ムーミンの生みの親、トーベ・ヤンソン評伝

ムーミン以外のカラー図版も豊富。

ムーミンの生みの親、トーベ・ヤンソン

ムーミンの生みの親、トーベ・ヤンソン

 

父ヴィクトル

 トーベにとって、芸術家として最も大きな存在であり、最初の手本になったのは、父ヴィクトルだった。幼いトーベは、芸術がいかに偉大で真剣なものかを父から学んだ。父と娘は互いに愛情と憎しみの入り交じった複雑な感情を抱いていたので、ときに衝突し、険悪なムードになることもあった。それでも、娘は父の望みどおりに芸術家の道を歩んだ。父は、娘のすべてを理解することはできないと感じながらも、彼女を誇りに思っていた。
(略)
 才能豊かな彫刻家としてキャリアのスタートを切ったヴィクトルだったが、残念ながら、時代を代表するような芸術家にはなれなかった。強い野心をもつ彼にとっては屈辱だったに違いない。(略)
[妻の稼ぎ、裕福な妻の実家が生活の頼りだった]
[生活のため戦争の英雄像や墓地のモニュメントを制作]
ふだん制作していたのは、やわらかい線をしたエロティックな女性像か、子どもをモデルにした繊細な作品
(略)
[トーベによると]ヴィクトルは<女>が好きではなかったという。(略)彫像になって初めて、女性は女性になると考えていた。彼の世界に存在する「生きた女性」は、妻と娘だけだった。(略)
[幼い頃から父のモデルになり、ヌードになったこともあった](略)
ふたりは、社会や政治についての考え方が正反対だったので、理解しあえなかったのだ。母親はよく子どもたちに対して、お父さんは戦争でどこかが壊れて、心に治せないヒビが入ってしまったのよ、と説明した。かつては、子どもたちとよく遊び、明るくて剽軽な父親だったヴィクトルは、戦争のせいで、怒りっぽく何に対しても厳しい人間に変わってしまった。
(略)
過去にとらわれ、ともに戦った仲間たちと何度も戦争について語りあった。暗い過去のトラウマをごまかすために、男たちは、妻を家に置き去りにして夜の街に集う。(略)
こうしてトーベは、小さな頃から、芸術界と芸術家のあり方、戦争、男性の攻撃性といったものを感じ取っていた。小説の中でも、男同士の友情についての鋭い意見を記している。「男たちはパーティーをする。彼らは仲間どうしだから、ぜったいに相手を見すてたりはしない。仲間というものは、どんなにひどいことを言いあっても、つぎの日にはわすれている。ひどいことを言った相手をゆるすというのではない。たんにわすれてしまうだけだ。女たちはゆるすけれども、わすれることはぜったいにない。そういうものなのだ。だから女たちはパーティーをしないほうがいい。だいいち、ゆるされるなんて考えただけでぞっとする」
(略)
[戦争の英雄で愛国者のヴィクトルは]ドイツがフィンランドを解放してくれると信じ、ユダヤ人を嫌悪していた。トーベは、父親が反ユダヤ主義であることに深く傷ついていた。
(略)
 ヤンソン家では、常に芸術作品が生み出されていた。トーベは、石膏袋や、制作途中の塑像、ブロンズが流し込まれる前の石膏型などに囲まれて育った。母親がテーブルの隅で、切手、本の表紙、挿絵のための絵を描いているというのも、馴染みの光景だった。いつも何かが制作されているこの家では、仕事と生活の境目がなかった。
(略)
[トーベにとって母は生涯において最愛の人だった。母の膝で絵を描くことを覚え、母の絵から大きな影響を受けた。母娘の強い結びつきはトーベの短編からも。大雪の日]
母とふたりきりで閉じ込められた少女の心は、安心感と喜びで満たされる。誰も中に入って来られず、外にも出られない。少女は「ママ、大好き。ママ、大好きよ!」と叫び、笑いながらクッションを母親に投げつけ、誰も雪かきなんかしませんように、と願う。世界から隔離されたふたりは、冬眠中のクマのように安全だ。
(略)
トーベ自身、この物語は事実をもとにしていると語っている。ただし、そのときトーベはすでに30歳になっていて、閉じ込められていた一週間は、母もトーベもそれぞれ絵を描いていたという。
(略)
“ハム”ことシグネ・ハンマルステン=ヤンソンは、スウェーデン生まれで、父親は王室付きの牧師だった。スウェーデン芸術大学で芸術を学び、その後、勉強を続けるために訪れたパリでヴィクトルと出会った。
(略)
トーベも幼い頃には、夏になるとストックホルム近くのブリドの多島海域を訪れ、祖父母や叔父と過ごした。海に囲まれ、緑豊かで穏やかなブリドの景色は、ムーミン谷の原形ともいわれている。また、スウェーデン留学中には叔父の部屋に厄介になった。スウェーデンの親戚はみな裕福で、とても温かかった。
(略)
親戚はさまざまな形でヤンソン家を援助し、食料、画材、建築資材などを送ってくれた。(略)ハムは[戦争と貧困が続く]フィンランドで、ツァーリズム支配、第一次世界大戦、そして内戦まで経験した。
(略)
ハムは、一家の稼ぎ頭だった。1924年からフィンランド銀行の紙幣の絵を担当した彼女は、フィンランドで初めての切手デザイナーとしても知られている。(略)[ガルム誌]には、1923年の創刊号から1953年まで、欠かさず挿絵を提供しつづけた。(略)1930年代後半からは、トーベがこの雑誌のビジュアルの方向性を決めるようになった。母のときと同じで雑誌の仕事はトーベに少ないながらも定期的な報酬を約束してくれた。
(略)
[1938年]パリ滞在中で最も幸せだったのは、父ヴィクトルとともに過ごした時間だろう。ヴィクトルも娘に続き、助成金をもらってパリヘとやって来たのだ。ヴィクトルとトーベは、かつてヴィクトルが妻とそうしたように、パリの通りを歩き回った。ふたりは、争うことなく楽しい時間を過ごし、互いへの理解を深めた。気持ちの結びつきも、それまでよりもはるかに深まったようだ。このときのことは、トーベが大人になってからの父との思い出の中で、最も楽しいものとして、長く記憶に残ることになる。
(略)
[冬戦争勃発の年、イタリア訪問、44年に噴火するヴェスヴィオス火山は]
トーベが訪れた時点ですでに、火と灰の匂いのする生き物のような雰囲気をかもし出していた。このときの記憶は、ムーミンシリーズニ作目の『ムーミン谷の彗星』の原形になる。この作品の中で、トーベは、自分が体験した火の匂いのする世界を、できるだけ忠実に再現しようとした。

アートス・ヴィルタネン

1936年に国会議員となった左翼政治家、文学界でも知られ、詩集、エッセイ集、レーニン評伝など著作多数。

アートスはセンチメンタリズムを嫌い、トーベが求めるような甘い言葉や、気持ちが伝わるような言葉は言いたがらなかった。アートスは、愛しているどころか、好きだということすら口にしないのだ。
(略)
 ふたりの関係が複雑になった要因のひとつには、トーベが二重生活を送っていたこともある。この頃のトーベには、肉体関係をもつ他の男がいた。トーベが“海の画家”と呼んだその男との関係は、タプサとの恋が終わったあとに始まり、ヘルシンキが激しい爆撃を受けた時期――この男が疲弊し、腹を空かせ、ひどい状態で前線から帰ってきた頃に燃え上がった。二人が結びつくきっかけは、絵画だった。この頃、トーベはすでにプロの画家として活動していたが、男はまだ芸術の道を歩みはじめたばかりだった。(略)
やがてどちらかを選ばざるをえなくなり、トーベはアートスにもう一人の男の存在を告白した。その結果、アートスの自分への気持ちがいつわりではないという証拠を得たと感じたという。(略)「……非哲学的で野蛮になり、嫉妬をみせたの。二、三日の間、私は彼を失ってしまったと思っていたわ。でもその後、彼と私はそれまで以上に近づいた。変ね、でもやっぱり嬉しい」
(略)
 トーベは、アートスと過ごした年月の中で、最初の五冊のムーミン物語を書き上げ、その挿絵も描いた。また、1947年にはアートスのアイデアで、彼が編集長を務めるヌゥ・ティド誌に最初のムーミン漫画も寄せている。
(略)
ふたりの恋愛関係が終わってからも、アートスはムーミン漫画の海外展開の可能性についての調査を行っている。
(略)
「アートスは私を結婚したい女に変えてしまった。でも、アトリエだけは譲れない」。
[1945年一番の親友の写真家エヴァ・コニコフへの手紙]
エヴァ、たった今、世界に平和が来たわ!!!」

ヴィヴェカ・バンドレルへの愛

[46年エヴァへの手紙で]
私はアートスの妻のつもりでいたし、これからもそう思いながら生きていくと思う。でも今、私には本当に愛している人がいる。その人は女性よ。まったく違和感はないし、本当の気持ちだと感じられる。(略)
ヴィヴェカと話していると、自分の中の素敵な部分を再発見できる気がする……わかる? 誰かを愛しているとき、自分が女性だと実感するのは初めてよ……彼女になら、恥ずかしがらずにすべてを打ち明けることができる。(略)
私は完全なレズビアンではないと思う。ヴィヴェカ以外の女性を好きになるなんて考えられないし、男性に対しても今までと変わらない。いいえ、男性との関係は、前よりもよくなっている。
(略)
同じ時期に、トーベは三冊目のムーミン物語『たのしいムーミン一家』を書き始めている。ヴィヴェカヘの愛は、この作品にふたりの新たな登場人物をもたらした。トフスランとヴィフスランである。彼らとともに、モランも現れた。トフスランのモデルはトーベ自身、ヴィフスランはヴィヴェカである。トーベはときおり、作品にサインする際も、自分の名前と並べてトフスランと書くようになった。ヴィヴェカに宛てた手紙では、彼女をヴィフスランと呼ぶこともあった。物語の中でふたりは、他の人にはわからない自分たちだけの言葉で話をする。実生活においても、トーベとヴィヴェカが禁じられた恋愛について語るときには、示しあわせた暗号を使わなければならなかった。
 トーベは隠しごとを嫌い、サムやマヤ、スヴェン・グロンヴァルなど仲のいい友人にだけはヴィヴェカのことを話した。しかし彼らの反応はいずれも否定的で、トーベは落胆することになる。友人たちと、この新しい幸せを分かちあうことはできなかったのだ。母ハムには、ヴィヴェカのことが大好きだと伝えるに留めた。
(略)
 当時、同性愛は犯罪で、病気だとされ、宗教上の重罪のひとつでもあった。トーベとヴィヴェカは世間にばれないよう、常に行動に注意していなければならなかった。ヴィヴェカが特に気にしていたのは、夫クルト・バンドレルのことだ。彼女は、どうにかして夫には関係を隠し通そうとした。トーベも、アートスには新しい恋について話していなかった。
(略)
ヴィヴェカは、夫の友人たちが自分のことを、女を追い回し、男女問わず誰とでも寝る豚だと罵っているのを知り、ひどく落ち込んだ。
(略)
問題は環境だけではなかった。スウェーデンデンマーク、パリという長い旅を終えたヴィヴェカは、パリとフィンランドにトーベ以外の恋人を見つけていたのである。トーベは、そんなヴィヴェカにも理解があるところを見せたが、実際は苦しんでいた。その一方でトーベも、相変わらずアートスとの関係を続けていた。
(略)
恋が終わってからも、ふたりは生涯を通じて仲のいい友人でありつづけた。ヴィヴェカは、「孤独、不安定さ、隠しようのない恐怖が、友情の強固な土台になった……」と語っている。
(略)
おそらく、ヴィヴェカを憎んだり嫌ったりするのを避けるために別れることになったのだろう。(略)
トーベは、ヴィヴェカの女性関係をなんとか理解しようと、ヴィヴェカの新しい恋人たちと友人になることまでした。
(略)
その後、トーベは心の安らぎを求めたのか、いったんは別れようとしたアートスに対して求婚した。(略)[彼が同意すれば]残りの人生を完全に異性愛者として生きるつもりだった。(略)
アートスは、おどけたふりをして言った。「僕たちはもう結婚しているんじゃなかったのかい?(略)
[だが彼は選挙運動の忙しさを理由に出生証明書を取り寄せず、結婚は実現しなかった]

次回は、いよいよ、ムーミンの世界へ。