西行論 吉本隆明

わかりやすいかどうかもわからなくなったけど、とりあえず読むきっかけくらいにはなればいいな、吉本隆明第五弾。少し前、あまり観ない大河を観てたらイケメン西行が出てたから、意味もなく『西行論』。

古典 (吉本隆明全集撰)

古典 (吉本隆明全集撰)

西行論 (講談社文芸文庫)

西行論 (講談社文芸文庫)

天台系や真言系の観相が、心理的な修練にすぎないことを、これほどよくしめしている象徴はない。極楽往生死の果証は、死にざまが安楽そうであるか、どうかによって決められることになる。死が安楽そうであれば、浄土へ往ったとされ、死が苦悶にみまわれれば、地獄へ堕ちた証拠とみなされる。これでは、善知識も修行もない。(略)
決然では、観相によって、浄土の光景や、仏の来迎を描く修練は、ほとんど完全に否定された。それが、心理的な瞞着にすぎないことは、潜在的には、どんな僧知識にも、よくわかっていたからである。
(略)
 瀕死の病人にむかって、いま、どんな情景が脳裏を去来しているか、もし悪いイメージだったら、念仏をそえてやるから良いイメージに作りかえよ、と強いるのは異常なことではないのか。死とはそんなものではあるまい。(略)
臨終念仏に特別な意義をあたえるのは、理念ではあっても、死の実状に即してはいない。これが、ほぼ法然の到達した死の認識であった。
(略)
極楽には蓮の花が咲いて、などと聞かされても、極楽浄土の光景や、仏の姿を観相的に思い浮かべる修練を積み、臨終にまで持ち越せと云われても、醒めて、白けてしまった時代の救済意識が、受けつけるはずがなかった。(略)法然の覚醒は、もっぱら、生理的な死の認識を中心に拡がっていった。
(略)
 すでに、浄土も、地獄も、比喩以上のものとしては信じられていない。衆生に説くときの法然にとっては、死とは、死体となって、朽ちることであり、そのとき「魂」が、肉体から離脱して行き場所を迷うことを意味している。ほぼここで、浄土の荘厳も、地獄の責め苦も、解体してしまった。浄土宗派の理念の成立は、大乗仏教の解体であった。(略)では、念仏称名だけがどうして、まだ、信じられているのか。(略)ただ、〈往生を信ずる〉ということを信ずるために、一向(ひたすら)念仏以外に、心棒となるものがなかったのだ。(略)
 親鸞は、率直に〈信〉の構造が解体していることを認めた。念仏が浄土へゆくよすがか、地獄へ堕ちるための業か、そんなことは解らない、ただ、ほかのどんな修行にも耐えないから、名号をとなえているだけだ、というのが〈信〉と〈不信〉のはざまでの親鸞の思想的根拠であった。(略)
中世の宗教者たちは、けっして現在わたしたちが宗教をみているような意味で、宗教者だったわけではない。ただ、思想が、宗教の形をとる以外になかったから、宗教者だったに過ぎない。(略)
源信法然が、生理的な死や死後の苦痛の切実な認識から、浄土欣求を語ったとすれば、親鸞はそれを180度旋回させた。かれは、実体としての生と死は存在しない、また実体としての衆生も、現世も存在しない、とみなすことで、源信法然が、いわばリアリズムの極限からとらえた死苦の実体を、泡沫のように軽くしてしまったのである。(略)
浄土とか地獄とかいうものも、相対的なものではないか。たしかにその通りだから、浄土に生れるのも地獄に堕ちるのも、人間の計らいには属さない。ではなぜ、人間は現世に執着し、死をおそれるのか。あるいは現世を厭いながら死を願わないのか。理由はよくわからないが、どんな理想の境涯を憧憬しても、そこは未知の場所であるが、現世はどんな厭わしくても既知の体験的世界である。それだけではないのか。未知、未見の世界は、どんな浄福に充ちていても、既知の厭わしい世界よりも執着が薄いのは、人間が人間的だからである。

定家の絵画が虚構の世界を築く言葉がつくったイメージの絵画とすれば、西行の絵画は、概念のとしての絵画で、言葉へゆく概念のなかに、折り畳まれて生命が行動した軌跡として作り出したイメージだ。別の言葉でいえば生命が持続によってつくる絵画である。(略)
これらはいずれも与えられた詠題の歌か、空想で恋の歌を人工的に作ったもので、歌そのものと直接に関与した体験はどこにもないはずだ。だがここにうち出された言葉は、生命が行動するという姿をとっており、それが言葉の概念のまま絵画になっている。これこそが「西行的なもの」の特徴だった。人間の行動はこんな生命の曲線を描くだろうとおもえる。そしてその通りの曲線に沿って言葉は行使されている。
(略)
生命の絵画はつくられるまえに余裕もなく破壊され、そのうえに行動を示唆することもやめてしまう。ただ眼に視えない袋みたいな定型のなかで、生命が盛りあがっては、も掻き、へこんではまた突出しているイメージがあたえられる。言葉の概念は意味をつくることはつくるが、形象を示唆する以前のところで、原生的な生命感のまま内攻し、ただうごめいている感じになってゆく。
(略)
 みんな恋の歌だ。しかもたぶん全部、体験の歌ではなくて、恋と題する歌として、人工的に作られたものだ。だがこういう歌を読んで作者自身が恋を苦しがって七転八倒している姿を与えられる。これは言葉の機能としては背理で、虚構をかまえればかまえるほど、生命が内攻して盛り上がったイメージがあたえられる。生命は概念に封じこめられているあいだは、形象をもつことはなくて、ただ糸のように折り畳まれている。ここでは生命が、体験の曲線に沿って言葉を解き放つのではなく、概念のうちで内攻し、せめぎあい、思わずところどころで、裂け目からうめき声をもらしている。

 これは『新古今集』の釈教歌のなかの秀歌三つを挙げたのだが、この世が夢という現世にたいする半ば眠りのなかにある既視感が、当時流布された浄土信仰の核心にあることが、とてもよくわかる。西行のみている現世だってすこしもこれと変わっていない。ただこの世は夢うつつだとは思っていても、そう思っている西行は夢うつつのうかつな状態ではなく、はっきりした「心」の形で、この世の無常を見ていることが歌から知られる。それがこの三人の女流歌人とちがっているといえばいえるところだ。(略)
無常をただ感性や情緒にしておきたくなかった西行は、浄土思想が説く現世の仮りの姿を、じぶんなりのいい方でつかみとってみたかった。それが独りでに歌を劇の形にしていったのである。(略)
西行は言葉のひとで、歌言葉が西行の信仰をどう扱って、どう表現したか、その特異な位相を抜きに西行の〈信〉は成り立たない。たんなる〈信〉のひとは、同時代にたくさんいた。たんなる言葉のひともまた同時代にたくさんいた。ただ〈信〉を言葉がどう扱ったかという特異な項目を時代に要請したのは、西行がはじめてだったのだ。じぶんの言葉がじぶんの信仰をどう扱うか、これは西行だけが、ひそかにじぶんに課した独自のテーマだったといっていい。


元気がないので、この分量で終了。明日につづく。