喩としてのマルコ伝 吉本隆明

ロクに読んでないのに、いい加減な事を書いている奴の話を鵜呑みにするより、とりあえず読んでみたら吉本隆明第七弾『喩としてのマルコ伝』。

論註と喩

論註と喩

マルコ的な世界は敗残の心理学と背反の現実に熟達していた。(略)護教はかならず背反者を創り出す。というよりも護教には背反者が不可欠な存在であり、むしろ必要とするから創り出されるともいえる。(略)
諸個人の観念のうちに宿る共同性と共同性のあいだに、また共同性と諸個人のあいだに憎悪は増幅されるといってよい。背教者を抹殺せよというとき、背教者が少数を意味すれば、護教者はじぶんが多数者だという根拠にたっている。もし少数者だったら教義の確信のうえにたっている。
(略)
人間はその関係としての他者とのあいだに自己自身にも他者にも自由にならない共同の観念をつくりあげてしまい、個人の意志的な志向にたいして共同の意志として働いてしまうところにこそ、この心理学の起源があったというべきかもしれない。

ペテロは、みんなが離反することがあってもじぶんはあなたを離れることはないとロに出してみる。いかにも誰でもそうやりそうに。マルコ伝の著者は信頼とか同信の仲間だとかの世界が、そうでありたいという願望でつながっていることをよく知っていた。共同の意志と個々の意志とが現実に矛盾したり、利害を対立させたりするときには、じぶんの個別的な意志につくものだといっているのではない。共同の意志はどれほど架空の共同性であることか。その架空な結びつきを保証するのは、個々の人間がじぶんを生きた人間とはおもわないで、観念だけの存在だとおもう度合の強さだけだ。願望をのべることはできても、願望によって動く肉体をこういう世界はもっていない。願望はただ願望だから危ういものだ。
(略)
マルコ伝の編著者たちはみずからが体験した背反を主人公と登場者たちにふりあててひとつの演劇を創作した。どうしてもかれらは近親たちに見捨てられ、同信者たちの相互不信でお互いに〈罪〉のなすりあいをやり、ついには信仰している〈神〉からも棄てられたという体験を描きたかった。そういいたいほどだ。(略)
この世界に登場する主人公たちはローマとユダヤの二重支配的な政治秩序のあいだで迫害された経験をもった。そのあいだに身につけた鋭く透徹した人間洞察力はひどく追いつめられたときに誰もが直面する問題をえぐり出していた。

そのときに誰かがきみたちに「キリストはここにいる」とか「あそこにいる」とか云っても信じるな。偽キリストや偽預言者たちが起こるだろうから。かれらは選民を惑わすために、できるなら不可思議や奇蹟をしてみせるだろう。きみたちは心せよ。あらかじめきみたちにすべてを知らせておくのである。けれどこれらの日々にはその苦難のあとで太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は空からおち、そして天にある諸能力は動揺するだろう。そのとき人々は、人の子が大きな能力と栄光とをもって、雲に乗ってくるのをみるだろう。(略)
無花果の木からとられた比喩から学べ。その枝がやわらかくなり、葉が芽ぐむやいなや、きみたちは夏が近づいたことを知る。おなじように、きみたちはこれらのことが起こるのをみたら、人の子が門辺まで近づいたことを知れ。まことにきみたちに云うが、これらすべてが達せられるまでは、今の世代は過ぎていくことはない。天地は過ぎてゆくだろう、けれどもわたしの言葉は過ぎてゆかない。(略)                   (「マルコ伝」第十三章)

 マルコ伝の教義のうち、教理的にはもっとも重要な終末の破局の光景と審きとイエスの再臨とを、手にとるような視覚的な実在感と、心の機微に触れるような確かな心理的な実在感でいいまわしている。

「けれどもわたしの言葉は過ぎてゆかない」とはどういうことか。
(略)
マルコ伝の全体が暗喩するところでは言葉はある〈信〉の状態に支えられていると、成就されないかわりに滅びることもなく永続するといっているのだ。このある〈信〉の状態こそマルコ伝自身が喩としてあるその根源の状態である。
 いったいマルコ伝の主人公イエスほど〈言葉〉に制約され〈言葉〉の軌道のうえを転々と移動させられている存在があろうか。ついには〈言葉〉通りに捕えられ罵られたあげくに殺され、そのうえ三日後に死者のあいだから甦らされている。(略)
マルコ伝の主人公は作者以外の〈言葉〉によって創り出され、作者以外の〈言葉〉を生きさせられている。この強制する〈言葉〉は旧約書からやってきている。旧約書によって予約された〈言葉〉によって生きさせられた主人公が、じぶんの言葉を語り、じぶんの不安や不信によって死ぬというところまで変貌してゆく過程がマルコ伝の真髄だということができよう。