近代政治思想の基礎・その2

前回のつづき。

アリストテレスアウグスティヌス

 [再発見された]アリストテレスの道徳・政治理論は当初は支配的であったアウグスティヌス的なキリスト教政治生活観にとって単に相容れないだけでなく脅威的にも見えた。アウグスティヌスは政治社会を、罪の救済策として、堕落した人間に与えられた神の定めし秩序として描いていた。ところがアリストテレスの『政治学』はポリスを、純粋に現世的な目的の達成を意図した、純粋に人間的な創造物として論じている。そのうえ、アウグスティヌスの政治社会観は地上における巡礼の生活は来世の生活の準備にすぎないと考える終末論の補完物にすぎなかった。
(略)
[最初の敵意]に代わって試みられたのは、アリストテレスの自足的な都市生活の理想像とアウグスティヌスキリスト教に特有なより彼岸的な先入観との間に和解をもたらすことであった。その動きはパリ大学で始まり、その問題は教会内の新たな教役者集団によって非常に熱心に討議された。なるほどフランシスコ会土たち、とくにボナヴェントゥラはそのような諸説融合的な傾向にはいっさい反対し続けたが、ライバルのドミニコ会土たちはギリシャ思想とキリスト教思想という一対の土台のうえに建てられる完全な哲学体系の洗練にすぐに専念し始めた。

スコラ主義の理論家たち

彼らが特定する平和にとっての主たる危険は党派抗争の蔓延である。(略)
都市の支配的な会議体の内部で権力が分割されるのを許す危険である。
(略)
マルシーリオはもとより、バルトルスも提案する根本的な解決策は、「支配者」を人民全体とするというものであり、そうすれば原理上、内紛は生じるはずがないというわけである。(略)
彼は単に立法者像を「人民または全体としての市民、ないしそのより有力な部分」と同等視しているばかりではなく、立法者の意志は「市民の全体集会で言葉によって表明され」なければならないともつけ加え、この集会を彼はすべての法律・政治問題を討議する最も権威あるフォーラムとみなしている。
(略)
巨大都市以外の都市における最も適切な支配形態はつねに、「都市の全裁治権が全体としての人民の手中にある」「人民体制」でなければならない、とバルトルスは言う。
(略)
アクィナスは『神学大全』において、正当な政治社会を確立するためには人民の同意が不可欠ではあるけれども、支配者を立てるという行為によっていつも市民はその本来の主権から――単にそれを委譲するというよりはむしろ――疎外されざるをえなくなる、と主張した。しかしマルシーリオもバルトルスもその反対を主張する。マルシーリオは、「全体としての市民」は「みずから直接法律をつくるか、法律づくりをだれかある人ないし人々に委託するかにかかわらず」、常に主権的な立法者であり続けると主張する。これはときには無類のラディカルな人民支配擁護論の表明だと受け取られることもあった。
(略)
[バルトルスは]よりラディカルな見地を明確に支持している。彼は「世俗の事柄では事実上、上位者を認めず、それゆえにそれ自体主権をもつ都市」の擁護論をきわめてはっきりと主張している。このような都市における市民の法的位置は「彼らが自分自身の皇帝となっており」、それゆえ彼らの支配者や執政官の保持するいかなる「裁判権」も「主権者としての人民によって彼らに委託されているにすぎない」とバルトルスは主張するのである。
(略)
 マルシーリオとバルトルスが発展させた人民主権論は初期近代立憲主義の最もラディカルな所説の形成において主要な役割を演じることになった。すでに彼らは、主権が人民とともにあること、そして人民のみがそれを委託しけっして他の者に譲渡しないこと、したがって正当な支配者でありかつ彼自身の臣民によって任命され、また解任されうる役人の地位を超えた高い地位を享受できる者はいないと主張することもやぶさかではない。あと必要なのは、世俗国家では明らかに近代的な人民主権論を言い表わしているこの主張が、都市国家においてはもとより王国の場合にもあてはまることだけであった。この発展はもちろん緩やかではあったが、しかし我々はすでに、それがオッカムに始まり、デイリーとジェルソンの公会議理論において発展し、最後に16世紀になってアルメインとメイアの著作に入り込み、そこから宗教改革の時代およびそれ以後へと通り過ぎていくのを眼の当たりにすることができるのである。

傭兵の反乱

富裕市民のほとんどは伝統的な兵役義務を守ることが次第に困難になっていった。(略)騎兵傭兵隊に対して大きな信頼が寄せられるようになり14世紀半ばには2000人強が共和国と常時契約を結んでいた。しかし時経ずしてフィレンツェ人は、そのような有給の軍隊が自分たちの都市の独立を防衛する手段であると同時に脅威ともなりうることに気づいた。
(略)[給料倍増を拒否された隊長が千人以上の兵を引き上げたり]フィレンツェからミラノ側に寝返って、共和国を実質的に壊滅状態にした。
(略)
 15世紀初頭の人文主義者たちによって提案された解決策は武装した独立の市民という理想――アリストテレスの『政治学』第三巻で推奨されている理想――の再興という形をとった。
(略)
 人文主義者たちはまず自由の概念を伝統的に定着している仕方で定義する。(略)外部の干渉から自由であるという意味と、公共社会の運営に自由かつ積極的にかかわるという意味である。(略)
すべての市民が積極的に統治の仕事にかかわる平等な機会を享受することを可能にする自由な憲法を保持するという考えである。
(略)
市民の価値が測られなければならないのは家系の古さとか富の程度によってではなく、むしろ才能を発展させ、適切な公共精神を身につけ、したがって社会奉仕にそのエネルギーを展開する能力によってである

――150ページほど飛ばして――

時代の不正

政治の健康にとって最も重大な危険は人民が全体としての共同体の善を顧みないとき、彼自身の個人的ないし党派的な利益だけに関心をもつときに生じると主張した。エラスムスは『キリスト者君主』のはじめでこのおなじみの診断を彼らしく明快に説明した。
(略)
君主は「公共社会のために生まれて」いるのであって、「彼自身の気紛れのためではない」ことを認めるのは彼の義務である。彼が確実に「個人的な利得ではなくむしろ国の福祉に気を配る」ようにさせるのは彼に進言するすべての人の義務である。そして「公平と誠実の基本原理」にしたがって、「公共社会の進歩」を促進することが法の根本的な役割である。
(略)
最も有名な告発はモア『ユートピア』の末尾において行なわれている(略)
「どこでもよいのですが、今日繁栄しているような社会をすべて心に思い浮かべ考えめぐらすとき、おお神さまお助けください、公共社会の名と権利を利用して私利をむさぼる金持ちの共謀のようなもの以外の何も見えない」。

シェイクスピア、「上下の別」

すべての北方人文主義者たちは(略)統治は最も偉大な美徳をもつ人たちの手に置かれるべきであることを認め(略)
「秩序」の維持は現存する「上下の区別」を擁護することを必然的に意味すると断言するのである。
[シェイクスピア『トロイラスとクレシダ』冒頭ユリシーズは]
 「天体そのもの、惑星でも、宇宙の中心たるこの地球でも、上下の別、優先順位、位置を守ります」
(略)
王冠や王笏や月桂冠の特権が、これらいっさい、上下の別なくして
どうして正統な地位を保つことができましょうか」
 そして現存のシステムを変えようとする愚かさはそれに劣らず明白であるとされる。
「差別を排し、その弦の調子を狂わせれば、
いっさいめちゃめちゃです」
(略)
これは「エリザベス時代の世界像」をかすかに示すものだなどという印象を与えるのは誤解を招くことになろう。シェイクスピアが書いていた頃には、政治システムのこのような固定的なイメージはすでに16世紀後半のヨーロッパの宗教的急進主義者たちや政治的革命家たちによって破壊的なまでの挑戦を受け始めていた。さらに、シェイクスピア自身の「上下の別」の議論が、古い常套句の単純な言い換えというよりは結果として生じている混乱の反映とみなされるべきであることはほぼ間違いない。

マキアヴェリ再評価

 マキアヴェリ無宗教性に対するこの紛れもなき拒絶は次世代においてスペインの人文主義著作やイエズス会のいくつかの著作にも見いだすことができる。
(略)
 しかし16世紀の政治が荒々しさを増すにつれて、また力と欺瞞の典型的人間が次第に美徳の擁護者たちを踏みつけるにつれて、人文主義者たちですら正義の理想を政治生活の唯一可能な土台とする気高い思い入れを支えることが難しいとわかった。彼らのうちのある者たちは、正義を追い求めることが実際に公共社会を守ることと両立しないとわかった場合、厳格に正しいことよりもむしろ役立つことを行なうほうがもっともなことだと認めだしたのである。
(略)
公共社会の利益を守るために一方では美徳を偽装しつつ「有益な欺瞞」に手を染めることも時には適切かもしれないという紛れもないマキアヴェリ的主張を支持するところまでは、ほんの一歩である。
(略)
ティーブン・ガードナーはまた、君主は「世間から良い人だと思われるようなことをすべて守っているわけにはいかない」、なぜなら、「国を維持するためには、慈悲心や宗教、信仰にさからって行動しなければならないことがしばしばある」からだ、といった趣旨のきわめてマキアヴェリ的な処世訓に同意し――引用もしている。
(略)
 しかし純粋なマキアヴェリ的国家理性論が16世紀に一番確固たる足がかりを得たのはフランスと低地諸国であった。この諸国の政治組織が宗教戦争の衝撃でめちゃめちゃになったので、正義の維持がつねに公共社会の維持に優先されなければならないと主張することはますます現実的ではなくなった。1590年の包囲攻撃中にパリで執筆していたギョーム・デュ・ヴェルは、絶望の時代にあっては、それよりも自己保存を第一の自然法とみなす必要があるかもしれないということを認めざるを得ないと思った。同じように、モンテーニュは(略)「今日わが国民をばらばらに引き裂いている分裂・再分裂」に対する唯一可能な応答は、統治における「善良さ」と同時に「賢慮」の地位を認めることだ、と同意した。
(略)
統治の仕事のうえで「合法的な悪」が演じる不可欠の役割を認めるべきだと完全に確信していた。
(略)
彼は本当は国家理性を悪とみなすのが理にかなっているとは思っていない。「それは悪ではない」、なぜなら、君主が単に「より普遍的で強力な理性のために彼自身の理性を放棄した」だけであり、明白に邪悪な行為が「なされねばならなかった」ことが明らかであったからである。
(略)
偉大な古典学者ユストゥス・リプシウスは(略)
最後にはマキアヴェリの国家理性論とまったく公然と提携する。「狐を相手にしなければならない」君主は、「とりわけ有益な公共の利益」が求めるところであるならば、みずから「狐を演じる」ことを学ぶことはもちろん正当化される、と結論づけるのである。
 したがって、はじめはどんな犠牲を払ってでも正義の命じるところを擁護するよう忠告していた何人かの代表的な人文主義者たちは、リプシウスが好んで「有益な策略」と称していたものをますます用いるようにして自分たちの進言を和らげざるを得ないことに気づいた。彼らは、国家理性論を受け入れるに当たり、単に緊急の窮境という強制的な力を認めているだけだと言って弁解した。そのうえ、窮境そのものがうまくいけば美徳の一つとみなされるため、実はこれは美徳の価値を下げる事例にはならないとみずからに言い聞かせることもあった。

ここまでで第三部。まだまだ終わらないので、しばらく別の本をやって、その後再開。