吉本隆明講演集第5巻イメージ論・都市論

吉本隆明〈未収録〉講演集第5巻 イメージ論・都市論

『マス・イメージ論』

[『マス・イメージ論』は、カルチャー側からはサブカルのような低級なものを、左翼側からは資本主義のお先棒を担いでるものを、何故扱うと批判され、サブカル側からは良く知らないくせに、しゃしゃり出てくるなと批判されたが、吉本の中には、カルチャーとサブカルの違いが何故なくってきたのか]
差異をつけようとすればするほど、差異が消されていくという現象がどうも起こってきたということ、これは一体どういうことなのかということが根本的な疑問としてありまして(略)カルチャーの中で文芸批評をしているだけではだめなんじゃないかという問題意識を持ってきたわけです。
(略)
 Aという作家と、Bという作家と、Cという作家は、生まれつきも、自己形成の仕方も、作品の手法も、それぞれ違っていると当然考えていいにもかかわらず、結果としての作品が、あまり変わりばえがしないじゃないかという現われ方は、とくに、若い年少の世代の作家の中に多いと思うんです。これは一体何だろうか、という問題が、その上にあるんじゃないか、つまり、問題とするに足る形であるんじゃないかというのが、ぼくの考え方でした。
 一般的に、そうじゃない考え方から、若い奴はだめになっているから、作品の個性さえなくなってるんじゃないかと云えば、若くない作家は、それで安心するかもしれない
(略)
 ぼくは、そういうふうに考えなかったのです。つまり、本来ならば、個性ある作家の内的形成なんだから、それぞれ個性ある作品として出てくるはずなのに、どうして急にこんなにいちように同じようになっちゃうんだと。とくに若い作家・詩人の作品がそういうふうに現われてきたとしたら、ぼくが『マス・イメージ論』のなかでやってみせたことは、そういう共通性の部分を括って見せたということです。(略)
その括られた部分は、単に個性を喪失した個々の作家の共通部分というんじゃなくて、それは、現在というものの「無意識のシステム」というようなものを感受・感覚したものの現われであり、それが、この同一性として現われている部分と云えるのじゃないか、ぼくはそういう理解の仕方をしたわけです。
 だから、まったく個性的じゃないじゃないかと思える、つまり、共通の同一性として括れる作品群の中にも、非常に重要な問題がある。つまり、個々の作家にとっても、また、これを鑑賞する読者のほうにとっても、また、現在というようなものを見極める場合でも、非常に重要な問題がある。それは、たぶん、現在に、なんとも具体的に、具象的に指摘することができない、あるひとつのわからない「無意識のシステム」があったとすると、そのシステムに対するある感受性が個々の作家の中にあって、それが非常に大きな非個性的な同一性として出てきちゃっている。
(略)
文学・芸術は現実の問題を反映するとか、文学・芸術の作家には現実と闘っている人もいるし、闘ってない人もいるとかいう馬鹿なことを云っている人が、今でもいますけれども、そういう考え方じゃなくて、文学・芸術は、現在、必然的に現在の時代の目に見えないシステムがもっているものを、無意識のうちに反映しているために、非常に大きな同一性の部分が出てきて、その同一性の部分は、必ずしも濃度が濃いわけでもないし、必ずしも感銘深いわけでもないし、むしろ逆に、それはシラケている部分かもしれないし、それとも、わけのわからん感性・感覚なんだ、というものかもしれないですけれども、そういう、現在のもっているシステムを反映しているがために、非個性的であるというふうになっている。あるいは、個性的な反映の時代共通性というんじゃなくて、非個性的な同一性の部分になっているということがあるんじゃないかと考えていったわけです。その考え方が、ぼくらの『マス・イメージ論』を支えている非常に大きな考え方の部分です。
 これは、皆さんにとって、どういう意味合いをもつのか、あるいは、ぼくがこういうふうにお話して、皆さん方がどういう受け取られ方をするか、それは全然わからないことなんですけれども、少なくとも、ぼくという批評家は、そう考えていったんだ、ということを知って、何らかのときにそれを考えてくださればよろしいと思います。
 そこの部分まで分け入っていかないと、若い世代の作家の作品は、単なる軽薄短小に見えたり、単に非個性的に見えたり、単に現象的な軽いつまらないものに見えたりして、それで終わり、ということになっちゃうんですよ。

アングラの基盤が失なわれてしまったら、全部のっぺらぼうじゃないか、体制芸術も反体制芸術ものっぺらぼうじゃないかとか、あるいは、非体制芸術ものっぺらぼうじゃないか、と思われるかもしれません。ぼくは、ある意味では、そうだと思っています。つまり、それはのっぺらぼうになっちゃったと思っています。
 しかし、どんな時代、どんな社会、あるいは、どんな強烈に高度な資本主義の社会になっても、社会の管理体制、社会の秩序、それからシステムが、一枚板のシートみたいになって、もう息苦しくて、息をするところもない、というふうになるかどうか、と考えますと、そうとうな部分はたぶん近い将来にそれに近いものになっていくような気がしますが、しかし、その場合でも、ぼくの理解の仕方では――ぼくはそれを一種のクラックなんだとか、亀裂なんだとか、空隙なんだという言い方をしてるんですけれども――空隙なしには、高度の資本主義は成り立っていかないだろうと思っています。
 高度の資本制は、たぶん非常によく延命するだろうと思っています。非常によく延命していくだろうという予測については、ぼくは、いわゆる左翼の人と、ちょっと違う考え方をもっています。高度の資本主義は、いわゆる民衆の問題も、そうとうよく解決していくだろう、と思っています。(略)
 そう思ってはいますけど、しかし、それにもかかわらず資本主義社会が、いつまでも安定均衡を保ちながら、一枚シートの管理体制でスーッと未来永遠の問題に突入できるかと思っていたら、ぼくは大間違いだと思っています。あらゆる高度の体制というのは、確かに、管理体制という網の目を強化していくでしょうし、一枚シートに近づいていって、その一枚シートの上に乗るかぎり極めて自由であるし、もう、本望であるというようなことを実現するでしょうけれども、しかし、ぼくの考え方では、どうしても社会のどこかに、みなさんの住んでおられる町なら町のどこかに、あるいはまた経済現象のどこかに、一種の空隙を、必ず必須の条件として存在せしめるだろうというのが、ぼくらの漠然と考えているひとつの占いです。星占いと同じ程度の占いの予測です。
 それから、現在はたぶんアングラというような基盤はなくなっているけれども、そういう空隙は、都市にもあるだろうし、農村にもあるだろうし、どこかに必ずあるんで、そこでは、体制的でもあるし、反体制でもある、そういうことがわりに自在にできる。そういう空隙が必ずあるだろうというのが、現在のぼくらの考え方です。

1987年「ハイ・イメージを語る」

[『東京女子高制服図鑑』の持つ意味]
なぜベストセラーになったか、いちばん重要なのは、これは相当いい本です(笑)。そこが問題で、僕はそれで論争したくらいです。
(略)
とんでもない本だと思った人もいるわけですが、僕はいい本だと思います。どこがいい本かというと、これは相当、執着している。つまり、女子高生の制服が好きで好きで、子どものころから好きでうんと執着している人が相当丹念に集めて観察して描いて、これをつくり上げたと思います。絵自体は決して悪い絵ではないですが、そんなにいい絵ではない。このくらいの絵なら描ける人はたくさんいると思いますから絵としてそれほどいい絵ではないけれども、決して悪い絵ではない。これはおかしな風に描いた、もう少しおかしくしてしまったらちょっと嫌だなとなってしまうし、乱暴に描いても嫌だ。これはていねいに、割合いにふわっとした表情でふわっとした姿勢で描いてあります。
(略)
相当に執着した作者が長い年月をかけて、長い執着と長く愛好した問題をちゃんと表現したことが、めくっているだけでだれにでも分かります。理屈として分からない人でも、「これいいな」と思った人でも、たぶんそれは感じています。
 僕は批評家で言葉にしようと思うから、言葉にしていちばん重要なのはそこだと思います。
(略)
 しかし、これを悪いと思った人がいるわけです。悪いと思った人はどうして悪いと思ったか。こんなのくだらない、意味がないじゃないか、つまらないことじゃないか。別に女子高生の制服がどうだろうと、そんなことは大問題ではないじゃないか。それよりもっと大問題はあるだろうと思っている人はくだらないと思った。そう思った人はたくさんいます。
(略)
僕はこれがいいということが分かったほうがいいと思います。そういう段階にきたと思います。これを「くだらない」で済ませる段階はすぎたと思います。左翼思想というのも、もっと緻密にしたほうがいいと思います(笑)。たとえば国家の利益と資本の利益のどちらがいいと云ったら、資本の利益のほうがいいのです。いい、とちゃんとはっきりしたほうがいいのです。そういう段階をちゃんとしたほうがいい。どちらもだめだという時代は過ぎた、それで済んだ時代は過ぎたと僕は思います。そこで論争したのですが、これがいいということをわかったほうがいいと思います。僕はいいと思います。分からない人より、分かったほうがいいと思います。

1991年「映像都市の生と死」

 前衛的に考えるのであれば、現在、重要な問題となっているのはハイパー・リアリズムです。これは無意識を解放するのではなく、じぶんの芸術的・精神的課題として無意識そのものをつくってしまうということです。これこそが、現在の都市における先端的な課題であるように思います。
(略)
 たとえば、後楽園遊園地に観覧車がありますよね。あれに乗るとゆっくりゆっくり円を描き、上に行ったと思ったら下に行っている。これは、映像リアリズムをどうつくるかという問題に関連してくるんですよ。観覧車に乗っていると、まずジェット・コースターが見える。そのジェット・コースターを中心にして見ていると、周囲のビルがすべて後楽園遊園地の中にすっかり入ってしまっているように見える。さらにはジェット・コースターの軌道が街の中、ビルの中に入り込んでいるように見える。つまり、遊園地と周りのビルとの境界がなくなってしまったように見えるんです。これは、観覧車以外のものに乗っても駄目なんですよ(笑)。僕は観覧車に乗って、やっと見つけたんだから。ですから皆さんもぜひ、後楽園遊園地の観覧車に乗ってみてください。そうすれば、僕の云ったことはある程度理解していただけると思います。これが映像都市のひとつの定義となります。
(略)
リアルな目で都市を見るとはどういうことなのでしょうか。それは、プロの写真家による東京をテーマとした写真集を見ればすぐに分かります。これらの写真集では、たいてい、東京のゴミ溜めなんかを写しています。もちろん芸術的リアリズムの写真として、都市の裏側を被写体にするのはいいんですよ。だけど、東京という街を全体として見る場合、ゴミが溜まってぐちゃぐちゃになっているところを撮っても都市論にはなりません。それはハイパー・リアリズム、映像都市としての東京じゃないんですから。そこが僕の不満です。
(略)
ゴミ溜めの写真というのは、リアリズムを好む人たちにはいいかもしれないけど、それで都市のリアリズムはかくのごときものであると云われてもこっちは困ってしまいます。これが芸術であれば、主題なんかどうでもいいんです。ただ単純に優れていて、芸術的価値を持っていさえすればいいんですから。けれども、東京という都市の全体像を摑もうとするならば、ハイパー・リアリズムの箇所が撮れていなければ何の意味もないのです。とにかく、東京をテーマとした写真集というのは、ことごとく駄目だと僕は思います。これは芸術論ではあるかもしれないけど、都市論ではありません。
(略)
 たとえば湾岸戦争について文学者が何か云っても、ことごとく間違えています。誰と誰が戦争をしていて、誰と誰がためらっていて、誰が駄目だと云えば、湾岸戦争反対ということになるのか。そういうことにかんする重量、ウェイトが分からないんです。戦争について言及する時、芸術的な表現なんていうのは何の意味もなしません。そんな無意味なことを云って、平気でいては駄目なんです。
 僕らは何かを云おうとする時、なぜこうも苦心するのかというと、戦争中の苦い経験があるからです。文学青年だった僕らは、戦争を文学的かつ内面的に考えました。そのために、とんでもない見当違いをしたわけです。戦後はさすがに、そういうことはないですよね。外からしか見えないものは、素直に外から見ればいいんですから。文学なんて、瞬間的にでも捨ててしまえばいいんですよ。そうしなければ間違えることになります。でも、外の目しかない人が芸術を見ようとしても駄目です。芸術を見ようとする場合には、外の目を捨てればいいのです。都市を見る時もまたしかりです。これは、とても重要なことのように思います。

1993年「ハイ・イメージ論と世界認識」

僕は小沢一郎の『日本改造計画』という本を読んでみましたが、小沢一郎って人はそれはよくわかっているんですよ。政治家なんか今のままだと企業の顧問弁護士みたいな役割しかないってことになる。内閣があって大臣になっても、官僚が作った政策プランをそのまま受けとって発表していくだけだ。企業体は世界で二番目の先進地域になっちゃった。政治家は企業の利益のための弁護士みたいになっちゃってる。これはけしからんので、政治家は政治家として国家に対する機能を独自に果たして、独立した領域を持たなければ駄目だ。そういうふうに書いてあります。これはすごい洞察力・認識力だと思います。そんなことをわかっている政治家は滅多にいないですからね。小沢って人はわかってる人ですね。
 政治家が企業や官僚の一時的な召使になって、顧問弁護士みたいになっている。こんな馬鹿げたことはない。政治家は国家間とか国家内の重要事項にだけ関与しているようでなければいけない、と説かれています。個人および企業は消費のほうが多くなっていますから、政治家なんて顧問弁護士以上にはいらない、というふうにしか本当は思っていないんでしょう。露骨には云わないですけれど、思ってないから、政治家や大臣が昔みたいに威張ったってもう成り立たないわけですよ。企業にたいしても成り立たないし、官僚にたいしても成り立たないし、個人にしても先進三地域では成り立たないということになっています。ですから何とかして政治家固有の領域を探さなければならない、確立しなければならないと書かれています。いい認識だなっていうか、こいつはよくわかってるなって僕は思いますね。少なくとも先進三地域ではそうなっていて、そのことはよくよく洞察しておいたほうがいいんじゃないかと思います。