ミシンと日本の近代

シンガー女学院

 シンガー女学院の経済的独立のアピールのキーワードは自活だった。これは20世紀はじめの何十年かのあいだ、驚くほどしばしば日本の女たちに指示された徳目なのだ。

 気取った経済学語彙を使うのがシンガーの日本女性向けアピールの注目すべき一面だった。(略)「御宅デシンガーヲ御使用ニナレバ数ヶ月間ニチヤントミシン代ヲ償却シ得ラレマス」。ここのキーワードは「償却」である。
(略)
 シンガーの割賦契約書の実物は、アメリカ起源の権威ある慣行にあなたも参入しませんかという、さらなる誘いとなっていた。(略)割賦契約書は、片面は英語、もう片面は日本語で印刷されていた。(略)
彼女たちはこれらの契約書に自分の名で署名することができたし(男性保証人の連署付きだが)、事実、署名していた。この契約書に自分の名を署名して、そのあと、前部にSingerという金色にきらめく英字が記されたミシンを使っているとき、彼女たちはこう語りかけられていたのだ。これがいまや世界じゅうにひろまっている経済の近代性という、メイド・イン・アメリカの慣行ですよ、あなたもそこに賢明かつしあわせに参加できるのですよ。
(略)
二つの意味での近代性の象徴として――一つは合理的な投資という近代性、もう一つは、自由と、生活スタイルと、西洋と結びついた快楽の追求という近代性の象徴としてである。

日本女性らしさと裁縫道

洋裁と洋服の両方と同一視されたミシンを推奨する人たちは、ミシンが伝統的に日本ふうであると理解された諸習慣にじっさいに適合し、それらを尊重し活かせる方法を、力説する必要を感じた。
(略)
女にとっての日本人らしさは、熟練した器用な指を超える意味をもっていた。(略)
洋裁と洋服への関心が学校の外で高まってくるにつれて、教育家たちは本、雑誌、公開講演会、政府の組織する生活改善運動などで、彼らの教育法がめざすべき適切な目標について、複雑でときには熾烈をきわめた論争を展開した。対立の一つの軸は、日本人らしさの擁護と定義にとくに関連していた。裁縫教育を、女の徳性涵養の中核をなす要素だと考える者と、その使命は市場性のある技能を実践的に教えこむことにあると見る者との対立である。
 裁縫を道徳的使命として支持した20世紀の何人かの教育者は、それが日本式の裁縫に深い根をもっていると理解していた。(略)
「裁縫の巧拙で、一人の女子の価値を定める観念が、地方によってはこの時代[1910-1920年代」までつづいていたのである。私なども、裁縫と習字が一番嫌いで成績も悪かったから、お前は駄目だ、女ではないとよく家庭で叱られたものであるが、それは裁縫の技術からのみの評価ではなくて、裁縫道とでもいう技術の錬磨を通して養われる徳性、即ち教育的価値をいったものである」。(略)
改革者としての牛込ちゑですら裁縫を、日本の良妻賢母たちに「豊かな家族愛」を涵養するという根本的目標のために教えるべき技能として、理解していたことである。
(略)
 たとえば、1921年に神戸女子高等技藝学校長が主婦向けに熱をこめて提示した時間節約技法を考えてみるといい。ミシン縫いよりも速くて効率のよい手縫い法である。

袴からセーラー

女生徒の服装はもっと曲がりくねった、論争をよびながらの経路をたどった。(略)
政府からの最初の圧力は、西洋式の服装ではなく、徳川時代からの伝統的な男子用スカートの修正版である「女袴」の採用に向かわせたのだった。(略)袴式スカートは、この新たにジェンダー化された刻印とともに、一つの階層のしるしを帯びることになった――「女学生」という特権的身分のしるしである。
(略)
1920年代には、女生徒の「セーラー」型制服が時流を制した。(略)制服制定には文部省役人が関与したとはいえ、法令で押しつけたわけではなく、教師や親ばかりでなく女学生自身が、これらの決定をくだす過程に参加した。(略)驚くほどオープンなプロセスだったのである。

和服か洋服か

 服装は状況や場にふさわしくないと、性的関心を煽ってしまって社会秩序を壊しかねないという不安は、明らかに座談会の男性参加者の念頭にあった。一人は、日本の着物はあまりにも誘惑的だという意見だった。着物姿は男に分別をなくさせる、職場では女にとって和服は安全ではない、と。だが別の男が、スカートだっておなじほど誘惑的な場合もありうると反論した。

シンガー・システム

シンガーの販売網は費用が高くついた。(略)「国じゅうに店舗と外交員と集金人を洪水のように溢れさせるやり方は、ひじょうに高くつく販売方法だった」(略)「利益よりもむしろ販売を最大限に伸ばす」ことへ傾きがちだった(略)日本でも、シンガーが市場で圧倒的優位を誇ったのは、低コストのゆえではなく、比較的高いコストにもかかわらずだった。たんにミシンを売るためだけでなく、購入者に使い方を指導し信頼できる維持管理と修理を提供するために、満遍なくひろがるネットワークを構築することによって優位に立てたのである。
(略)
 すでにミシンを持っていた者にとって、これまたシンガーのグローバル・システムの一部であった攻撃的な下取り政策は、決定的だった。(略)
不完全な競争相手たちの「このような機械は消滅させられるべきです。だからわれわれは、わが最新式の改良された機械をあらゆる種類の古い縫製機械と、気前のいい条件で交換しようと提案します。こうして入手した旧式機械は、われわれによって破壊されるでありましょう」と、自慢げに言っていた。日本ではシンガーはこの方法と豊富な部品在庫を武器に、競争各社、とくに、シンガーが全面的に営業を開始するまえには日本の市場で優勢を誇っていたドイツのメーカーを、文字どおり叩きつぶしてしまった。日本でのシンガーの初期のリーフレットは、どの銘柄の中古ミシンも下取りする用意があることを麗々しく謳っていて、山本その他のシンガーの古参たちは、ドイツのミシンはどんなものでも下取りして、競争相手のための予備部品のどんな供給源も他の二次的流通市場も成り立たなくさせようと、あっさり破壊してしまったと回想している。下取りミシンを売ろうと思えば売れたはずだから、こんなに費用のかさむ競争的戦略をもちいることができたのは、途方もなく大きな資本資源をもつ会社だけだったのだ。