超「小説」教室  高橋源一郎

『デビュー作を書くための超「小説」教室』高橋源一郎

デビュー作を書くための超「小説」教室

デビュー作を書くための超「小説」教室

選考委員に必要なこと

[「さようなら、ギャングたち」でデビューの前に]二度、新人文学賞に応募しています。
 その二度目にあたる小説、「すばらしい日本の戦争」は、たいへんな酷評をいただいて落選となりました。
 選評を読んだわたしは、正直かなりムカついたのです。
 ひとつだけ、どうしても捨ておけない選評が、あったのです。(略)
 「この選考委員、ぜんぜん読めてないじゃん」
 批判されるのは、かまいません。選考委員に好き嫌いがあるのも、技術的なつたなさを指摘されるのも、とうぜんのことです。
 でも、そうではなくて、選考委員が「読む」能力に欠けているために、「わからない」のひとことで落とされたとしたら、どうでしょう?
(略)
 自分が書いたものを自分で説明するのは、なんとも口はばったいものですが、「すばらしい日本の戦争」は、ふつうの文学的蓄積とは別のところで試みられた、意欲的な実験作でした。(略)
 いま客観的にふりかえってみても、受賞する資格がある作品だったと思います。
 だから、当時にさかのぼって不服を申し立てたいくらい、いまでもわたしは、心のどこかで憤っています。
(略)
 いまでも、選評を書くときには、わたしの作品にむけてはじめて書かれた、「あの選評」を思い出しながら書いています。
(略)
 さいしょに、わたしのファンになってくれた人を紹介しましょう。
 当時、群像新人文学賞の選考委員だった瀬戸内寂聴さんです。
 「すばらしい日本の戦争」が酷評を受けたとき、逆風のなかでただひとり衰めてくれたのが、瀬戸内さんでした。
《ヘンな人間ばかりがいり乱れバカバカしい会話やワイセツなことばかりするのに、なぜか私はこの小説から物哀しいリリシズムを感じたのだ。私は暴力は嫌いだし、殺人はもっと怖いし、S・Mの趣味も全くない。それなのに、この奇妙な人物ばかりが登場する小説が面白く、登場人物がみんな魅力的で逢ってみたいように思ったのだから、もしかしたら私もすでに、この小説の中の人物なのかもしれないと思い、選考会以来、ずうっと名状し難い甘美な不安の中にいる。》
 わたしは、この選評を、生涯忘れることはないでしょう。
 そして、選考委員になったいまでも「わたしも誰かの瀬戸内さんに、なりたい」という気持ちで選考会にのぞんでいます。だって「わたしが最初に見つけたんだ!」って、みんなに言えるでしょう?

あなたが送るべき新人文学賞は、どれか。

切実な問いですよね。
(略)
「この作品は、OO賞をあげるには、どうも暗すぎるなあ」とか、「○○賞は、重厚な純文学でないと、受賞資格はあたえられないよ」とか、選考委員に、そういった観点はありません。
 むしろ、そんなことに気を揉んでいるのは、応募者たちのほうです。
 たとえば、群像新人文学賞には、暗くて重たい作品が集まる傾向があります。文藝賞は、若くてポップな感じの作品が集まります。すばる文学賞は、物語性が高い小説が集まることが多いようです。だいたいどの賞でも、まるで事前に申し合わせたかのように、類似した傾向のものが、おしあいへしあいしているのです。


 わたしは、いつも、不思議に思います。
 わたしが応募するとしたら、みんなと真逆の作品をおくるのに、と。
 群像新人文学賞にはミステリーを、文藝賞にSFを、すばる文学賞にゴテゴテの純文学を、わたしならおくります。群像新人文学賞には、評論部門がありますね。わたしだったら、評論部門に小説をおくるかもしれません。
(略)
 しかし。その前に立ちはだかる壁があります。
 最終選考の前段階にある、下選考です。
 下選考は、おもに編集者や若手批評家たちがおこなっています。
 たしかにそこで、落とされることが、まったくないとはいいきれません。選考委員から下選考の人たちに、「何かわからないものがある作品は、残しておいてね」と、お願いはしてあるのですが。
 昔にくらべて、ジャンル的な境界は溶け合ってきました。ただ、あまりにも特殊なジャンル性をおびた作品がきたら、「OO賞には、合いません」と、はじかれてしまう場合もあると思います。
(略)
[編集者という壁を超えるには]
 しいていえば、こんなコツがあるかもしれません。
 いま流行っているものを、書かない。
 近年の受賞作に似たものを、書かない。


 考えてみたら、あたりまえのことですよね。
 新人文学賞は、小説の世界に、あたらしい作家をおくりだすための制度です。
(略)
 小説の流行に、毎日接して、ひょっとすると食傷しているのが、編集者という種族です。
 逆にいえば、編集者ほど、あたらしい小説を待望し、そのことに貪欲な人たちも、他にいないのかもしれません。
(略)
 現実的には、あなたの触手が動いたもの、でいいのです。
 ただし二点、気をつけてください。
 ひとつ。流行やジャンルの垣根を吹き飛ばす、あなたのテーマにこだわってください。
(略)
 ふたつ。各賞の傾向が見えたら、真逆に突っ走るくらい、反抗してください。
(略)
求められているのは、自由であること、です。

文学史地図

 自分でいうのもおかしいけれど、わたしは選考委員に向いている小説家だと思います。
 では何をもって、「向いている」と言っているのか。
 そこには、文学史地図をもっているかどうかが、大きく関わっているような気がします。
 かつて小説家たちは、近代文学があって、戦後文学があって、アメリカ文学があって、フランス文学があって……というような、歴史と地理がマッピングされた、文学史の「地図」をもっていました。
(略)
島田雅彦さんや奥泉光さんから後の世代には、文学史の「地図」の感覚や視点が、あまりないように見受けられます(略)
 たんに、気に入ったものを読む。おもしろいものを読む。それらが、どのような文学的な体系を形成しているかに、関心を引かれないのです。とても自由であるようにも、とても無防備であるようにも、わたしには思えます。
(略)
[地図を持っていると作家の可能性を探りつつ]
「この作品は、地図のこのあたりに位置するぞ。ということは、あの文学作品の進化系にあたるのかもしれない」とか、「この話ってさ、三十年前と、六十年前と、九十年前に流行ったよね。定期的に波がくる話だから、オリジナリティがあるとは言いにくいね」という、マッピングの視点が出てきます。
(略)
 わたしが小説を読み、書きはじめた頃は、「戦後文学を読まないと、文学をやる資格がない」とか、「大岡昇平も読んでいないなんて、生きていて恥ずかしくないの?」なんてことが、あたりまえのように言われていました。
(略)
 わたしの世代は、一種の教養主義のなかにいたのです。
(略)
 文学史の「地図」のない世界は、重力がなくなって、みんなでふわふわ浮いているみたいです。
(略)
 だから、いまの作品は、すこし気の毒です。
 ふるいものがあたらしいとされたり、本当はあたらしいものが、見過ごされたりしてしまうからです。
 作品を俯瞰的にとらえられる人が少なくなって、狭い視野で評価されているものだから、作品の息まで短くなってしまいます。
(略)
[江藤淳文学史地図が失われていく時代の到来を見越して選考委員を降りた。ではなぜ著者は降りないのか。地図のない状態により耐えられるし、あたらしい環境のなかで小説がどのように変化していくか興味があるから]
(略)
[ネットに溢れる小説を]
 好きかといわれると、それほど好きじゃない。でも、それもいいのではないかと、わたしは思っています。
 だって、小説って、いいかげんなものです。
 小説には、守るものがないのです。
 たとえば、詩には、守るべきものが強くある、わたしはそう思います。
 それは、ポエジーです。
(略)
[詩情、詩性、詩らしさ]これがないと、詩が、詩たりえないなにか
(略)
[一方、小説には特に条件はない]
 小説は、守るものがないから、いくらでもかたちを変えて、生き延びることができるのです。
 この点において、小説の未来にたいして、わたしは楽観的です。
(略)
 さて、そうはいっても、実際のところは、「これは小説である」という意識を感じる作品と、そうでない作品がありますよね。
 それが小説である、という意識は、どこからやってくるのでしょうか。
(略)
[日常の実用的な言葉と小説の違いは]
 とらえかたしだいで、あらゆるものが小説でありうるのではないか、という気もしますよね。
(略)
食事の約束をかわすメールの文面や、近況を知らせる手紙、クレームの電話や、履歴書や転居届や始末書や、こういったものも、やはり小説とはいいがたい。何かが足りないのです。
 逆にいえば、そこに、もうすこし何かが加われば、小説になりうるのかもしれない。
 それは、そういったことばでは満足できない、そういったことばにはおさまりきらない、そういったことばではどうしても伝わらない、何かです。
 この「何か」という隙間に、どんどん入っていけるものとして、わたしは小説というものを考えています。
 この隙間に突っ込んでいれば、それはたぶん、小説です。

「書かれたもの」より「書きたかったもの」

「これから書かれるもの」

 新人文学賞で選考委員が読まなければならないのは、作者によって実際に「書かれたもの」よりも、作者が「書きたかったもの」です。
 いや、「書きたかったもの」を超えて、本人ですら意識できていない、「書かれるはずだったもの」「これから書かれるもの」を読んでいるのです。
 そのために、わたしたちは、応募者であるあなたが残した痕跡を、丁寧にひろいます。
 選考委員は、痕跡に、よく気がつきます。とても目ざといです。
 なぜなら、選考委員である小説家の内側には、読み手のプロと、書き手のプロが、生息しているからです。
(略)
「ここは、よくないね」
 そう教えてくれるのは、わたしのなかにいる、読み手です。
「でもさ、これは手を抜いたわけじゃなくて、やり方がわからなかったんだよ」
 そう教えてくれるのは、わたしのなかにいる、書き手です。
(略)
たんに、つまらない作品なのか、それとも、野心的な冒険をして失敗した作品なのか。
(略)
この判断は、純粋な読み手には、できません。
冒険をした経験のある人間、つまり、書き手がいないと、判断できないのです。


うわ、作者は、あの山に登ろうとしていたんだ。
どんなふうに、登ろうとしたのかな。
どれくらい遠くまで、見えていたのだろう。
どんなルートで、進んでいこうとしたのかな。
(略)
「ここに傷があるぞ」
 わたしのなかの、読み手がおしえてくれます。
「これは、ピッケルの跡だ!」
 なんども現場に行ったことのある、わたしのなかの、書き手が教えてくれます。
 「ああ、ここにピッケルを打ち込んで、あの岩を、越えようとしたんだよ」
 選考委員Aさんのなかの、書き手がおしえてくれます。
 「こんなところに、打ち込んじゃうの? 普通は、反対側から行くんじゃない?」
 選考委員Bさんのなかの、書き手がおしえてくれます。
「いや、この人は、まだ誰もとおったことのないルートで、登りたかったんだよ」
 選考委員Cさんのなかの、書き手がおしえてくれます。
「なるほどね。だけど、失敗して、途中であそこまで、引き返したわけだ」
 わたしたちは、あなたの作品を、ぐんぐん読みといていきます。
 そして、あなたが、書こうとしていたものに、どんどん近づいていきます。


 新人が書こうとしていたもの。
 そのことに、本人が気づいているとは、かぎりません。

「完成度」より「可能性」が評価される

 たしかに、作品の完成度で評価するなら、Bさんのほうが、良さそうです。ところが、じっさいの選考会では、Aさんの圧勝だったりします。選考委員は、新人が冒険した跡や、幻の作品のふくよかさに、高い評価をあたえやすい。そんな癖をもっています。
(略)
 小説という概念を拡張しようとする作品に、選考委員は魅かれます。
(略)
 なぜなら、小説を、縮こまらせたくないからです。小説に、もっと自由であってほしいからです。
 だから、わたしたちは、冒険の跡に、ちょっと甘いのです。
(略)
新人に(小説に)、求められているのは、自由であること、なのです。

選考は、多数決でなく、理解

 選考委員四人のうち、一人が推している応募作Aが、あるとします。
 三人が、わからない、といっています。
 一対三です。多数決でいくと、この時点で、応募作Aは落選するでしょう。
 しかし、新人文学賞の選参会に、多数決の発想はありません。三人は、わかっている一人に、「Aのどこがいいのか、教えて」と、たずねるのです。その一人は、細かく、ていねいに、説明します。すると、三人は、「なるほど、納得しました」とか、「やっぱりわたしは、いいと思わないけど、あなたの説明には、たいへん説得力があった。たしかに、そのとおりなのでしょう」とか、答えるのです。
選考委員が納得するのは、多数決でなく、理解なのです。


 選考委員の全員が、わからなくてどうしようもない、ということは、めったにありません。
 かならず、誰かが、説明してくれます。
 あるいは、はじめは全員がわからなくて、うんうん唸っていると、そのうちに誰かが、「僕がやってみます」と、どうにか説明を試みようとします。
 そうしているうちに、かならず、わかってくるものです。


選考委員は、応募作に食らいついて、なかなか離れようとしません。
とても諦めが悪くて、どこまでもしぶとく、読もう、読もう、とする人たちです。
(略)
 選考委員は、たがいに、わからないものについて、延々と話し合います。予想外の発見があったり、それをきっかけにして、選考委員たちが抱えている問題に、飛び火したりします。誰もがわかる作品よりも、未知の、できそこないの、手に負えない作品のほうが、考えることの役に立つのです。
 そのときには、もはや、作者のことなんか忘れているかもしれません。
 ごめんなさい。
 あなたの作品をきっかけにして、わたしたちは、とんでもないところまで、話を弾ませてしまいます。

「読む他者」と恥ずかしさ

[デビュー作の前に書いた二つの習作、一つ目の600枚を送付した途端、猛烈な恥ずかしさが]
 本当は、書きながら、自分で気づいていたのかもしれません。
 心のどこかで、「つまらない小説を、よく書きつづけているもんだよ」と、思っていたのかもしれない。
 でも、書いているときは、「書く他者」が邪魔をして、「読む他者」を、奥のほうに封じていたのです。そうでなければ、最後まで書けなかったと、いまならわかります。


書きはじめた当初は、わたしのなかに、「読む他者」はいませんでした。
 自分が書いているものを、客観的に読むなんて余裕はありませんでした。「書く他者」だけで、精いっぱいです。
 しかし、書いているうちにやがて、「読む他者」が発生します。でも、まだ、「読む他者」の声を聞く余裕がありません。耳を傾けてしまうと、「書く他者」が手を止めて、場合によっては、寝込んでしまうからです。だから書き終わるまで、「読む他者」を封じて、「書く他者」に、脇目をふらずに突っ走ってもらいました。その半年間、「書く他者」になりきっていたわたしが気づかないところで、「読む他者」は進化していたのです。
 ここでひとつ大事なのは、作品を完成させたことです。
 まがりなりにも小説を完成させたからこそ、その瞬間に、半年もの間、封じられていた「読む他者」が立ちあがって、作品から手を離した瞬間、「とんでもないことをやったぞ」と、わたしに宣告したのです。
 完成して、距離が生まれてはじめて、客観的に見ることができるようになったのです。
(略)
 とりあえず何か産む。そうでなければ、いつまでも、自分の澱にしがみついていることになるでしょう。


まず、書いて、完成させることです。
つぎに、それを読んでみましょう。
そして、恥ずかしい思いをしましょう。
そこからが、スタートです。


ここで、恥ずかしくなかった人は、要注意ですね。
未熟だから、恥ずかしいのではありません。
成然して、完成度の高いものでも、恥ずかしいのです。
傑作ですら、恥ずかしいものなんですよ。

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