カシオvsヤマハ戦争:僕にも弾けた

前回のつづき。

電子楽器産業論

電子楽器産業論

 

電気量販流通開拓

401の商品コンセプトが、電子オルガン顧客層を狙ったものであった[ため、ヤマハの締め付けがさらに強化された。が、当時電器業界(特に量販店)は「オーディオ不況」で、挽回商材として電子キーボードに注目](略)双方の利害が一致して楽器の売り揚が次々と拡大していった。オーディオ売り場だけに、アンプに繋いでのデモンストレーション演奏などは集客方法としても効果的であった(略)
[楽器を買う意思のある客が来る楽器専門店とちがい、電器量販店は通りすがりの客も多く]電子楽器や自然楽器に、ついぞ縁のなかった人との「出会い」が格段に増えた。(略)
カシオからすれば、電気流通は自前の流通(略)ヤマハからの楽器専門店からの締め出しで、しかたなく他の流通を探さざるを得なくなり、電気量販流通の門をくぐったのである。(略)カシオは「楽器販売は、楽器や音楽文化についての深い知識や経験が」必須と思っていたから「衝動買い」で、楽器がこれほど売れるものとは思ってもみなかった。流通のマルチ化(多層化)はカシオの得意とするところである。(略)[当初は]楽器という「専門品」だけに専門流通でなければ売れないもの………と楽器専門流通にこだわっていた(略)のが、専門流通締出しで、今まで絞っていた流通秩序遵守の手綱を一気にゆるめ、逆にマルチ流通化に拍車をかけた。それまでカシオらしくない「流通限定」営業戦略を強いられてとまどい気味の営業マンは水を得た魚のように流通開拓に走り出した。
(略)
[時代の趨勢は秋葉原「電気街」から全国展開する郊外型量販店に移行しつつあり]
これは、カシオの電子楽器販売にとっても大きな力になった。福岡の「ベスト電気」など当時すでに九州全域で三百店舗を超えていたから、本店のバイヤーとの折衝で一気に店頭拡大ができる。ベスト電気の店頭に展示すれば、商圏の隣接する北九州あたりでは、広島のダイイチも展示を始める……、こんな現象が日本各地で起きたから、それはどの苦労なく楽器店頭化が急速に拡大されていった。さらにダイエーやイトーヨーカ堂などが、大店舗化を図るなかで、取扱い商品の枠を大幅に広げ(略)集客のツールとして楽器デモンストレーションがイベントとして組まれ、電子楽器の流通は一気に拡大した。商品のラインアップを広げ、価格もこなれてくれば、カシオにとっては専門流通もヤマハの締めつけも関係がなくなった。

ヤマハの逆襲

[9月の401に続き、年末商戦へ向けた新製品「ミニキーボード」]の発表資料を持って記者クラブに出向いた広報担当からの電話で、カシオの楽器スタッフのオフィスが大騒ぎとなった。
 記者クラブには、ひとあし早くヤマハの広報担当が楽器の新製品の発表資料を配っていた。しかもそれはカシオが発表しようとしたものと同じ「ミニキーボード」の新製品であった。ポータサウンドというネーミングの三機種で(略)[機能も同程度]価格もカシオの新製品の価格を充分承知しているかのような、カシオの発売価格の下をかいくぐる「値づけ」であった。(略)
発表したとたんに「負け」になると事態を判断した営業スタッフは、連絡をしてきた広報担当に記者クラブでの資料配布中止の指示をし、急遽ヤマハの価格を意識した、さらに下をかいくぐる価格案を考え価格決定権を握っている役員の裁断を仰いだ。(略)カシオが電卓や時計で何度も経験してきた世界である。その結果つくり直した資料を、ようやく帰りついた広報担当にもたせて、記者クラブヘとんぼがえりをさせた。その時点ではもう、印刷業者はカタログの刷り直しにかかっている。刷りあがったカタログを、その翌日には主要な営業所にハンドキャリーで届け、販売活動に間にあわせた。
 すでに各営業所に届けられていた、当初予定価格のカタログの初版分である十万部は、ただの一部も陽の目をみないうちに焼却処分をされた。ぬき打ちのヤマハの仕掛けにカシオもびっくりしたが、事前情報と違うカシオの発表内容に、さぞかしヤマハもびっくりしたことであろう。
[どちらのカタログも、リヴィングルームで電子オルガンを囲む家族、という定番パターンから、ジーンズ・スニーカーの若者が屋外で仲間と……という新しいライフスタイルをイメージしたものに]
(略)
[今度はヤマハが]カシオを追いかけて電器量販店やスーパーの電器売り場にまでなだれ込んできた(略)
[すると]楽器メーカーのカワイ、スズキ、電子楽器メーカーの松下電器、コロンビア、ビクター、ブラザー、ローランド、コルグ、それに赤井電器、ファーストマン、そしてメトロノームでわずかに楽器と接点をもっていた時計のセイコーまでが、電子キーボードに参入してきた。当然、その競争のなかで、「楽器」が通常の電子機器同様に、ライフサイクルの短命化、極限を知らない価格競争商品になっていく。

「メロディーガイド」機能で需要創造

[スイッチを入れれば使える電気製品と違い、楽器は弾けるようになる鍛錬が必要]
 カシオの楽器販売にとっての「悩み」はそこにあった。「弾く技術」を保有すること、「弾きたい欲求」をもっていることが前提の需要であるから、一気に数百万台ペースの供給をおこなえば、当然のこととしてその需要には限界がある。
(略)
事業の継続のためには需要創造が絶対条件であった。ひとつには「音楽場面」の拡大、それが鍵盤のサイズを小さくしてポータビリティをもたせ、構えた姿勢で音楽と対峙するのではなく、気楽に接することの実現、あわせて価格のこなれをよくして需要の裾野を拡大することで「ミニキーボード」の開発、発売ということになった。
(略)
なんとか楽器の需要層を拡大できないか、特に「演奏技術」のない人に楽器の購買意欲をもたせられないかとカシオは考えた。(略)
[81年11月、「メロディーガイド」機能搭載「CT-701」発売]
まさに、みる人がみれば珍なる楽器、音楽を奏でるというよりも、ランプを追いかけての電子版「もぐら叩き」ともいうべき楽器(ゲーム機?)であった。(略)
当時、単体の「シーケンサー」はあったが、それを搭載した楽器は世に出ていなかった。(略)
[楽譜の記録媒体に磁気テープ等を使うのはコスト高になるので]当時まだ珍しかった「バーコード」を使った「楽譜」である。楽譜の情報を「音階」、「音長」、「和音」、「自動伴奏」、「音色指定」、「リズム指定」などごとにバーコード情報に変換し、これを「紙」に印刷する。(略)それをなぞり、楽譜情報を電子楽器内のメモリーに記憶させる。(略)新譜だとか自分の作曲したものなどは、前述したのと同じように楽譜情報を分解して、鍵盤、また指定キーから入力もできるようになっていた。
[スタートボタンで楽譜を「自動演奏」や、ワンキープレイ・キーをリズムに乗ってモールス信号のように叩くとメロディーが弾ける「ワンキープレイ」も可能]
(略)
[その半年後、ヤマハも「メロディーガイド」機能搭載ポータサウンドPC-100を発売。僕にも弾けたw。「磁気テープ」がプリントされた楽譜を読み込み、運指が間に合わないと「待ってくれる」機能付。しかもカシオ701の半値近い7万8千円。カシオは価格よりも、教室運営等で需要創造してきたヤマハが「自己否定」ともいえる「器楽教育破壊」機能で追撃してきたことにショックを受けた。]
カシオもすぐ二ヵ月後にミニ鍵盤でメロディーガイドつきのものを対抗商品として発売した。今度は5万9千円である。さらにその一ヵ月後、標準鍵盤(49鍵)でメロディーガイド機能つきを9万8千円の「CT−501」を発売。その結果新製品701はたった半年で消えることになった。こうなるとヤマハとカシオの「どろ沼戦争」の様相である。(略)ヤマハがさらに半分の価格3万円台のものを発売。(略)
[84年2月カシオがミニミニ鍵盤ROM記憶媒体「PT−80」を16300円で発売して、機能を含む価格戦争は一応幕となった。(略)
基本機能は進化したにもかかわらず、たった実質二年間で14万8千円から16300円と、ほぼ十分の一の価格になってしまった。


Casio Synthesizer - Casiotone 701
僕にも弾けた

198X ヤマハ マイバンド

電子化が露にした問題

バーコード楽譜制作にとりかかった(略)[カシオの]入力担当者がテスト版の出力(自動演奏)をして驚いた。自分がたしかに入力したはずの「その曲」に聞こえないのである。入力情報に間違いがあるかと思い、何度も単位情報をチェックしたが間違いはない。(略)
 「音楽」というものが楽譜を完全忠実に再現したものではない、という理由がわかるまで、そうは時間がかからなかったものの、それまでに入力作業に費やした時間は完全に無駄になった。
(略)
[バッハの「G線上のアリア」]冒頭の二小節の、音程の変わらない全音符の部分は、まさにこの泣きどころにハマってしまう。電子でつくられた「音色」は、良くも悪くもまったく均一である。パイプオルガンならば、演奏者が送り込む空気量の微妙な変化が、二小節の同音階の「長さ」に表情を与えるし、ヴァイオリンならばその長さのなかで弦を摺る弓の位置や強弱、あるかないかのビブラートなどが表情の変化を卓抜にさせる。これが楽譜どおりの「音階」、「音長」、しかも絶対ブレない、均一の「音色」、特に電子的につくられたヴァイオリン音などを、「持続音」で機械的に再現されたら、聴いた人にとってもはやバッハではない。コンピュータにプログラムで書き込まれた命令は、なにがあろうと忠実に実行される。しかし書き込まれない命令はいかに簡単なことであろうと絶対におこなわれない。
(略)
演奏技術鍛練の否定から始まった電子楽器のメモリー活用が、逆に器楽における鍛練(表現力)の必要性を立証することになってしまった。

PCM

 84年10月、松下電器が初めてPCM音源の電子ピアノ「テクニクスSX‐PB10」を発売。翌年7月、今度はヤマハからFM+PCM(録音したデジタル信号に人工的な波形補完をしたもの)という音源をもった電子ピアノが発売されたが、PCMのよさ(確かさ)が楽器の悪さに結びつくという自己矛盾を起こしてしまった。
 それは、どうやっても「同じ音が鳴る(鳴ってしまう)」という電子の均一性である。しかしメモリーはまだ高価格
(略)
その後、急速な半導体技術の進歩とともに、メモリーが安くなって様相が変わった。PCM音源の電子ピアノが各社から一斉に発売され始めた。(略)
前述のように、普通に聴いているぶんにはたしかにピアノの音であるが、感情を込めて弾いた部分が、そのとおり反応した音になっていず、いつも均一である……(略)なまじ音色がアクウステイック楽器に近づいただけ不自然さがきわだってしまう結果になった

「鍵盤の重さ」を再現する不合理

触るだけで鳴ってしまう「鍵盤の軽さ」、強弱に反応できない「音の鳴り方の変化」という課題に対して、ハンマーアクションと同じ重量感触を得られる鍵盤構造、多段階センサースイッチによる触感反応伝達機構などで「重くて表現力の出せる」ピアノの、楽器としての本質にかかわる部分も改良された。
(略)
しかし電子化され、鍵盤の重さなどその必然性が失われても、この再現に異常な苦労をしているのはちょっと妙な話である。
(略)
[19世紀前半期ピアノ大量販売時代、拷問器具に近い指の鍛練器具や矯正器具が登場した]
電子化でせっかく可能になった「拷問からの脱出」をわざわざ苦心して後もどりさせているとしか筆者は思えない。ピアノ教師やピアノメーカーにいわせると、軽い鍵盤タッチだけで音が出るものばかりで訓練していると、いざ本物のピアノ、本格的な演奏の場面ではその弊害がでるという。
[だが情操教育でピアノを習う内の何割がそんな場面を持つのか]

ピアノのハンマー・アクションは、音を出すための構造的な必然性によって、あの鍵盤の独特な重みをもっている。つまり、人間の指の力だけで入力媒体である鍵盤を通して、高張力を持った弦をハンマーで叩き、あれだけの音量を出せるような構造。しかも強く叩けば強い音を、弱く叩けば弱い音を、さらに、微妙な指使いでも鍵盤とハンマーとの伝導時間の誤差を起こさない、演奏者の感覚とのギャップを生じさせないようなメカニズム。そのための工夫の集大成が、あのような複雑なハンマー構造になり、結果あの「重み」になった。つまり、初めに「重み」が必要だったのではなく、「重み」は構造からくる致し方のない「結果」でしかない。しかし、電子ピアノではその「結果としての重み」を再現するために、わざわざ鍵盤に鉛を仕込んでまで、鍵盤のバランス確保に苦労をしている。楽器は音楽を演奏するのであるから、演奏に表情がつかなければ真の楽器とはいえない、という論に、異を唱えるつもりはない。しかしその表現は、電子なるがゆえにセンサーでタッチコントロールを実現することは可能であり、そのために必要以上の重みは関係ない。電子楽器のもっとも重視すべきものは、「因習的な諸楽器にかせられた制限の排除」、つまり難解な演奏技術から逃れるということであるにもかかわらず、である。

最初に戻って、日本楽器産業史

[西川虎吉は三味線職人として育ちパイプオルガン調律師助手を経て、1884年頃にリードオルガン試作に成功、翌年「西川風琴製造所」設立。明治末期に四万台のオルガン製造販売](略)
楽器製作者としての力量は、山葉寅楠の比ではなかった(略)
虎吉の死後、西川オルガンは山葉に買収されるが、買収後も山葉が西川オルガンのブランドを第二次大戦直前まで残していたこと、西川オルガンの社員が技術を教えてくれない、という山葉社員の嘆きの逸話などからも、西川の技術の高さがうかがわれる。また、西川はウーリッツア電気自動ピアノやフランシス・ベーコン・プレイヤーピアノなどの自動楽器の販売も手がけるとともに、ピアノやオルガンの「月賦販売」という方式を取り入れ、日本的楽器販売の先駆者のような存在であった。(略)
[ヤマハ創業者山葉寅楠は20歳の時に長崎で時計の製作・修理技術を学び、医療器具職人となる]
寅楠といい、ローレンス・ハモンドといい、後の電子楽器を発売するカシオ、そのいずれもが「時計」に関係しているのは不思議な一致である。
(略)
[1926年山葉で大労働争議勃発、新社長河上嘉一の方針に異を唱えた河合小市は独立し「河合楽器製作所」設立]
 河合小市は、11歳で山葉オルガンエ場に入り、オルガン製造の技術を習得する。その後もアップライトピアノのアクションの国産化に成功し山葉のピアノ製造に貢献するなど、もっともすぐれた技術者でもあった。河合は、独立するやいなや「昭和型」と名づけた64鍵の小型アップライトピアノを製作・販売した。このピアノは、当時ヤマハピアノが650円であったのに対して350円という価格で売り出したため、好調な売れゆきとなる。また1928年には、グランドピアノの製作販売に成功している。
(略)
日本の楽器産業は、「学校教育」との関わりのなかで発達してきた。それはオルガンであり、ピアノであり、戦後はハーモニカであった。とりわけその関わりが顕著にみられるのは戦後である。戦後の日本の音楽科教育でもっとも特徴的なことは、「器楽」という学習領域が発足したことと、後に、それにともなって「教材基準」という学校設備の基準が設定されたことである。このことが疲弊した戦後の国内楽器メーカーにはまさしく「神風」となり、本来は受注生産であった楽器を、「見込み生産」することが可能になった。
(略)
三味線製作をしていた鈴木政吉が鈴木ヴァイオリン製造株式会社設立。(略)[ヴァイオリンの量産化を図り]政吉は、ヴァイオリン渦巻形削製機やヴァイオリン甲板追剥機といった機械を発明(略)第一次世界大戦中のヨーロッパからの供給が止まったために千載一遇のビジネスチャンスとなった。(略)アメリカを始め世界中への供給源となる。当時、従業員は千名を超え、毎日五百本のヴァイオリンと千本以上の弓が量産され、輸出だけで年間十万本のヴァイオリンと五十万本の弓が扱われた、という信じがたい記録が残っている。(略)
[ヴァイオリン量産という]日本の工業発想は、西欧の匠たちからみれば、驚異というより、馬鹿げたものにみえたであろう。しかし、これは後の世の電子楽器、というより日本のあらゆる工業思想の原点でもあった。
(略)
[1955年以降ピアノ・電子オルガンのように販売が伸びなかった理由は]
「ヴァイオリン教授の生徒に対する楽器の紹介斡旋で、楽器店に対して不当なマージンを求めすぎ、そのことが次第に楽器店の商売意欲を失わせる傾向を助長した」こと。ふたつめは販売店にとって「分数ヴァイオリンの価格が極めて低廉の割には、メンテナンスなどの労多く、楽器ビジネスのうまみが少なくなった」こと、そして最後は「文部省の教育楽器の指定にヴァイオリンが入ってないこと」である。

電子オルガン・バトルロイヤルで

なぜヤマハ「エレクトーン」が勝ち残ったか

エレクトーンのために作曲された膨大な「楽譜類」の出版、ヤマハ本体による「音楽教室」や「エレクトーン教室」の展開、「全国ヤマハ連合会」の発足、その後世界規模にまで展開する「エレクトーン・コンクール」の実施、電子オルガンを包括した「音楽教育システム」の整備、テレビによるエレクトーン演奏の「放映」、学習段階を学習者に明確にする「グレード制度」の実施(音楽能力検定制度、系列楽器店や幼稚園などを使った「タイアップ音楽教室」の拠点づくりとさらなる展開、さまぎまなイベントに対する「エレクトーン演奏の提供」、「ネム音楽学院(後のヤマハ音楽学院)」の設立、それらを統括する「ヤマハ音楽振興会」の設立等々(略)
この展開こそが、モデルとした本家のアメリカを凌駕し、世界を席捲し、日本ならではの電子オルガン市場を形成することに直接的に結びついたのである。

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