ウルトラマンが泣いている

著者の父・円谷一(英二の長男)急死後、三代目社長となった皐(英二の次男)がいかに会社を私物化し駄目な経営をしたかが書かれている。
問題の根源はフジにいた皐があたためていた企画が流れ、TBSでウルトラシリーズとなってヒットしたことで、皐はフジに居辛くなった。つまり皐にとって、自分が絡んでいない「初期のウルトラシリーズ」やTBSに複雑な感情があった。

TBSの自負

[68年の「マイティジャック」(フジテレビ)で]
後々ウルトラシリーズの続編であらわになる、円谷プロの弱点の一端がうかがわれます。特撮技術こそ円谷プロお家芸でしたが、「ウルトラマン」や「ウルトラセブン」のドラマ作りは、後に「ドラマのTBS」とまで賞賛されるTBSから呼びこんだ演出家たちによるものだったのです。(略)残念ながら、大人も納得させられるような演出は、円谷プロの自前ではなかったのです。
 これは裏を返してTBSの側から見れば、「初期のウルトラシリーズを内容的にも営業的にも成功に導いたのはTBSである」という自負になります。円谷プロとTBS双方が、「ウルトラマンは自分たちが作った」と思っていたわけです。この矛盾が、後の円谷プロの経営陣とTBS幹部との深刻な軋轢につながるのです

TBSから干された理由

[TBSの意向で金八人気に便乗して学園モノにした「ウルトラマン80」が失敗]
こういう場合でも、日本のテレビ局はメンツにこだわりますから、下請けの番組制作会社に謝罪するようなことは、まずありません。(略)
 TBSとしては身内の社員プロデューサーを更迭したことで、責めを引き受けたわけですから、円谷プロはそれで納得して分をわきまえるべきでした。
 しかし、TBS幹部との話し合いの中で、皐社長は憤りをあらわにして、
 「我々が作り、育ててきたウルトラマンを、いったいどうしてくれるのか」
 と言ってしまったそうです。TBSの当時の編成局長は、ウルトラシリーズが放送されるまでの経緯を知っていましたから、
 「おまえが作ったウルトラマンじゃないだろう」
 と言い返しました。実際、皐さんはウルトラマンの制作には、まったく関与していませんでしたから、後は売り言葉に買い言葉で、お互いに譲らず、対立は決定的になりました。
 この編成局長は、その後、社長まで出世しました。
 結果、「円谷プロの幹部はTBS役員室に出入り禁止」が、TBSの歴代社長の申し送り事項となり、以後、ウルトラシリーズの新作はTBSで放送できなくなってしまいました。

東宝の子会社でいれば本社の経理がザル経理や社長の私費流用をチェックできた、東映戦隊シリーズが理想と著者は言うのだが、自身が以下のように、企画文芸部を潰したのは東宝の合理化だ、玩具会社主導になるのは円谷プロの良さがでないと思っているわけで。

合理化で廃止された企画文芸部

[68年東宝は]増資の救済策と引き換えに、肥大した円谷プロの合理化に着手します。
 それまで150人ほどいた社員を、一挙に40人にまで減らすという大リストラでした。(略)初期の黄金時代を支えたスタッフが、ごっそりいなくなってしまいました。
 さらに、もう制作の仕事はないのだからと、企画文芸部を廃止してしまいました。それまで、円谷プロの番組の企画書や脚本の多くを担当していた、番組コンセプトやストーリー作りの要の部署です。(略)
金城哲夫さんなども、フリーの契約プロデューサーという立場に変わり、まず外まわりの営業をして、自分で番組をとってこいと指示されました。
 これが、不世出の才能を持つ金城さんが退社し、故郷の沖縄に帰ってしまったひとつの原因と言われています。

株買い戻しで硬化した東宝

円谷プロの代表印は東宝側が持っていました。(略)
 皐社長はこれが嫌で仕方がなかったようです。
 事態が大きく変わるのは、バブル景気の名残がまだあった1992年です。七年前の経営難がきっかけでTBSにわたしていた、初期のウルトラシリーズの番組販売権や窓口権などの譲渡契約が期限を迎え、円谷側に権利が戻ってくることになりました。
 皐社長は、かねてその権利を担保にして銀行から借金し、その資金で東宝から株を買い戻すことを考えていて、さっそく実行に移しました。(略)
東宝側は、
「それならそれでかまわないが、今後はいっさいめんどうをみませんよ」
 と言ったそうです。
東宝側としては、円谷プロが勝手にテレビ業界に進出したものの、累積赤字で首がまわらなくなり、そのたびに救ってきたのに、今さら手のひらを返すのかという思いがあったでしょう。
東宝側の経営関与が、すべて正しかったかどうかはわかりません。初期の円谷プロにドラスティックなリストラを命じ、その後の制作力弱体化の流れを作ってしまったことを見れば、いささか近視眼的な施策だったといえ、親が子を育てるという配慮に欠けるところもあったと思います。
 しかし、少なくとも経理については、一部上場で経理監査もしっかりした大企業ですから、おまかせしていたほうが、円谷プロのような中小企業にとっては良かったと思います。
 「会っても話をすることはない。おたくとはもう関係ないから」
東宝は、株の買い戻し以来、態度を硬化させるばかりでした。円谷プロ側がちょっとした用事で東宝の幹部に「時間をとってください」とお願いしても、けんもほろろな対応をされたと、役員から聞かされたものです。

玩具メーカーに主導権

実相寺昭雄さんは、後の著書の中で、ウルトラマンが輝きを失った原因として、こんなことを語っています。
 「第一の強敵は制作費であり、第二の難敵は商品化権だ。商品化権が優先し、番組がデパートに並ぶ玩具を充実させるために、奉仕させられるようになってしまった」
 この指摘は、悲しいですが事実です。(略)
円谷プロのビジネスモデルの根幹に関わる問題です。(略)
番組制作が玩具優先になるのは、1990年代に入ってからです。(略)
[パソコン通信が舞台の「電光超人グリッドマン」は富士通がついたおかげで放送枠がとれた。]
「94年「ネオス」のパイロットをつくって各局のプレゼンしたが枠は取れず。しかし、ガシャポン人気で]
バンダイが本気でウルトラシリーズのテコ入れに乗り出してくれたことから、状況は様変わりしました。
(略)
[「ティガ」以降]隊員のユニフォームや怪獣のデザインなどのベースを円谷プロが作り、その他の戦闘機や、隊員が携帯する銃などの小物は、バンダイ側が提案し、双方納得したうえで決めるようになりました。
(略)
[視聴率低下で]ついには、玩具として発売予定のメカの登場に合わせて、脚本を変えることにまで踏み込んでいました。なりふりかまわずという雰囲気で、番組本来のアイデンティティが、円谷プロにもバンダイにもテレビ局にも、誰にもわからなくなっていきました。
 かつての円谷商法は、主導権は確実に円谷プロ側にあり、玩具メーカーがキャラクターのデザインに口を出すなど、ありえないことでした。しかし、長年、商品化権ビジネスに頼り続けた円谷プロは、それに依存するあまり、いつしか立場が逆転して頭が上がらなくなっていたのです。

ブースカCMの悲哀

[皐の死後、その息子一夫が四代目社長に、その初仕事が1995年のブースカを使った企業CM]
ブースカのCMは合計五本作られ、円谷プロとはまったく関係のない番組の提供CM枠を買って放送されました。(略)
イメージCMとしては成功だったでしょう。
 しかし、問題は、それ以前に、番組制作会社がイメージCMを流す意味があるのかという根本にありました。裏方の存在である番組制作会社が、自社をPRするCMを流した例は、円谷プロの後にも先にもありません。
 CMを流した理由について、一夫さんはこんなことを語っていました。
 「制作会社はテレビ局に対して、決して弱いだけの存在ではない。やろうと思えば提供伜を買って、テレビ局のスポンサーになることができる」
 つまりは、円谷プロを出入り業者扱いして、格下に見ているテレビ局に対する反発だったのです。
 そのころ、私はテレビ局や広告代理店の複数の社員たちから、
「英明さんは円谷プロから離れているから言うけどさ、円谷プロは何か勘違いしてない?」
 などと、言われていました。
 彼らは、突然「お客様」に変身した円谷プロを、業務の上では歓迎していましたが、内心では嘲笑と同情の目を向けていることを知り、みじめさが募りました。番組制作会社がCMを出しても、本業がテレビ局の下請けであることには、何ら変わりありません。
 ブースカ・グッズの売れ行きこそ、多少は増えたかもしれませんが、それによる収益は、CM枠を買うためにかかった億に達する費用に比べれば、問題にならない額でした。
 広告料として支出した金で、優秀な脚本家なり、SF作家なり、プロデューサーを連れてくるべきでした。(略)資金を使って円谷プロの地力を上げる方策は、いくらでもあったはずなのです。

古手役員クーデター

当時、一夫さんと古手の役員との関係が悪化し、会社は一夫さんの思い通りにならなくなっていました。(略)
 一夫さんは昌弘への権限の委譲を認めましたが、役員らの意思を確認し、彼らの責任も明らかにするという意味で、役員全員の辞表をもらっていました。(略)
 クーデターを主導した円谷一族以外の役員らは、昌弘を新社長に据える一方、円谷プロの株式をバンダイに売却し、バンダイから役員を派遣してもらって一族を飾り物にし、最終的には自分たちの手で経営をコントロールしようと考えていたのです。株式の対価は五億円という具体的な数字まで、円谷プロの部長会の議事録に記載されていました。
(略)
 バンダイ円谷プロを救済した時点で、円谷プロの株式取得を条件にし、一定の支配権を確保するという手法もとれたと思います。しかし、円谷プロを信頼して紳士協定にとどめました。その約束が反故にされたのですから、バンダイに対して、私はたいへん申し訳ないと思っていました。
 しかし、今すぐ性急にバンダイに経営権を渡すことに、私たち一族は反対でした。バンダイ円谷プロの株式の過半を手中に収めれば、玩具の販売促進が番組制作の主要なポリシーになってしまいます。ウルトラシリーズの世界観もさらに迷走してしまいかねません。番組がたくさんのグッズのショールームと化してしまうのは、平成三部作にその傾向はすでに表れていましたが、今以上に強まるのは困ると考えていました。

社内政治家w

上昇志向の強い野心家が、営業や事業担当として雇われることが多くありました。その中には、円谷プロと円谷エンタープライズとの間を行き来して、権力を握ろうと画策する人もいました。東宝の傘下にあったころは、東宝から出向していた財務担当専務が、「社員同士で権力闘争のようなことをしていると、会社の雰囲気が悪くなるから」と、肩たたきして辞めさせたこともあります。
 しかし、東宝の傘下を離れた後、円谷プロは権謀術数のたけた社員が自由に動ける会社になってしまいました。そんな社員は、会社の大株主である三代社長の皐さんや、その息子で四代社長の一夫さんに取り入って、あることないこと吹き込むのが常でした。(略)
「もっとウルトラマンをうまく使え」「自分ならもっと稼いでみせる」などと、我々経営陣をこきおろすような発言を繰り返していました。

  • キャラクター・ビジネスの醍醐味

キョンシー・イベントが成功したTBSの主導で池袋サンシャインで第一回ウルトラマン・フェスティバル。記念写真を撮ろうと人だかり、急遽サンシャイン内のカメラ店の使い捨てカメラを買い上げ、会場で売ったら600万円の売上げ。興味ないだろうと思っていた怪獣カードが奪い合いに、これはいけると、ガシャポンで売れ残った怪獣指人形を一万個単位で送ってもらい並べると即完売。でもこれもTBSが事前宣伝をしてくれたおかげ、円谷単体だったら閑古鳥だったというのが著者の見解。
(うーん、個人的には、もう少し気概があってもいいように思いますw)

突然消え去るブーム

 ある日、突然、それまでのにぎわいが嘘のように、玩具店から客足が遠のき、グッズの売れ行きがガタ落ちするのです。前の年の収入が10億円あったので安心していたところ、翌年は一挙に5000万円まで落ち込み、「ゼロがひとつ足りないのでは」と数字を何度も見直した覚えがあります。
 いっぽう、グッズ製作会社や販売店では、何度かのブームを経て学習し、そうした流れはよくわかっていました。「今の番組は間もなく終わってしまう。おそらく来期は後番組がないだろう」という雰囲気は、円谷プロを訪問する業者にはわかってしまいます。取引業者にとっては、はしごを外されるようなものですから、在庫対策の前倒しという自衛手段を講じるようになりました。(略)
[メビウス]のころにはそれが顕著になり、番組が終了する三ヵ月も前から、グッズの新作が出なくなりました。グッズ製作会社では、番組終了時に在庫がきれいにはけるよう逆算して計画を立てていたのです。販売店の怪獣コーナーも、それに合わせてなくなっていました。

成田亨

 私が円谷コミュニケーションズ時代に、「マイティジャック」のビデオを出した際、解説書の表紙など、成田さんに原画を描いてもらいたかったのですが、
 「円谷プロの人間が彼に会うべきではないし、彼も円谷プロからの依頼は絶対に受けないだろう」
 と古手の幹部から言われたことがあります。(略)
発売元のバンダイビジュアルにお願いして、間接的に成田さんに依頼してもらいました。
(略)
[成田が円谷を訴えた]裁判は成田さんがあっさり訴えを取り下げるという形で決着しました。(略)
 成田さんは、一時期、円谷プロ契約社員でした。社員がデザインをした場合、作品の著作権は会社に帰属するという判例があったため、成田さんの側が「勝訴の可能性はない」と一方的に判断して、裁判をあきらめたと言われています。でも、成田さんに近い人物によれば、そんな単純な経緯ではなかったようです。
 実は裁判が始まって間もなく、水面下で、円谷プロのある幹部が成田さんに接触していました。彼は、
 「訴訟を取り下げてくれれば、新番組で再び腕を振るってもらいたい。円谷プロにはあなたを受け入れる準備ができている」
 と、持ちかけたというのです。成田さんがその言葉を信じて訴訟を取り下げたとたん、円谷プロ側は手のひらを返して、実際に仕事を発注することはありませんでした。
 その後、円谷プロの何人かの幹部は、マスコミにインタビューされると、デザインは自分たちの功績であると平然と語っていましたから、傷心の成田さんをさらに苛立たせ、追い詰めたのは間違いないでしょう。

円谷英二

 晩年、祖父の家に遊びに行って、私がよく覚えているのは、飛行機や船の模型を黙々と作っていた祖父の後ろ姿です。当時、材木を削って作るソリッドモデルというキットが販売されていて、山ほど買い込んでいました。特撮に使う見本として、あるいはいくつかのキットを組み合わせて、新しい乗りものを構想するヒントにするのだと、目を輝かせていました。とにかく凝り性で、あまりにも純粋な「ものづくり」の人でした。
 祖父が亡くなる二年前、米国からひとりの青年が円谷プロのスタジオをふらりと訪ねてきました。映像監督と名乗ったものの、日本ではまったく知られていなかった彼は、本編監督よりもむしろ円谷英二の力量を高く評価し、ワイヤーワークなどの技術に目を見張って、あれこれ質問して帰ったそうです。
[のちのスティーブン・スピルバーグであるw]

[著者が小5の時、突如箱根へドライブ]
毎日こんなに険悪な雰囲気なのに、「どうして今さら家族でドライブなんかに行くんだろう」と、不思議に思いました。(略)
停車中だった大涌谷の駐車場で、父が不意に車を急発進させたのです。
 当時、大涌谷の駐車場は硫黄の臭いが立ちこめ、噴煙たなびく岩場を見下ろす崖の上にありましたから、一瞬、そのまま柵を破って落ちるのではないかと驚きました。単なる運転ミスだった可能性もあります。しかし、私は「父が刹那的に一家心中しようとして、ギリギリ思いとどまったのではないか」と感じました。
 父はあまりにも多くのものを抱えすぎてしまったのです。社長としての管理業務に加え、五本ものレギュラー番組を成功させねばという重圧、祖父の映画企画の実現、家庭では子煩悩の一方で、夫婦喧嘩を繰り返し、自らにはめまいなどの健康不安もあり、さらには赤坂の愛人の存在……解決すべきことが多すぎて、いっぱいいっぱいになっていたのではないかと思います。

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