- アジる浅利慶太
- 悪筆石原慎太郎に抗議
- ADブギ
- 淡路恵子
- 吹き替え放送
- 『月曜日の男』
- 円谷一監督『煙の王様』
- 滝沢英輔、松田定次、中川信夫
- 撮影所とテレビ局の違い
- 映画監督協会加入
- オプティカル・プリンター
ウルトラマン話だけではなく、副題に「テレビの青春」とあるように、前半はテレビ創成期が描かれ、テレビと映画の力関係の変化がわかる。
バルタン星人を知っていますか?: ~テレビの青春、駆け出し日記~
- 作者: 飯島敏宏,千束北男
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2017/06/28
- メディア: 単行本
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アジる浅利慶太
時あたかも破壊活動防止法案が上程されて、反対する労働組合、学生運動の激しいデモンストレーションが、国会周辺、皇居前広場で展開されていました。その波が、津波のように三田山上にも押しよせてきたのです。
慶応義塾自治会委員も兼ねていた浅利慶太君が起ち上がって、叫びます。
「皇居前に、三色旗を!」
いくらなんでもそれはムリだろう[と皆高をくくっていたが](略)塾生に、特に女子学生に人気のある浅利君の素晴らしいアジテーションが、どちらかといえば、穏健派の塾生はおろか、平生はやや体制寄りのノンポリ層まで動員して、初めて慶応義塾の三色旗が、皇居前に向かったのです。そこまではよかったのですが、浅利委員長は、その冬には劇団「四季」に専念するためか、突如退学してしまうのです。
驚いたのは、残された自治委員たちです。その端くれにいた、僕も、です。
「おい、あまり張り切るなよ。来年、お前の母校からの合格者が激減するぞ…」
心配性の友人が真顔で忠告してくれました。
悪筆石原慎太郎に抗議
[1歳違いの慎太郎の芥川賞受賞にジェラシー]
後にぼくがTBSで働きだしてしばらくのこと、彼が脚本を書いた番組『慎太郎ミステリー』の原稿の入稿が極端に遅く、夜中過ぎにようやく原稿を渡されて、払暁までわずか数時間の印刷上がりを受けさせられた植字工が、演出部に泊まり込んで仕事をしていた僕に、原稿の字が判読できないので読み解いてくれませんかと頼みにきたのです。(略)
なるほど、あの独特な、しかも粗雑な殴り書きの字は、いかに熟練植字工でもひと通りでは読めません。今にも泣きださんばかりの植字工から原稿を受け取って、あの独特の符牒を、とにかく文字に書き換えて渡してから、どうにも腹の虫がおさまらなくなって、数人の手を経てようやく本人を電話に呼び出して抗議したのですが、
「あれ? お宅(の印刷所)には、オレ専用の植字工がいないの?」
と、軽くかわされて、こいつなにをいうか、と、
「おまえも字を売る商売だろう、だったら、他人さまが読めるように書いたらどうだ!」
と、啖呵をきったのですが、聞けば、彼は、左手で原稿を書いていたのです…。
以後、原稿は、彼の友人筋の作家Sさんの筆跡で送られてくるようになりました…。
ADブギ
[学生時代からラジオ東京の脚本を書いており、プロデューサーから開局したばかりのラジオ東京テレビ(後のTBS)に来ないかと声をかけられたので、甘く見ていたら、結局社員採用は見合わせ、バイト採用に]
全てが時間と同時進行する生放送ですから、現場は大変でした。
演出部の大部屋は、主として教養班の活躍する午前の部の放送が終了して、音楽番組、ドラマ番組の夜の部担当のスタッフが現れるまでのほんのひと時ですが、シエスタ(昼休み)ではありませんが、時間の流れが緩やかになり、眠ったような、淀みのような状態になることがありました。僕たちADは、その時間に、経理に出す出演俳優のギャラ伝票を書いたり、時間までに警察へ持ち込む道路使用届けなどの書き込みなどの作業をするのですが(略)
[どこかから高鼾も聞こえてくる]
ところが、眠りは、間断なく遮られます。お昼の弁当の容器を回収に来る出前さんの立てる音。進駐軍あたりから闇取引で仕入れたラッキーストライクだのキャメル、ゲルベゾルデだの、洋モク売りのおばちゃん、生命保険勧誘の悩殺的なセールス、経理部への帰りにちょっと顔を出す銀座、赤坂のクラブやバーの掛取りのママ、出入り御免の注文洋服屋さんなどが、そろそろ出勤してくる夜の部のディレクターをねらって姿を現す時間でもあったのです。しかし、プロ野球中継や力道山の激闘などがエンジンとなったテレビの普及が予想を超えるほど急激に進んで、それに応じてスポンサーも増え、一日の放送時間がどんどん延長されるという按配で、ついに朝昼晩繋がってしまう頃には、いつのまにか大部屋のシエスタは、雲散霧消してしまいました。
それにしても、初期のテレビ局の現場には、猥雑と表現してもいい、魚河岸にも似た活気がありました。深夜(略)
車座になってディレクターたちが酒を飲んだりしているかと思えば、掃除のおばさんの通報で飛んでいったスタジオの化粧室には、なんと、所轄警察からの手入れの情報でも流れたのか、慌てて始末した花札が散らばっていたり
(略)
初期のラジオ東京テレビ演出部の人員構成自体が、新聞、映画、舞台、広告代理店あたりから集まってきた人たちと、ラジオ局から異動してきた局員とがマーブル模様のように入り交じって(略)それぞれの班によって、またディレクターによって仕事のルールが全然違いました。その上に、生放送[ゆえ](略)フィルムで撮影する映画界のように、演出助手の分担がはっきりしていなかったのです。
(略)
ディレクターのひと声であまりに何でもかんでもやらされた朋輩が、さすがに少々尖がって、
「ADの仕事とは、何なのでしょうか」
と聞いたところ、即座に、
「他人[ヒト]がやらないことを、全部やるのがAD!」
と、まさに明快な答えが投げ返されてきたのです。
ちなみに、僕らの2年後に入った実相寺昭雄、今野勉などという正規社員募集で入社してきた威勢のいい期の連中が、ADをひっくり返して、「DA」と、シニカルなというか、ニヒルなネーミングを彼らのグループ名に冠したことをご紹介することでご想像いただけると思います。
(略)
ところで、アルバイトAD時代の日給は、なんと250円でした。(略)
切ない話ですが、映画俳優の出演料1回分のほうが、ディレクターになったときの僕の月給よりずっとずっと高額でした。
淡路恵子
[テレビ版]石坂洋次郎原作の人気小説『若い人』(略)
原作のちょっとエキセントリックなセーラー服姿の女学生、江波恵子にしては、SKDスターの淡路恵子さんは、すでに大人の色香を備えていらっしゃいましたが、本番前に、新米ADの僕が思い悩んだのは、どこから彼女にQを出すか、でした。シーンは、朝です。眠りから覚めた江波恵子は、ベッドの中で目を開き、大きく伸びをして、がばっと起き上がらねばなりません。目を閉じていて、しかも大きなカメラ3台に取り囲まれている江波恵子に、
「どこからQを出しましょうか…」
窮して口にすると、やおらベッドから手を伸ばして新米ADの手を摑むと、布団の中に引き込んで、
「ここに、頂戴…」
まことにいたずらな江波恵子でした。合掌。
吹き替え放送
ラジオ東京放送劇団には、人気番組『スーパーマン』の声を吹き替えていた大平透とか大木民夫とかベテラン声優もいたのですが、『走れ!名馬チャンピオン』の声の吹き替えには、俳優座養成所出身の俳優が組織した劇団新人会が、ユニットで出演していました。
同じ劇団で、気心の知れた仲間でキャストを組んだほうが、アンサンブルが取りやすいということもあったかもしれません。なにしろ、放送当日に、フィルムを回して通しで行うリハーサルが、わずか2回ほどしか出来ないうちに放送時間が来てしまうのが実情だったからです。
北条美智留、穂積隆信、佐藤慶、佐藤英夫というメインキャストでしたが、この中で、一番強面で、悪役を一手に引き受けていた俳優さんが、すごい迫力でマイクを独占して他の人を寄せ付けなかった人です。
なにしろ、輸入したフィルムのサウンド・トラックを、そのまま生かして使ったのですから、無茶な話です。登場人物がセリフを言うたびに、ディレクターが、隣に座る音声ミキサーに合図して、オリジナルのサウンド・トラックを絞り、セリフが終わると上げるという、実に雑駁なやりかたでしたから、当然、英語のセリフを消せば、音楽と効果音も一緒に消えてしまう有様だったのです。
『月曜日の男』
[最初は『銭形平次』をやる予定だったが、突如スポンサーが現代物でと言い出し、御用聞を探偵にして一夜漬けプレゼン]
「放送日が月曜日ですから、題して『月曜日の男』、月曜日にはかならず、視聴者にこの番組を見逃さず見ていただきます」(略)
[主役の探偵、持統院丈太郎には新東宝有望新人を予定していたが、主演作を観たスポンサーが却下。助手役の高島忠夫と新人女優矢代京子はすんなり了承]
探しに探した挙句、背が高からず低からず、精悍な風貌と、ファッション性、運動機能に卓越して、テレビの垢のついていない俳優、ということで、日活の中堅活劇俳優だった待田京介の起用という冒険的な提案をしたところ、今度は、すんなりと受け入れられたのです。
たしかに彼は、個性的でした。スターとは言い難い存在でしたが、僕の狙うB級ドラマの主役にはうってつけだったのです。しゃれた、というよりはほとんど気障な、というべきファッションを抵抗なく着こなし、拳銃をくるくるっと回してホルスターに収める芸当なども難なくこなし、クレー射撃の撮影では百発百中の腕を見せ、劇用のMGオープン・カーヘの飛び乗りは軽業俳優ハヤブサヒデト張りで、やや黒光りした顔に精悍な眼を光らせる持続院丈太郎(通称J・J)を、みごとにキャラ立ちしてくれたのでした。
オープニング・タイトルは、沢田駿吾のモダンジャズに乗せて、カンカン帽を被った主人公の探偵と拳銃をあしらったフィルムモンタージュで始まるという、ハリウッドB級ギャング映画風のちょっと気障で無国籍的な連続ドラマで、主題歌は、日本レコード大賞を取って間もない水原弘、第1話のサブタイトルが「裏通りの紳士たち」、ドラマの中盤で必ずキャバレーかナイトクラブの場面があって、著名な歌手やミュージックホールの踊り子が歌ったり踊ったりするサービスが入り、その間に、前半の謎解きと後半の推理をしてくださいなどという、冷や汗もののドラマ番組が出来上がったわけですが…エンディングも、「つづく」ではなく、『月曜日は月曜日の男』と入れる徹底ぶり
(略)
泥縄で作り上げた繋ぎ番組の予定が、予想外の人気番組になり、結局、1年過ぎて僕が映画部に転籍になってからもなお(略)3年も続くシリーズになったものです。
円谷一監督『煙の王様』
[皆、スタジオドラマ派だった]状況でしたから、川崎の旧国鉄操車場で、蒸気機関車が吐き出す石炭の煙で真っ黒に煤けながら16ミリフィルムを回していた円谷一監督『煙の王様』が、突如芸術祭のピンチヒッターに登場して、みごとグランプリに輝いたのには、全社驚愕です。そんなものを撮影していることすら知らない演出部員も多かったからです。国産フィルム番組の評価は、それほど低いものでした。
後に、東宝が見放した新型オプティカルプリンターを引き受けてまで、TBSが空想特撮テレビ映画に乗り出すきっかけを作ったのが、この受賞だったといっても差し支えないほど、重要な意味を持つ受賞でした。
一方、テレビ進出以来、予想を遥かに超えたペースで順調に資本力を増強してきたTBSが、企業のコングロマリット化を標榜して、出版界、旅行業界、果ては不動産業界にまで手を広げてゆく一環として、フジテレビなどと共同出資して新東宝撮影所を買収して、テレビ映画制作の拠点として活用しようと企画したのも、この時期でした。
滝沢英輔、松田定次、中川信夫
[監督研修で国際放映『父子鷹』滝沢英輔組でサード助監。昔の監督は俳優出が多く、まず自分で演じてみせた]
[松田定次の撮影を見学していた時も]
垂水悟郎さんの民芸らしいリアルな芝居が気に入らなくて、テスト、テスト[一向に本番の声がかからず]
松田定次流のいかにも時代劇という芝居を垂水さんが演ってしまえば、新幹線には間に合うでしょうが、もし宇野重吉さんがオン・エアを見たら大目玉…というハムレット状態に陥っているのを、笑うに笑えず…といったことがありました。
(略)
それにしても、滝沢監督はもともと時代劇映画で役者経験豊富な監督でしたから、芝居も実に達者でした。襖を開けて入ってきて、後ろ手に閉める仕草などは、ほんとうに腕の立つ剣士の雰囲気が出ているのですから、かないません。
TBS『朝やけ富士』で、朝丘雪路さんの殺陣に振りの注文をつけて、
「花柳のおじちゃま(新派の大御所章太郎)に見ていただいたら、それでいいだろうって」
と、翌日しっぺ返しを食らったり
(略)
さて、中村竹弥さんの勝小吉が、いい顔をして演技を終えた時でした。
「おめえ、ひとつっか顔がねえのかよお…」
滝沢英輔監督が言ってのけたのです。
ステージに、しん、とした間が生じました。
TBSテレビ開局以来の至宝、専属俳優中村竹弥を摑まえて、「ひとつしか顔がねえのか」とは、よくも言ってのけたものです。(略)
さすがは中村竹弥さん、役者でした。小気味よく、けっして卑屈ではなく、はい、と監督の指示に従って撮り直しに応じたのですが、それがいかにも、小普請組の勝小吉そのままの江戸侍の素敵な風情でした。
(略)
滝沢英輔監督の後を受けて『父子鷹』を監督した中川信夫監督は、対照的な違いを見せてくれました。(略)プロデューサーも新東宝からの仲間だったせいもあったのでしょう、実に巧みな早撮りの腕を見せて、製作費の節減に著しく貢献してみせたのです。
相当長いシーンを、丹念に芝居をつけながら全部通して稽古します。時折動きに注文をつけながら、それを繰り返します。
「行こうか…」(略)
「本番いきます!どんぶりでーす」
助監督が声をあげます。ワン・シーンまるごとを一度に撮ることを、「どんぶり」といいます。
(略)
順撮りのようにどんでんがありませんから、カットごとに、照明を担いだり、襖だの、行燈だのを抱えて動き回ることがありません。
「あそことあそこ、寄りもろとこか」
中川監督の一言があると、その部分だけ、撮り増して、そのシーンは終了です。(略)
[一見手抜きに見えたが]
完成試写を見て、感嘆しました。硬質な滝沢英輔監督作品とは違う味ですが、決して見劣りしない、情味のある中川信夫監督の世界が出来上がっているのです。(略)
予算節減のための安直な早撮りとはまったく違う、名人芸とでもいったものを感じたのです。
撮影所とテレビ局の違い
[TBSドラマの衣装合わせで三原葉子が]
自慢の胸元を、Aカップで締めるか、Cカップで強調するか見てちょうだいなどと、青二才ディレクターの僕をカーテンの向こうから馴れ馴れしくからかったのに、ほどなく撮影所で監督として出会ったときには、先生、先生と呼んで、真摯な態度で接してきたのです。撮影所という所では、青二才の駆けだしであろうとベテランであろうと監督は監督、同じ土俵に立つ人間として扱われるのです。
僕がプロデューサーから登板を知らされたその日のうちに、その噂は所内に徹底して伝わっていたとみえて、翌朝には、正門の守衛さんも、前日までとはうって変って、僕の挨拶にきちっと答礼をして迎えてくれたのです。撮影所という社会での噂の広まり方の速さには、東西、会社の違いに関わりなく驚かされます。
これと同じようなことが、後年、京都の東映撮影所でもありました。テレビ朝日『びんぼう同心御用帳』の監督をしに、東映の京都撮影所に赴いたときのことです。クランクイン初日に、いきなりラス立ち(大詰めの立ち回り)を撮るという厳しいスケジュールを組まれて、深夜まで押して撮り上げたところ、翌朝撮影所入りして、お茶を飲みに立ち寄った食堂のおばさんに、さっそく、
「監督、初日からてっぺん(深夜12待)まわらはったんやて?」
とからかわれたり、前夜、宿から一人で飲みに出たはずが、翌朝にはさっそく、照明の助手さんから、
「監督はん、ゆんべ、千本中立ち売りで、飲んどしたやろ…」
と、にやにやされる、という調子です。
(略)
[国際放映監督第一作『柔道一代・小太刀を使う女』]
撮入初日、ステージのドアを開けて、目に飛び込んできた芝居小屋のセットには、思わず腰が抜けるほど驚きました。(略)劇場映画用の豪華セットだったからです。
(略)
ステージからはみ出さんばかりに建てられた芝居小屋には、舞台はもちろん、花道はおろか、上下のウズラ席から2階席まであって、それこそ、前後左右360度思いのままにキャメラを振り回せる本格的なセットです。(略)
美術デザインの朝生さんが、にやにやして、立っています。
「撮影所はふしぎなところでね、所内をひと回りすると、何でも落ちているんですよ」[と美術の川村鬼代志]
(略)
先に書いた背景屋さんのように、スプレー・ガンひとつで、どんな空でも雲でも短時間のうちに見事に描き上げるスキルの持ち主もいれば、水道のゴムホース一本で、霧雨から、夕立、はては台風の豪雨まで降らして見せる特機さんもいますし、「3コマのヤマちゃん」みたいに、キャメラ前で叩くカチンコに命を懸けて、スタート!の声で叩いて開いて引くまで、一秒24コマのスピードで回転するフィルムを3コマしか使わせない、と称する妙なスキルマン助監督もほうぼうの撮影所にいたのです。
コンビを組んだキャメラマンは、名匠といわれた凝り性の溝口健二監督その他多くの巨匠たちと仕事をしてきた平野好美キャメラマンでした。つねに自家製の弁当持参で、ロケのときなど、昨日の撮休日に自分で釣ってきたハゼの天ぷらをつまんで、僕の弁当にのせてくれたりする好々爺ぶりを見せながらも、たった今、カットの声がかかった瞬間に、すばやくキャメラの絞りに手を伸ばして開放にしてしまう、助手にさえ隙を見せないプロの厳しさを見せる人でした。(略)
もちろん、監督にもキャメラのファンダーを覗かせません。(略)
[それでも]ラッシュを見て違和感があったカットは、全くありませんでした。
そんな具合で、気持ちよく監督デビュー出来た私ですが、ある日、折角いい気分で撮影しているところに現れたのが、見学に来たTBS映画部の上司です。
「おい、飯島君、まだ前回の日当仮払いの精算が済んでないようだから、急いでくれね…それに、勤務表も」
(略)
嘘ではなく、目の前のスタッフ俳優一同が消えてなくなってくれ、と思うほどの恥ずかしさでした。
社風の違いでしょうか。片や、同じ時期に撮影に入っていた『俺はども安』で、フジテレビから来りこんできた五社英雄さんのほうは、社旗が立った黒塗りハイヤーを2台連ねての登場で、ちらと見た撮影現場でも、黒服を着た局員らしき人たちが、甲斐甲斐しく身の回りの世話をしていましたっけ…。
映画監督協会加入
ちょうどこの頃は、映画と、テレビの関係に、大きなうねりが生じていたときでした。(略)
5社(一時は6社)協定を盾に急成長するテレビを抑圧してきた映画会社が、一方では、テレビヘの進出を目論んで、各社競うようにテレビ部を創設して、映像制作面での連携を図る方針に転換しようとしていたのです。
旧新東宝NACを改称して、国際放映と名付けたのがTBSだという事実から察して、スタジオドラマに呼び戻されることはないに違いないと勝手に決めて、ここを足場に、テレビ映画の世界、いや、劇場映画の世界にまで足を踏み込んでみたい、と思い始めたところで、不思議なことに、TBSでは、テレビ編成部経由で、われわれディレクターに意外な働きかけがありました。映画監督協会に加入しないかというのです。
日本映画監督協会でも、大島渚を中心にした若手監督たちが、協会の旧体質を改変するために、協会未加盟の若手監督や、テレビ・ディレクターに働きかけて加入を勧誘し、監督協会の理事改選でリーダーシップを握ろうと企てていたのが、スペシャリスト育成の必要性を模索していた局側の思惑と合致したのではないでしょうか。参加は任意、会費は自己負担という条件で、ひとまず中川晴之助、円谷一、実相寺昭雄、樋口祐三、僕といったメンバーが入会することになりました。
以来、僕の手帳は、電波料金などが書かれたTBS支給のものから、フィルム・フィート数と秒数の換算表の付いた映画監督協会の赤い手帳(初期は茶色)に変わったのです。
オプティカル・プリンター
昭和39年、円谷英二監督が渡米して発注したオックスベリー社の最新鋭光学撮影機(オプティカル・プリンター)の購入を認めなかった東宝と、役員でもなかった大森直道編成局長の独断で肩代わりしたTBSとの違いに、退潮する映画産業と、テレビ局の関係が浮き彫りにされていると思えるのです。そのプリンターは、当初は、3000万円とも4000万円ともいわれていましたが、それは本体の価格で、大量なアクセサリーを含めると、1億に近いのだという噂もあった高価な買い物だったのですから、驚きます。
(略)
新鋭プリンターは、TBS映画社の管理下で運用されて、結果的には、劇場映画やテレビ映画よりも、むしろCMフィルムでの使用が、多大な利益をもたらしたのです。
「庇を貸して母屋を取られる」といいますが、皮肉なもので、当時、円谷プロの『ウルトラQ』光学撮影スタッフのボヤキは、
「このくそ忙しいのに、貸してもらえる時間がなかなか取れやしない!」
次回は、いよいよウルトラマン話へ。