人権はナンセンスか否か『権力への懐疑』

権力への懐疑―憲法学のメタ理論 (現代憲法理論叢書)

権力への懐疑―憲法学のメタ理論 (現代憲法理論叢書)

 

人権は「おおげさなナンセンス」か否か?

ベンサムフランス革命の開始当初はこれを熱烈に支持し、種々の立法案を国民議会に提供して、その功績により1792年にはフランス共和国名誉市民の称号を贈られている。恐怖政治の展開が彼の態度の変化に影響したことは疑いがないが、人権あるいは自然権という考え方への批判については、最初の著作であるA Fragment on Government以来終始一貫している。
 ベンサムによれば、自然権という観念は「おおげさなナンセンス」に過ぎない。あらゆる権利は実定法によって創設されるものであり、権利は「法の子供」である。自然権はしたがって親のない子供であり、冷たい熱や乾いた湿気と同様、概念矛盾である。
(略)
彼によれば、人権宣言に何らかの意味を読み取ろうとすると、誰も支持しえない全く誤った結論にいたる。言い換えれば、各人の具体的権利は全く不明である。その結果、人権宣言はあらゆる政府の転覆を唱導するきわめて有害な文書となっている。
(略)
人権宣言2条は不可譲の自由権をうたっているが、あらゆる権利は誰かの自由を制約し義務づける法によって創設されるものである以上、あらゆる法はこの条文に反して無効となる。また、所有権を無制限に保障する同条の文言を額面通りに受け取ると、あらゆる人があらゆる物に権利を持つことになるが、これは結局、所有権の保障ではなく、その廃棄を意味するはずである。
 そして、人権宣言は、その2条からもわかる通り、反乱を煽動する文書である。所有者の同意なく政府が収用を行おうとする場合、政府が法律で行動の自由を制約しようとする場合、この宣言は反乱を勧め、その権利をうたっている。革命から生まれた政府がその正当化を試みた結果、アナーキズムの種をまきちらし、あらゆる政府にたいする反乱を正当化するに至ったわけである。ベンサムの考えでは、良き市民は「忠実に法に従い、かつ自由に法を批判すべき」である。
(略)
法が社会活動の明確な枠組みを与えれば、市民は自分の利益を最もよく心得ているはずであるから、与えられた枠組みにそって他人や政府の行動を予測した上で、自己の利益を最大化する行動を計画できるはずである。その結果、社会全体の利益も最大化することになる。(略)
このようにベンサムは、人々の期待あるいは安全の保障を重視したが、それは権利の保障自体が重要だからではなく、期待と安全の保障が社会の福祉の最大化につながるからである。
 したがって、ベンサムにとっては人々の権利・義務を判定法によって明確に公示することが肝要であり、その故に、イングランド本国では判例法の伝統を裁判官の作り出す事後法として批判し、またフランスおよびアメリカの人権言言をおおげさなナンセンスときめつけたわけである。
(略)
 ベンサムの人権言言批判は、その抽象性と普遍的妥当性要求にも及んでいる。人権宣言はあらゆる人の権利を宣言している。つまり、フランス国民議会はイングランド人にたいしてこう言っていることになる。「聞け、対岸の市民たちよ!汝らは、おのれの権利の何たるかを知っているか? 否、我らこそ、我らのみでなく、汝らの権利をも理解している。汝らあわれで愚かな魂は、何もわかってはいないのだ!」。
 功利主義者であり、したがって帰結主義者でもあるベンサムにとって、自由・平等という抽象的原理を、個別の対象へあてはめた結果を考慮せず、普遍的な原理として宣言することは認め難い。(略)人権という観念は、その具体的適用の帰結を考慮しない。それは「最初から最後まで、何の理由も伴わない単なる断定である」。この点に関するベンサムの批判は、したがって、各国、各社会毎の固有の文化および伝統を尊重すべきことを説くバークの議論とは、部分的には重なり合いながらも、根本の論拠においては異なっている。

ベンサムにとって、法の任務は社会生活を可能にする個人の行動の枠組みを、権利・義務の分配によって形成することにあった。言い換えれば、法の目的は、社会生活の障害となる調整問題状況を解決することにある。この点において、ベンサムは、先行するヒュームの問題意識を受け継いでいた。(略)
車が道の右を通るか左を通るかは、問題ではない。むしろ、どちらかに決まっていること自体が重要である。(略)大部分の人が左を通ると分かっているならば、その選択に従うことがすべての利用者の最善の利益に適うはずである。
(略)
 法の任務が以下のような調整問題状況の解決にあるとすれば、法と人権との相剋という問題設定自体が不適切となろう。人には、生まれながらの不可譲の権利などなく、あるのは多様な選択肢の中から、当該社会が選んだルール、つまり実定法にもとづく権利があるのみである。そのルールに従うことで、はじめて社会生活を営むことが可能となる。法への反抗は社会生活の拒否を意味する。
(略)
 以上のような議論には説得力がある。(略)しかしながら、法が解決すべき任務は、はたして特定の権利・義務の体系を創設し、人々に社会的協働の指針を与えることに限られるであろうか。(略)
 おそらく、法は、それに従うことが個々のメンバーの最善の利益に反する場合においても服従を要求するはずである。そして、ホッブズ、ロック以来の社会契約論の伝統は、むしろ個々のメンバーの利益と社会全体の利益とが相剋する場合を、政府の主たる活動領域とみなしてきた。現代の厚生経済学の想定する政府の任務も同様である。
(略)
人権宣言の系譜に属する現代の権利論が指摘するのは、功利主義が全体の利益を名目として、個々のメンバーの核心的利益の侵害をも正当化する危険である。我々の社会には、功利主義的計算によって処理すべきでない価値や利益があるように見える。
 しばしば引かれる極端な例で言えば、病院の前をたまたま通りかかった人を捕まえてその身体を解体し、移植の必要な患者にそれぞれ臓器を分け与えれば、一人の犠牲で多くの生命が救われることになる。集計主義的功利主義はこのような手術を正当化することにならないだろうか。もちろん、功利主義者は、このような手術が実際に行われれば、明日は我が身かという恐怖から人々に深刻な不安を引き起こし、結局、社会全体の効用は低下すると主張しうるであろうが、結論はともかく、この理由づけは重大な点を見落としているように思われる。そして、生命・身体の安全という最低限の利益に限らず、人が人として、つまり自分の生き方を自ら構想し、選択する存在として生き抜いていくためには、それに必要な基本的な権利と自由は、功利主義的計算によってはその侵害が正当化されえない権利として保障されるべきであろう。レイプが禁止されねばならないのは、レイピストの得る快楽の総計よりも被害者の苦痛の総計の方が多いからという理由によるのではないはずである。
 以上のような権利論の主張にたいするベンサムからの反論として予想されるのは、何がそのような基本的権利なのか、判断の基準が不明であること、そして、複数の基本的権利が衝突した場合に、それを解決する基準がないことであろう。

ロールズの議論に対する疑問

何が基本的権利であるかを決める手続としては、ロールズの議論が権利論の中で支持を集めてきた。
(略)
 口ールズの議論にたいするもっとも重大な疑問の一つは共同体論から提起されている。つまり、ロールズは、無知のヴェイルによって覆われた始原状態を設定する際に、西欧ブルジョワリベラリズムの伝統に沿う個人主義的帰結が導かれるよう、社会を設立しようとする個人の情報や性向を操作しているとの批判である。(略)
ロールズが結論として掲げるような表現の自由、思想・信条の自由、あるいは生命・身体の自由でさえも、社会によってはせいぜい副次的価値しか与えられないかもしれない。
(略)
 人はその属する共同体によってはじめて人生の意味や価値を与えられるものであり、共同体と独立に個人が抽象的に自分の人生の意味を決められるわけではない。したがって、共同体の価値秩序と対立し、それを覆すような個人の人権を認める余地はない。(略)
このような議論が念頭に置く共同体のモデルは、自然の情愛によって結ばれている理想的な家庭である。
(略)
[それに対する疑問は]
家庭においてさえ、メンバーは、いざというときに依拠しうる権利を認められるべきではないか。人の情愛は儚いものである。権利・義務の観念を抹消しさえすれば、家庭の崩壊を防げるわけではない。まして、家庭的な情愛など期待できない社会大の共同体においては、基本的権利の保障がない限り、共同体への真剣なコミットメントを期待することは困難である。
 さらに、仮にそのような共同体としての道徳秩序が存在するとしても、なぜそれに従わねばならないのだろうか。現存する道徳秩序に従えという考え方は実践上の法実証主義にほかならない。そして、権利論のように、国家や社会の現存の価値秩序を、一歩離れた観点から再検討し、批判し、組み換えることができるという立場が、それを不可能とする立場より浅薄だと考えるべき理由はないように思われる。このように考えていくならば、功利主義と同様、共同体論の射程も、人権の観念によって限定されなければならないであろう。

国家の中立性

まず、不思議に思われるのは、なぜドゥオーキンが平等という観念にこだわるのかである。ポルノを読む自由が規制されたとき、なぜそれを平等権の侵害として解釈する必要があるのだろうか。むしろ、端的に個人にはそれぞれが理想とするところに従って生きる権利があるとし、それを基礎とする方がすっきりするであろう。彼の議論からすると、ナチス・ドイツの統治下のように、道徳的な自律性も全員が平等に侵害されるのであれば構わないかのようである。「平等な配慮と尊重への権利」についてドゥオーキンが語るとき、彼が実際に念頭においているのは、むしろ「配慮と尊重への権利」にほかならないように見える。
(略)
ノージックロールズにも共通する問題であるが、彼らは、正しい社会秩序のありかたは何かという、いわゆる「正義」の問題と、個人の望ましい生き方は何かという、いわゆる「善」の問題とを区別し、相対立するさまざまな善に観念にたいして国家は中立的であるべきで、いずれか特定の善の観念を促進したり抑圧したりするのは正義に反するとしているかに見える。つまり、いわゆる中立性の原理が前提とされているようである。
しかしながら、このように、正義については少なくともその一側面については正しい答えを出しうるのに、なぜ善については各個人に選択を委ねる必要があるのかという問題が生じうる。これにたいしては、二通りの答え方が考えられよう。
 一つは、善い生き方が何かをもっともよく判断しうるのは、その人自身であるという答え方である。各個人の善を社会的に決定しようとすれば、膨大な情報の収集と処理のコストがかかる。それぞれの選択に任せるのが、社会的に見ても最適であるとの考え方である。しかしながら、このような考え方からすれば、理想的な生き方が何か、あるいは何か理想的でないかは、すでに分かっているという根拠にもとづいて国家が行動する場合には、それを妨げる理由は無いことになる。
 いま一つの考え方は、自分の生き方は自分で判断するということ自体が、実は、個人の道徳あるいは善に開する正しい観念であるとの答え方である。このような解釈は、国家の中立性原理と矛盾するという批判があるかも知れない。つまり、自分の生き方は自分で決めるということ自体が道徳的に正しいという考え方は、それ自体、善に関する特定の観念であり、したがってこの観念にもとづいて国家が行動することは、特定の善の観念を促進していることになるように見える。しかしながら、この批判は、善の観念と善に関する観念との混同の上に成り立っており、支持しがたい。この議論の仕方に従うならば、政教分離原則の執行自体が宗教に関する特定の観念を促進するがゆえに、政教分離原則に反することとなろう。
 そして、このような第二の解釈が許されるならば、以下のような帰結が導かれるであろう。つまり、H・L・A・ハートやJ・S・ミルのように、刑罰による道徳の強制は許されないとの立場からのみでなく、刑罰の本来の任務は道徳の強制にあるとの立場からしても、その道徳の基礎が自律的存在としての個人の尊重にあると考えるならば、やはりポルノの規制や堕胎の禁止を、それが個人の望ましい生き方に反するという理由で刑罰によって強行することは許されないことになる。それが許されるのは、行為者に道徳的判断をなしうる能力がなく、少なくとも、長期的に見れば、行為者自身の自律性を損なうような行為がなされるおそれが強い場合に限られよう。

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