体という概念の代用をなすこともありうるんじゃないかと思うんですよね。すこぶる危なっかしいところのような気もしますけど。

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