橋本治対談集 高橋源一郎『短編小説を読もう』

高橋源一郎との対談だけ読んだ。

TALK 橋本治対談集

TALK 橋本治対談集

  • 作者:橋本 治
  • 発売日: 2010/01/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

蝶のゆくえ (集英社文庫)

蝶のゆくえ (集英社文庫)

  • 作者:橋本 治
  • 発売日: 2008/02/20
  • メディア: 文庫

対談『短編小説を読もう』

演劇的な憑依

橋本 『窯変源氏物語』のあと、現代人も書かなきゃと単純に思ったんです。昭和が終わって、みんな寂しくなっているじゃないですか。小説は、登場人物が動かないとどうにもならないんだけれど、その登場人物自体が、ドラマを演じられるような能力を持ってないという状況があった。だから、登場人物のためのワークショップをやろうと思ったの。一人ずつ、この人はこういう人で、この人がもうちょっとどうにかなったらドラマやれるかもしれませんね、とそういうつもりで始めたんです。
(略)
自分では特別なことをやってるつもりは全然なくて、小説ってこういうものだったんじゃないのと思ってるだけなんです。ただ、自分が「こういうもの」と思うところまで到達できるかどうかわからないから、もう書いて、書いて、書いて、書いて、自意識が減っていけば、そこに近づけるだろうとずっとやってきたというだけの話で。
 ただ『蝶のゆくえ』の一作目、「ふらんだーすの犬」を書きはじめたときに、「あ、何か変わったな」と思ったの。それまで一所懸命ガラスペンで細かく書いていたのが、いきなり筆でぐいっと線を引いている感じになった。それだけは変わったと思ったけど、あとは別に何でもない。
(略)
高橋 (略)橋本さんの唯一の欠点は、刀が切れすぎること。何でも切れちゃうでしょう。それは異常なことなんだけど、当人は異常だと思ってないところがまた異常なんですよね。僕の想像なんですけど、橋本さんは小説書くときにリサーチしていないでしょう。
橋本 してない。
高橋 (略)[登場人物が]あらゆるタイプの人間なのに、読んでいると本当に、そうでしかあり得ないような気がしてくるんだよね。これがなぜかと考えると、ひとつは「完璧にリサーチしているから説得力がある」。もうひとつは「当人に憑依できる」。どっちかですよね。
(略)
橋本 憑依というのはあると思います。ただしそれはシャーマニックなものではなくて、演劇的なもの。もともと演劇が好きで、それも昔の演劇だから、舞台の上に人間が出てきたら、それがどういう人かは全部決まってなきゃいけないと思ってるんです。まず舞台になにか情景があって、そこに人物が出てきて、出てきた人物が何か語り始めた瞬間、もうその人は「その人」なわけですよ。小説もそういうふうに書くものだと思っていたから、登場人物がどういう人なのかがわからない限り始まらない。出てきてしゃべっているうちに、どんどんその人は本当になっていく。そうしたらここでひとつ芝居させなきゃ、そういう考え方をするんです。
(略)
当人が問題にしているのは、役がはまっているかどうかだけなんです。だから「金魚」(『蝶のゆくえ』所収)の最後に姑が出てきて一言言うのも、その前の食事のシーンも、ずっとあらすじのように淡々としたリズムだけで進んできて、「どうすりゃいいんだ」と読者が思いはじめた瞬間、ぱたっとドラマが起こるという。ここで芝居をひとつさせなきゃなと思って、その芝居は何だ、食事のシーンだ、という風に瞬間的に出てくるんです。最後でどんでん返しになっちゃうみたいな作品もあるけれど、それもつくろうと思ってつくったわけじゃない。こう来たらこうなるしかないだろうという演劇的な飛躍みたいなもの、それが自分の体の中にあるからだと思う。

目指しているのは文楽太夫

基本的にオレが目指しているのは、人形浄瑠璃文楽太夫なんですよ。人間のドラマが舞台の上で演じられていて、太夫は横ですべてを語っている。語っていることが登場人物に届くわけでもない。太夫は口ではかわいそうだと言いつつ、かわいそうな顔をしているわけでもない。仕方がないんだという形でずっとやっている。小説家ってそういうもんだと思ってるんです。それが近代で一度途切れて違う方向へ行ったけど、オレは文学やってる人じゃないし、人形浄瑠璃の物語があり、歌舞伎があり、それが講談になりという流れは最初からあるわけだから、その流れでもういっぺんというところですね。
(略)
高橋 でも、すごく文学だと思うんだよね(笑)。『蝶のゆくえ』を読んでいて、これが何に似ているかといったら、フローベールの『ボヴァリー夫人』とか『感情教育』、あのすごい冷たくて嫌な感じのフランス近代文学だと思った。でもああいうのは日本には合わないと思ってたんですよ。(略)
橋本 うーん、世界文学全集系の作者ってまず読んでないから(笑)。
(略)
高橋 僕は他人の小説を分解して調べるのが好きなんですよね。どうやってできてるんだ、ここのネジはどんな形をしてるんだ、とか考えるとすごく楽しい。さっき言ったように、お話をつくってキャラクターに当てはめていくとか、キャラクターを自由に動かしてみるとか、小説の作り方にはいろいろあります。でも橋本さんの小説の場合、基本的には理解する、分析するというか、ずけずけと入り込んでいって丸裸にしちゃうでしょう。すると、小説としては普通薄くなるんだよね。ところが、そこに描写がある。一方で人を内側から裸にしておいて、全然関係なく描写があって、有機的なつながりがあるかないかよくわからないまま、バンと放り出されるんです。
橋本 分析的になりすぎると、描写が生まれなくて色気がなくなるからやばいなって意識はあるんですよ。でも分析体質はもうしようがないから、いっそ行ってしまえと。『チャンバラ時代劇講座』を千四百枚書いている途中に、「ああ、小説ってこういうことなんだ」ってわかったの。何でもいいんだって。(略)
分析でもなんでも、述べればいい、語っていくことに芸がありさえすればいいんだって。あと小説っていうのは、つくりこんだディテールそのものを使ってつくりあげていくものなんだって、書いてるうちにわかった。オレ、頭でわかる人じゃなくて、体感で蓄積していってやっとわかるんですよ。
高橋 不思議なのはね、橋本さんって何でも分析する病気でしょう。当然自分も分析してるんだよね。それはやばいことでしょう。でも、自分を分析するときのスルーの仕方がうまくいってるんだよね。
橋本 自分を分析しているんじゃなくて、文章を書いている自分を分析してるだけだから。反省なんかこまめにしてるけど、根本で自分を否定しようなんて気はかけらもないし。役に関する劇評はあるけど、役者の人間性なんか問題にしないもんだし。それと同じ。

情景を頭にメモ

橋本 もともとオレ、日本の小説読まないから。(略)
 十代の終わりというのは字が書けないから絵をかいている、そういう人だったんですよ。だから文章でつかまえるんじゃなくて、まずイメージでつかまえちゃうのね。それで自分のつかまえたものは何なんだろうっていう順番で考えないと、理解できないんですよ。人から見ればそれが分析してるってことなのかもしれないけれども(略)
高橋 当人は分析しているつもりはないわけですね。
橋本 ある意味で。だって作家になっちゃったと思った瞬間、ものの考え方というか見方を変えたんだもん。
高橋 え、どう変えたの?
橋本 絵を描いてるときは、冬になると嬉しいんですよ。なぜかというと木の葉が落ちて、枝の形が丸見えになるから。絵を描くためには解剖学的な知識が必要なので(略)
情景を頭にメモ書きするように覚えてたの。でもこれじゃ小説書けねえじゃんと思って、ぱっと見たとき「この木はこういうふうに枝が出てる」じゃなくて、「この木を見てどう思うか」って考えるようにすればいいんだろうと。そこで解剖学から新派の芝居に変わった(笑)。
(略)
[通信教育で]アメリカのイラストレーターはいろいろ描けなきゃいけないっていう前提を教わったの。(略)まずいろんなものを描くために資料を集めましょうと始まるんです。写真やなんかを切り抜いて(略)全部スクラップしましょうという御教えがあって、もう片っ端からやってた。(略)
頭の中にストックされていくのね。そうすると、小説で何か書こうとするときは、まず畳がどうで着物がこうで柱がどうで、障子の桟が何本でとかっていう考え方するじゃないですか。
高橋 しないです、普通は(笑)。
橋本 絵を描く人はするんです。でも絵を描かなくなって、そのことから自由になっちゃったんですよ。イメージすることがとっても楽になったの、描かなくて済むから。そういう意味で、ぱっと出てくるんです。
(略)
高橋 ところで、橋本さん、何で小説書きたいの(笑)。
橋本 それがわかんないのよ。オレ小説家になる以前に小説家になりたいと思ったことないんだもん。
高橋 ねえ。でも小説は書きたいんだ。
橋本 もしかしたらすごく前近代的な職人のモラルに近いものがあるのかもしれないけど。本当は芝居をやりたかったんですよ。でも脚本書いたからって別にどうなるわけでもないから、じゃあ小説家になっちゃえばいいんじゃんと思ったんだけど、なった瞬間、あ、これはこれで大変なものだって気がついた。そうすると、なっちゃった以上ちゃんとしたものにならないと恥かしいからなって、それが一番大きいかな。そうすると、日本の小説は十八世紀の人形浄瑠璃で一つの完成はあったけど、そのあとはないかもしれないっていうめちゃくちゃな立場を取るんだけど、そんな考え方、誰もしない。
高橋 しないよね。
橋本 じゃあ自分でやっていくしかないなって。
(略)
ずっと以前にも言ったと思うんだけど、私は別に新しいことをやってなくて、昔から自然主義でそのままなんだって(笑)。自然主義が自分のことしか書くことがなくなってしまったっていうことの方が問題であって、その目をもっと外に向けてあげれば、バルザックやゾラみたいになれるのに、何で日本はそっち行かないんだろうみたいな。

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