前日の続き。こういう本なので短く引用するのが難しいというか、途中でこの引用で面白いのかどうかわからなくなったと先に断っておこう。
証言:上原正三
[上原らが仕事後呑んでいるとロケから戻った一が合流]
そういうときによく金城をいびってました。「ホンのせいでこんな苦労してる!」とか(笑)。金城もあれはたまらなかったろうね。でも他のライターには絡まなかった。だから一さんと金城は、そうやってお互いにコミュニケーションを取っていたんだと思いますよ。ふたりには我々にはうかがい知れない絆があったんですよ。まあ一さんにしてみれば円谷プロのことしか頭にない。金城と僕が頑張ってそれを育てればいいんだ、と思ってたんじゃないかと思います。親父の会社をオレと金城で盛り立てる、という気持ちがあったんじゃないのかな?
63年「株式会社円谷特技プロダクション」として再出発。初仕事は石原裕次郎『太平洋ひとりぼっち』。大きな仕事はなく経営は苦しい。当時世界に二台しかなかったオプチカルプリンター4000万円購入手付け500万円工面に英二奔走。64年東宝傘下に入る。購入代金にあてるつもりの企画が潰れ宙に浮いたオプチカルプリンターをTBSに購入してもらい、
ウルトラQが始動。
しかし企画の時点で積極的に参加した様子はない。それは一が『いまに見ておれ』にかかり切りという事情が最大の要因だろうし、TBSが直接、金城哲夫を主体とした円谷プロと企画を練っていた事情もあろう。しかし企画が通り、いざ制作ということになれば、映画部員として円谷プロに出向することになるのは明らかである。事実そのとおりになるのだが、一はなかなか「自分から撮る」とは言わなかった。
その最大の理由は、熊谷健証言にあるとおり、父・円谷英二に対する意識だろう。もともと音楽畑に進むことを希望していた一が、映像業界に入り芸術祭賞を受賞するまでの歩みは、積極的に状況を切り拓き己の立場を構築するといった、いわばハングリーな意識が乏しい。それでもいつの間にか高みに登っているというのは、やはり希有の才能あってのことだろうし、テレビという新興メディアが持つ力が後押しした結果だろう。そこに父の手は及ばなかった。もし一が『ゴジラ』のあとに東宝入りをしていたならば、その名が映像史に残ることはなかったかもしれない。しかし今度は”特撮の神様”円谷英二がテレビに進出するということで、鳴り物入りの企画である。今回ばかりはイヤでも父親と比較されてしまう。
証言:実相寺昭雄。ウルトラマン
(略)文芸部を金ちゃんとウエショー(上原正三)に任せて、自分はTBSとのパイプ役でね。だから一さんは、印象としてはあくまでもメイン監督なんだけど、『ウルトラマン』の路線を具体化したのはやっぱり飯島(敏宏)さんだと思います。それは一さんがそういうふうに導いていったんだろうね。だからそういう意味じゃ、『ウルトラマン』の頃は一さんはプロデュースをしていこう、という方向に傾斜していって、それで中身に関しては飯島さんに……飯島さんはスクエアな人だから、自分が作ったとか、そんなことは言いませんけどね………(略)
で、一さんは、主題歌も書いたり、(作品の)傾向を決めたり、音楽をどう持ってくかとか、全体の心配りとか気配りとか、そういうほうに忙しくなっていった。だから『ウルトラセブン』なんかでも、あまり自分が演出するということを頭に入れてなかったんじゃないかな。それで『怪奇大作戦』の頃になると、ほとんど自分のテリトリーじゃないと思ったんじゃないかな。
68年経営逼迫、さらに東宝資本注入、社名が「円谷プロダクション」に。有川も取締役に。
証言:有川貞昌
ピンちゃんとは、『ウルトラセブン』まではどちらかというとなあなあで、「ふたりでやっちゃおう!」と言ってたんです。ところが僕が東宝を辞めて円谷プロのデスクに入って、今度は受ける側になってしまったんですね。(略)
『怪奇大作戦』も終わって、会社がもう一番大変なときですよ。僕は借金の言いわけで、あっちこっちの会社に行って歩いた時代です。借金してる会社の社長や、東宝からも円谷プロに来てもらって、「東宝が責任を持つからなんとか支払いを待ってもらいたい」という説明をしたり、円谷プロに行ってからはそんな仕事ばっかりだったんだよね。だから嫌になったんだ。(略)
『マイティジャック』の頃、僕、親父に怒られちゃってねぇ。「現場の人間が金のことを心配してていい仕事ができるか!」と。僕は逆に、今、円谷プロは大変なんだから、金を少しでも節約して、しかもそれでいいものも作るにはこの程度だ、と自分で限界を作ってしまうわけ。親父はその作る限界がまったくできないんです。(略)
だから親父に、「円谷プロに来い」と言われたときは、よし俺も親父に負けないように、と思ったんだけど、行ってみて、ああ役目が違うんだ、ということに気づいたんだよねえ。間抜けな話だけど。結局僕、1年くらいしか、円谷プロにいなかったんじゃないかな?
証言:上原正三。金城帰郷。
会社的に一番大きかったのは『マイティジャック』(68年)の失敗です。あれは赤字解消の切り札だったんですよ。(略)
「金城が企画をすれば高視聴率」という神話も崩れた。そういうことで金城自身もしぼんでしまって。でも会社というのはそういうものですよね。いいときはアイツアイツ、と言い寄ってきますけど、一度ダメになると、それこそ波が引くように誰もいなくなってしまう。(略)
『怪奇大作戦』の途中の頃かな、(親会社の)東宝が噛んできて円谷プロの大改革をやった。企画文芸部廃止、金城も、フリーの契約プロデューサーとして自分で仕事を取ってきてそれを書け、ということになった。(略)
金城が沖縄に帰るって言ったとき、誰も止められなかった。止められなかった、というより止める力が誰にもなかったと言うべきだね。
68年春
脚本・金城哲夫、監督・円谷一---特撮テレビ史上最高のコンビの名は、この晴れ渡った早春の空に永遠に消えた。
金城が去った8目後の3月9日、『怪奇大作戦』最終回「ゆきおんな」が放映された。視聴率はシリーズ最高の25・1%。特殊技術・佐川和夫、視覚効果・中野稔のコンビが描いた巨大なゆきおんなの特撮は、この時代のテレビ特撮として最高のレベルを誇っていた。それは”技術者集団”としての円谷プロが見せた最後の意地だったのだろう。
黄金時代の円谷プロは、まさに梁山泊といっていい天才、気鋭、職人の集団だった。契約社員を含めると150人ものスタッフを抱え込んでいたという。
[それが経費削減で40人に]
こうして円谷プロの黄金時代を支えたプランニングスタッフのほとんどが去っていったのである。現場経験者で円谷プロに残ったのは、制作の熊谷健、演出の満田かずほ*1、企画の田口成光、そして実弟の円谷粲らわずか数名だった。
このとき、一はまだTBSの局員である。『孤独のメス』はすでに8月11日に終了していたが、だからといって危急存亡にある円谷プロに入社してはいない。金城が一に宛てた手紙によれば、一がプロデューサーに転じ経営者に転向する、と聞かされたのは68年の11月頃だったらしい。しかし68年の12月には増資による名称変更が円谷プロで行なわれている。つまり一の円谷プロ入りは、タイミングを逸してしまっていたのだ。だが英二が入院し、いよいよ、となると事情は違う。
ちょうどTBSも自社制作からTBS資本の下請け制作に移行する時期で、木下恵介プロやテレビマンユニオン等が設立される。辞表を出しに行った一は役員から円谷ではなく、そっちに行かないか言われる。
このコメントは、TBSの役員が「円谷プロはもうダメだ」と意識していたことを匂わすものとしても貴重だ。ここまで育て上げた一を、明日をも知れぬプロダクションに投げ出してダメにするのは惜しい、という親心であろう。しかし一は、父の作った会社再興のためその選択肢をあえて捨てる。
花形ディレクターの地位を捨て、昔のコネで小さい仕事を取って怪獣ブームの再来まで糊口をしのぐことに。
証言:上原正三。遂に『帰ってきた〜』始動
(略)この人を、赤字を背負った会社を建て直すようなポジションに置いちゃいけない、と思ったんです。一さんには似合いませんよ。むしろ監督として、「俺が1話を撮るぞ。だからウエショー書け!」と言ってほしかったね、正直。もう彼も、一制作プロダクションとしてTBSから仕事を受けます!というポジションになっていますから。僕らからすると、一さんはもっと輝いていた人なんです。だから昔のような輝きを取り戻してほしい、と思ってたけどね。
でも彼は、あくまでプロデューサーとして制作会社を代表して、亡くなった親父さんに対するレクイエムというか、本多(猪四郎)先生を連れてきて、1、2話を撮ってもらう、ということを発想する。これがまた一さんの優しさなんだなぁ。そこにはやっぱり亡くなった父に対する思い、畏敬の念というものがあったと思います。
英二の弔辞は有川貞昌と思われたが、一が断固拒否して金城がやった。
証言:有川貞昌
[国際放映にいた有川を一が突然訪問、喫茶店へ]
もうその瞬間はね、中学高校時代のピンちゃんに戻って、懐かしい気持ちがいっぱいでね。
で、コーヒーを飲みながらいろいろ話をしていたら、「ねえ有川さん、親父が死んだのは、本当に有川さんが辞めたからそれを苦にして死んじゃったんだよー」と言うわけね。これは台詞としては嬉しい気もあるけど、それをピンちゃんに言われるとえらく辛くてねえ。それ、本当かな?と思うくらいに、何か感じちゃったんですよねえ。親父はあれだけの人だから、僕がいるいないなんて関係ないけれども、そういうことをポッと口にされるとね。でもピンちゃん、僕が辞めたときは、弔辞の問題もそうだけどけっこう腹を立ててたと思うんです。なんだい、長いこと世話になっときながら、都合のいいときばかり、と思っていたと思うんです。ところが僕の前に立ったときはもうそういう気持ちも落ち着いて、寂しいというか懐かしい気持ちでいたと思うんですね。「じゃあピンちゃん、俺もこれからまた円谷プロに顔を出すからよろしくね!」と言ったら、「待ってるから来てよー」と言ってから、3ヵ月か半年くらいで、ピンちゃん死んじゃったのかな。それがきっかけで、また円谷プロに行くようになったんだけど。あのとき、ピンちゃんがああ言ってくれなかったら、僕はこのまま一生、”円谷”と口に出さなかったと思うけどね。何かそれを言いに来てくれたみたいでねぇ。だからそうやってポツッと言い残したみたいで。(略)
それは円谷プロにまた来てくれ(入社してくれ)、という意味じゃなかったと思う。ただ親父を思い出す話がしたかったんじゃないかな? その頃、自分たち家族以外に親父を知ってる人というと、僕が一番近かったわけだから、急に思い立って来たんじゃないかなぁ?(略)
円谷再建でボロボロになって41歳で死去。
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*1:禾斉