呉智英の吉本隆明批判本がかなりヒドイ

今から呉智英吉本隆明批判本がいかにヒドイかということを検証していくのだけど、呉智英をエライと思っている(いた?)人間としては、呉がアホだと証明していけばいくほど、こちらもアホだということになり、非常に気分が暗くなる作業なのである。
この本の一番不愉快な部分は呉の都合のよい吉本像に、さりげなくミスリードするやり方。
例えば「かつて吉本は戦後思想家ベスト3の一人だと語り、自著読書ガイドで吉本の「共同幻想論」を重要とした呉智英は、吉本の死後すぐ彼についての本を出した」と書いて、事実誤認はない。しかしここには呉智英が吉本信者であるかのような印象を与えようとする悪意が後ろにある、そう、正確には「客観主義的な言い方をしますと」というフレーズが「ベスト3に入る」という見解の前についている等々。こういうやり方はあまりフェアなものだとは思えない。ところが呉はそのようなちまちまとした印象操作をうすーくちりばめているのです、吉本の考えが理解できてないことより、そのセコイ感じがなんだかヒドク不愉快。
民主主義をぶった切る封建主義者として颯爽と登場した過去の栄光がネトウヨ増殖で薄れていく中、自分のみが吉本マンセーの言論界に異を唱えているというテイをとりたい呉センセイは、しらじらしく一目置いている学者として鹿島茂を登場させ、あの鹿島でさえ吉本信者なのだと嘆いて見せるのだが(それでいて同じ第一章で悪文仲間小林秀雄批判者として登場させてみたり、第五章では「どうも鹿島も『言語美』と『共同幻想論』は敬遠してる」と書いて『共同〜』をけなすのに使ってみたりと、場面場面で都合のいいように使いまわす)、実際の鹿島の本(→kingfish.hatenablog.com)は「永遠の吉本主義者」ですら有効としてるのはこれだけなのかといえる内容であり、ある意味、吉本に敬意を払いつつ呉よりも厳しい評価を下しているともいえる。脇の堅かったこれまでの呉なら、ほーら、吉本主義者でも評価できるのはこれくらいなのだと書いてもおかしくないのだが、どうしても自分だけが吉本幻想にとらわれていないと印象付けたいらしいw。

吉本隆明という「共同幻想」

吉本隆明という「共同幻想」

小田実死去の際に呉は「小田が大東亜戦争の二面性教えてくれた」から(なんだかとってつけたような理由だ、そもそも小田以外でもいくらでも言っているだろうに)「小田の市民運動の“偉業”を讃えた」ものや「“単純な反戦派ぶり”を皮肉ったものが並ぶ」だけじゃ気が済まんと脚注1のような追悼文を書いている。*1
たかだかそんな理由で小田を篤く弔った呉が、なぜもこのように吉本を矮小化した本を書くのか理解に苦しむのである。小田は過小評価で吉本は過大評価されているというのか。こうまでしないとおさまりがつかないほど大きなものが呉の中にあったのだろうかと逆に意外な気持ちになる。
多分何も知らない人がこの本を読めば、吉本は中身のなさを難解悪文で煙に巻いて誤魔化していたテンプラ思想家なのだなと思うだろう。呉は徹頭徹尾一度も吉本などにイカれたことも理解できたこともないと言い続ける。ほんとうにそれでいいのか、そんなことをすればするほど自分のバカがさらされていくだけなのに。

  • 第一章「マチウ書試論」、なぜフランス語?

呉は吉本が、フランス語版聖書を使って「マタイ伝」を「マチウ書」、「イエス」を「ジェジュ」とした理由がわからない、とぐだぐだ推測を重ねて、日本語としておかしいだの、これはきっとこけおどかしのためだ

そういう難解な吉本隆明を「よくわからんが、とにかくすごい」と感心してきたのは、作者と読者の「共同幻想」だった。私はそう思う。

と胸を張る。妄想する前に、これでも読めばよかったのに。(→kingfish.hatenablog.com

なんか照れくさくてか馬鹿らしくてかわからないけど(笑)、あからさまに新約聖書のマタイ伝について書いてあって、主人公がイエス・キリストだっていうふうには書く気がしなかった。

なぜ吉本は照れくさいのだろうか。皇国思想にイカれた自分が戦後指針を失くしてキリスト教を齧ったこと?「マチウ」を書く時に愛読していた芥川と太宰のキリストを題材にした小説が頭にあったからじゃなかろうか。芥川の「

「マチウ」は殆どが人の研究をまとめただけで、わずか3ページの最後のまとめは「人生いろいろ」みたいなあたりまえのことを言ってるだけだと印象づけたい呉は
P28

吉本隆明は「マチウ書試論」の冒頭から九割以上をマタイ伝の成立、すなわちイエス像の成立の批判的分析に当てる。

という文章の少し後にこう続ける
P30

繰り返すが、「マチウ書試論」の前半部九割は、マタイ伝とイエス像の成立について、キリスト教教理の外側で蓄積された当時の主要な研究をまとめたに過ぎないということになる。

さてこれは天然なのか作為なのかどっちなのだろう、普通の人は「ああ「マチウ書」の九割は人の研究をまとめただけなのね」と思うのではないだろうか。「冒頭から九割」と「繰り返すが」&「前半部九割」を重ねた言葉のマジックです。そもそも「研究をまとめた」と「研究をもとに考察した」とは大分ちがうが(これはこの後すぐ検証)、まあそこは譲っても「研究をまとめてる」のは「前半部九割」なので、45%なのです。「まとめただけが九割じゃねえよ」と苦情が来たら、いや「前半部九割」と書いてますと答えるけど、うっかりさんたちは「九割」だと誤解して吉本をバカにしてねというわけだ。御苦労なことです。「繰り返すが」を削って、「「マチウ書試論」の前半部殆ど」と書けばよかろうに、それともこれが呉流「悪文」なのかw。

  • ほんとうに「主要な研究をまとめたに過ぎない」のか

以下「マチウ」から長々引用するので、なんだかメンドーだという人はサクッと飛ばして、その先の呉の分析とそれに対するこちらの検証を先に読んでから、戻ってください。
まず第一章から。
長いだけの序とバカにしている呉が読むべきだった箇所は「デカ字」にしてみた。
以下講談社文芸文庫のページ数を目安につける。
57ページからのスタート。

P59
マチウ書の、じつに暗い印象だけは、語るまいとしても語らざるを得ないだろう。ひとつの暗い影がとおり、その影はひとりの実在の人物が地上をとおり過ぎる影ではない。ひとつの思想の意味が、ぼくたちの心情を、とおり過ぎる影である。
P71
[ある研究者はジェジュが家族感情を欠いている点にパラノイアの徴候をよみとったが]
ぼくはたとえば、マチウ書の主人公ジェジュが家族感情を欠いているように描かれているとき、そこに作者の思想の徴候をよみとるべきではあるまいか、と考えるのである。
P73
マチウの作者によって造型されたジェジュの性格には、苛酷さとアガペ的な愛との分裂、教義的な隣人愛と人間性憎悪との分裂、人間心理の暗さを嗅ぎまわる異常に鋭敏な感覚などが、よくあらわれているが、それは原始キリスト教が絶望的な現実のなかで本能的にそだててきたものの象徴にほかならないと言うことができる。ジェジュは、たしかにヘブライ聖書を種本にしてつくりあげた象徴的人物にちがいないが、その性格は、原始キリスト教の思想的なアンビヴァランスによってうらづけられている。言わば、ここで思想的な表現というものが到達できる最大限の力によって、象徴的な実存が、歴史的な実存へ転換する操作がおこなわれている。
P74
作者は、自己愛と緊張症とのいりまじった夢想家的なジェジュが、現実のささいな場面にあしをすくわれてつまずくさまをかんがえる。そこには、マチウの作者の、にがい実感がこめられている。人間心理の異様な病理につうじていた、この原始キリスト教最大の思想家は、ここではじめて、愚劣なこじつけを離れて、思想となってばらばらになったジェジュの肉体をくみあわせる。
(略)
己れの卓越性を過信してやまなかったマチウ書の主人公は、むらむらと近親憎悪がよみがえるのを感ずる。
(略)
ここには、思想が投影する現実と、生理が投影する現実とのあいだの断層を、あかるみ出そうとする意企があると言えるが、それは原始キリスト教が、人間の実存の条件として、はじめて自覚的にとりあげたものであった。そうして、人間の存在にまつわる永遠の課題が、ここにあるとは言えないまでも、いろいろな型の理想主義的思想がつきあたる、心理的な課題がここにあったのである。
P77
マチウ書のジェジュの性格的なアンビヴァランスは、ここでは、主観が投影する現実と、主体的に存在する現実との、アンビヴァランスとして、おきかえることができる。現実が強く人間の存在を圧すとき、はじめて人間は実存するという意識をもつことができる。ここで人間の存在と、実存の意識とは、するどく背反する。
(略)
原始キリスト教は単に存在する現実を、人間の実存の意識と分裂させるために、倫理というものを社会的秩序と対立するものとして把握する。なんとなれば、現実的な秩序というものは、かれらにとって動かすことのできないものとして考えられたからである。ここから現実的に疎外され、侮蔑されても、心情の秩序を支配する可能性はけっしてうばわれるものではないという、一種のするどい観念的な二元論がうまれ、現実的な抑圧から逃れて、心情のなかに安定した秩序をみつけ出そうとする経路がはじまる。
P79
原始キリスト教は、ここでユダヤ教における律法の社会化された倫理を無視して、神と人間とのあいだの、いわば心情の律法とも言うべきものを選択し、拡大していった。

次が第二章。
ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』「大審問官」のジェジュと悪魔の対話を題材にして

P96
[ドストエフスキーの解釈のあとに]
だが、ぼくは別の解釈の方向をたどり、原始キリスト教の思想的特徴へゆきつこうと思う。それがぼくの目的だから。
P97
[神と直結するために40日断食しているジェジュに悪魔は、飢えているなら神の奇蹟で石ころをパンにすればいいだろうと言う]
何となればジェジュよ。おまえは現に飢えている意識を否定することはできないだろうから。悪魔の問いはそこを鋭く衝くことになる。ジェジュは、たしかに、四十日、四十夜、断食して飢えたのであり、飢えるということが回避できないかぎり、悪魔によればそれは人間の現実的な条理が捨てきれなかったと同然である。それならば、ジェジュの選択――生の条件よりも神との直結性の意識をえらぶという――は、はじめから不条理ではないか。
P98
ジェジュにとっては、荒野の石ころをパンに代えるということは、神と己れとの直結性の意識を捨てよということとおなじだ。何となれば、荒野の石ころをパンに代えることが、倫理的タブーとして信じられたから、四十日、四十夜断食したのだから。言わば、悪魔の問いは、ジェジュにとって、己れが神と直結しているという意識を捨てて、しかも神と直結している証しをみせよ、ということにひとしい。これは不可能だ。不可能であることのなかに、原始キリスト教の、神と人間との関係がなければならぬ。ジェジュは、当然、この悪魔の問いを拒否する。しかも、不可能である理由をしめさなければならない。ジェジュはこたえる。
 「人間はパンだけで生きるものではなく、むしろ神のロから出るすべての言葉によって生きるだろうと記されている。」と。
P99
 人間はパンだけで生きるものではなく、と言ったとき、原始キリスト教は、人間が生きてゆくために欠くことのできない現実的な条件のほかに、より高次な生の意味が存在していることをほのめかしたのではない。実は、逆に、人間が生きるためにぜひとも必要な現実的な条件が、奪うことのできないものであることを認めたのである。つまり、悪魔の問いがよって立っている根拠をくつがえしたのではなく、かえって、それがくつがえし得ない強固な条理であることを認めたのである。だが、原始キリスト教の立っている条理は全く別だと、マチウの作者は言っているのだ。即ち、「むしろ神のロから出るすべての言葉によって生きるだろう。」と。
P101
神の口から出るすべての言葉によって生きるというのは、人間の現実的な条件とは別のところで、神の倫理を自立させ、ほとんど、人間の生きることの意味を現実的なもの一切から隔離してしまうことにちがいなかった。
(略)
現実的な秩序から圧迫され、疎外されたものが、心情のなかに逃亡しようとするとき、この原始キリスト教がこしらえ上げた思想の型をのがれることは不可能である。マチウ書以後、人間の実存の意味づけは、現実から心情のなかに移される。これは危険な誘惑である。

ここまでが呉が「研究をまとめたに過ぎない」とする「前半部九割」w。
ここから第三章。

P112
ぼくたちは、ここにあらわれた被害感覚が、どんなに陰惨な現実的な相剋と迫害によって裏うちされているかを、いやおうなしに理解させられる。迫害をうけたら喜べというのは、いったいどういう心理なのか。天においてつぐなわれるというのは、幻影をもって、現実的な迫害の代償とするということではないか。信ずることの苛酷さを、これほどまでにあばき出した例は、原始キリスト教を除いては考えられない。
P115
ジェジュを三度否んだピエルや、ジェジュを裏切ったジュドなどという架空の人物をつくりあげ、それらの人物に、人間のいいようのないみじめさや、永遠の憎悪を集中した原始キリスト教の冷酷さを、おもい出さないわけにはいかない。人間性の暗黒さにたいする鋭敏な嗅覚と、その露出症こそは、原始キリスト教のもっとも本質的な特徴のひとつである。かれらは、人間性の弱さを、現実において克服することのかわりに、陰にこもった罪の概念と、忍従とをもちこんだ。「悪人に抵抗するな。若し右の頬を打つものがあったら、またもう一方の頬もさし出せ。」もしここに、寛容を読みとろうとするならば、原始キリスト教について何も理解していないのとおなじだ。これは寛容ではなく、底意地の悪い忍従の表情である。
P123
[マチウの作者が]人間心理の一元性という制約のなかでしか、思想と実践は結びつき得ないということを知らなかった筈がない。キリスト教は、秩序と和解したとき、この思想と実践との契機をうしなったのであり、支配権力と結びついたとき、教義の体系化と論理化とをなしとげ、自らが、がんじがらめの迫害網をつくりあげることで、マチウ書の天につばしたのである。
P124
原始キリスト教の支配はやさしく、その荷はかるい。なんとなれば、人間の相対性のむこうがわに、既に幻影や虚構ではない生の意味の極北をみたものは、ほんとうの優しさと安息とが、こういう冷静な形でやってこなくてはならないことを知っているだろうから、とマチウの作者は言っているのだ。
P125
[「わたしより父または母を愛するものはわたしに価しない」といったジェジュの言葉でマチウの作者は]
ユダヤ教の教義のなかにあらわれている相対感情を非離したのであると言える。マチウの作者は考える。「おま之の父と母とを敬え」という律法は、すくなくとも神から与えられたものとしての支配力をうしなって伝承的な習慣にまみれてしまっている。ユダヤ教は、これを実行できない人々の相対感情にたいして、せめてわが敬愛は神にささげたと弁解すれば、ゆるされるという解釈を与える。これはとりもなおさず、人間の相対性をうわぬりするのに、また相対性をもってすることに外ならない。ユダヤ教は、神の律法にたいする、人間の現実的な生の背理をさけるために、律法の解釈をゆるめるだけである。
 伝承のために神の言葉を廃してしまう、という作者のユダヤ教派にたいする非難は、じつは神にたいする人間の存在の乖離という意識から、罪障感をみちびき出した原始キリスト教ユダヤ教にたいする思想的な非難にほかならないと言える。要するに、形式主義もへちまもない。ユダヤ教と言い、原始キリスト教と言い、マチウ書にあらわれた限りでは、人間の倫理的な相対性が意識された、言わば神なき古代人のあいだの宗教であった。
 原始キリスト教ユダヤ教にたいする憎悪と敵意とは、思想的な近親憎悪と言うことができる。
P129
ここで社会的倫理性と連帯性を放棄する代償として、原始キリスト教が濫発している空手形は何を意味しているか注意する必要がある。
P130
[なぜこのような迫害を受けるという問いへの]
ジェジュの答えは、相対的な情況のなかに関係づけられている人間性を動かす力はない。ただ人間の絶対感情と相対感情との無限の距離の無意味さを感じさせるだけだ。(略)
かれらの約束する天の王国や永遠の生命は、認識における現実感からはなれて、読者につうじない架空の領域をさ迷うだけだ。
P133
マチウの作者がすでに固定し、定型化した宗教的な秩序を、どんな苦々しい感情でながめているかということが、リアルに生理的に描き出されている。抑圧された思想や人間には、いつもこのように秩序が受感される。そして既にできあがった秩序の上にあぐらをかいて固定している思想や人間は、形式主義も偽善もへちまもない。ようするにわれわれは勝者であり、諸君は敗北している。諸君もわれわれと同じような方式をとらないかぎり、決して秩序から疎外されることを免れない。
(略)
キリスト教と言えども、秩序と和解したとき、やはり衣服に長いふさをつけ、宴会では第一席を、教会では第一座をあいしたし、人の肩に荷物をくくって、自らは指で動かそうともしなかったのだ。マチウ書の作者が、ここで提出しているほんとうの問題は、現実の秩序のなかで、人間の存在が、どのような相対性のまえにさらされねばならないかという点にある
 ゆらいこの課題はけっして解かれたことがない。あらゆる思想家がみな見ぬふりをしてきただけであり、すくなくともマチウの作者は、幼稚で頑強なこの課題に、はげしくいどみかかったのである。
P136
外はきれいにして、内がわで掠奪と放縦がみちているのは原始キリスト教とて同じことなのである。原始キリスト教が、いわば観念の絶対性をもって、ユダヤ教の思考方式を攻撃するとき、その攻撃自体の観念性と、自らの現実的な相対性との、二重の偽善意識にさらされなければならない

ここまでが、呉が「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のように長々しい序」とバカする「冒頭から九割以上」に及ぶ「イエス像の成立の批判的分析」です。呉の本だけを読んだ人なら、ははあ、他人の研究を難解悪文でまとめて意味ありげに見せているのだな思ってしまっている箇所です。
以上の引用を読んであなたは自分をエラソーに見せるために長々悪文を連ねているように思えましたか。何かを伝えようと熱く語る吉本の姿が浮かびませんか?

  • 「関係の絶対性」が「関係の客観性」?

その教典、教団の成立過程を検討すれば、真理であるとは揚言できないだろう、というキリスト教研究史の確認であり、[60ページにわたる]この長々しき序によってようやく吉本は主題を導き出す。

このようにまとめて[こう書けてしまうことだけでも、呉がまったく吉本の意図を理解できてない証拠なのだが]、「関係の絶対性」というキーワードを解析しようと呉は「マチウ」の最後の三ページから引用するのだが、吉本の意図を理解していないから肝心のところを引用していない。
呉が引用していない肝心な部分は「デカ字」にしてみた。

 秩序にたいする反逆、それへの加担というものを、倫理に結びつけ得るのは、ただ関係の絶対性という視点を導入することによってのみ可能である。
(略)
加担の意味は、関係の絶対性のなかで、人間の心情から自由に離れ、総体のメカニスムのなかに移されてしまう。マチウの作者は、律法学者とパリサイ派への攻撃という形で、現実の秩序のなかで生きねばならない人間が、どんな相対性と絶対性との矛盾のなかで生きつづけているか、について語る。思想などは、決して人間の生の意味づけを保証しやしないと言っているのだ。
 人間は、狡猾に秩序をぬってあるきながら、革命思想を信ずることもできるし、貧困と不合理な立法をまもることを強いられながら、革命思想を嫌悪することも出来る。自由な意志は撰択するからだ。しかし、人間の情況を決定するのは関係の絶対性だけである。
ぼくたちは、この矛盾を断ちきろうとするときだけは、じぶんの発想の底をえぐり出してみる。そのとき、ぼくたちの孤独がある。孤独が自問する。革命とは何か。もし人間の生存における矛盾を断ちきれないならばだ。

と上記のデカ文字じゃない部分を引用して、たいして斬新なことは言ってないとし、吉本自身も「絶対性」はまずかったと「客観性」と訂正してると、1970年の文章を引いてくる。
分からなくて引用できないのか、わざと引用しないのかわからないが、呉がまたも引用しそこねている部分を「デカ字」にしておいた。

思想の真理を保証するのはなにか。なにかわからないとしても、それが思想の数だけ恣意的にあらわれる主観的な〈確信〉や〈正義〉ではないことだけは確かである。これははっきりつかめなかったが、〈関係の絶対性〉と名づけることができるようにおもわれた。ここであらわれる〈絶対性〉という言葉は、観念の問題でないとすれば〈客観性〉とよぶべきところであった。
[以下、なぜか呉が引用しなかった文章がつづく]
そこで、わたしにとって、人間の社会的な存在の仕方のなかにあらわれるこの世界との関係の総体はなにか、それはどのような基軸によって構造的に把えることができるかという問題が、おぼろげながらあらわれたのである。もしこれが解きつくせるとすれば、それは〈関係の絶対性〉の具体的な内容となりうるはずであり、それは思想の党派性の彼岸にある人間と世界との関係の絶対性として、すくなくともあらゆる思想が現実のさまざまな場面でつきあたる接点の領域に関するかぎりでは、思想の真理性の基準となりうるはずである。この問題が幻想論の領域として確定されるために、すでにわたしは十数年を使ってしまった。

以上のデカ字じゃない部分だけを引用して、このように呉は吉本を矮小化する。

 思想はその思想の側で自ら真理であると主張しても、それは主観に過ぎず、客観性はない。客観性は、思想そのものの内側に求められるのではなく、思想が成立している社会関係、人間関係の中に求められるべきである。自分は十五年前に「関係の絶対性」と言ってはみたものの、本来は「関係の客観性」と言うべきだった。こういう述懐である。なぁーんだ、あの難解な「関係の絶対性」って、この程度のことだったのか。
 いや、これでも日本語としてあまりこなれてはいない。「関係は客観的」とすれば、もっと分かり易い。「思想は主観的、関係は客観的」と対比的にまとめれば、さらに分かり易くなるだろう。そして「関係の絶対性」なんて言ったって、ほとんど常識論を出ていないことが分かるだろう。

ああ、アホである、悲しくなるくらい、アホである。
「観念の問題でないとすれば〈客観性〉とよぶべきところであった」と書いてあるでしょう、呉さん。観念の問題だから、客観性じゃすまないのですよ。そこがわかってないから、吉本が「人間の心情から自由に離れ、総体のメカニスムのなかに移されてしまう」「人間の社会的な存在の仕方のなかにあらわれるこの世界との関係の総体はなにか」「思想の党派性の彼岸にある人間と世界との関係の絶対性」と書いている意味がわからないんだよ。
さらに講演「幻想論の根柢」から引用するなら(→[https://kingfish.hatenablog.com/entry/20130128:embed:cite])

わたしたちはどうしても個体の倫理とか善悪とか宗教とかから、この共同意志の世界を覗こうとして、そのはざまに矛盾と分裂にさらされてゆきます

共同の目的、意志と個人の意志とのはざまに引き裂かれて苦悶するという、阿呆らしいことはしなくてもすむのではないか、そういう意味での倫理的なことは、解除されるのではないか

「おれはみんなのために革命をやっているのだ」と信じている男が社会の中に現れる自分を見るとテロリストになっている。「なーんだ、『関係の客観性』なのか」で済むなら、失礼しました、社会の皆さん、ゴメンナサイ、心を入れ替えて一市民として出直しますで済む。だが「観念の絶対性」をもって自分は正しいと信じる人間が、社会の中での自分がテロリストであることを認識した時に、何が見えるのか、何を見るべきなのか。「観念の絶対性」「観念の王国」に逃げ込むことの悲劇は呉が「長々しき序」と軽視している部分で散々分析してある。
こちらも絶対、むこうの世界も絶対だとするならば、その間にはなにかがあるはずなのだ。自分が信じるものが、なんらかの経路を通って社会の中に現れると全く逆のように現れるのなら、その経路の謎を解かなくてはいけない。自分の中の「観念の絶対性」の向こう側に、厳然と自分を拒絶するように現れる社会、なぜ自分は社会の中でそんな関係を強いられるのか、そんな絶望的な気持ちが、「関係の絶対性」という言葉になっている。
「関係の客観性」なんていう「人生いろいろ」みたいな認識じゃすまないのだ、なぜなら「観念の絶対性」が自分は正しいと言っているから。わが子が安心して暮らせるようにと思う人が何故社会の中で「関係の絶対性」として現れるとゲバ学生を殴りつける機動隊員になってしまうのか、貧しい人のために革命だと考えた青年がなぜ「関係の絶対性」で一般市民を爆殺するテロリストになるのか、なぜ個人の倫理が共同意志の世界を覗こうとして、そのはざまに矛盾と分裂にさらされてゆくのか、その経路を見つけ出そうとして「この問題が幻想論の領域として確定されるために、すでにわたしは十数年を使ってしまった」という吉本の述懐になるのだよ。
例えば貧民のために革命を起こし政権を取った男が、弾圧された昔を振り返ってどうして人々は俺の同志を弾圧したのだと嘆きながら、ブルジョア供を思想矯正所に送り込み反逆者を人民の敵として弾圧できるのか。それは呉のように「関係の客観性」でモノをみているからだ、昨日は社会の反逆者だったが、今日はめでたく権力者だ。なぜそのようなことが繰り返されるのか、それは「観念の絶対性」と「関係の絶対性」の間の暗い通路を見ないからだ、解明しないからだ、そういうことを考えていたのだと思うよ、吉本隆明は。
とここまででまだ第一章。続きは二週間後かなあ。
[追記]
続きはこれ→[https://kingfish.hatenablog.com/entry/20130222:embed:cite]


[関連記事]
[https://kingfish.hatenablog.com/entry/20130125:embed:cite]
[https://kingfish.hatenablog.com/entry/20130117:embed:cite]
[https://kingfish.hatenablog.com/entry/20130120:embed:cite]

*1:呉智英 小田実
市民運動家の二面性

・2年前に本欄に書いたことと同じことをまた書く。理由は2つ。その1つは、8月は終戦の月だからだ。

 私は40年前の学生時代に、ある本でこんなことを読んだ。「〔帝国主義間の戦争である〕 日露戦争はそうでない側面ももっていた」。「太平洋戦争は…最後は徹底的な敗北で終わったが、西洋に対して戦をいどみ、曲がりなりにも緒戦においては勝利を収めたことである。この事実は、今日、人々はまったく無視して語らないが、日本人(あるいは、西洋以外の他の国々、ことにアジア・アフリカの諸国の人々)に大きな自信をあたえた」。
 日露戦争でアジアの新興国日本が大国ロシヤを破ったことはトルコなどを力づけた。
 太平洋戦争(大東亜戦争)も、結果的には敗北であったが、日本の奮闘はアジア・アフリカ諸国の励みになった。この事実を、戦後わずか20年の当時「人々はまったく無視して語らない」と著者は慨嘆するのだ。

 私の周囲にも「この事実」を語る人はいなかった。この本は『日本の知識人』(筑摩書房)である。「断」に拙文が載ると、著者から礼状が届いた。自分を単純な“反戦派”として批判する輩が多くて困る、自分の本を読んだ上での批判なら歓迎だ、というようなことが書かれていた。著者は、小田実である。

 7月30日未明、小田が亡くなった。自民党参院選大敗が決まった頃だ。朝日新聞は追悼記事で、これと関連づけるかのように小田の市民運動の“偉業”を讃えた。来月の保守系論壇誌には小田の“単純な反戦派ぶり”を皮肉ったものが並ぶだろう。だが、大東亜戦争の二面性を40年前に強調した小田の二面性も忘れてはならない。私が同旨の文章を本欄に再び書く第2の理由は、死者の業績を正しく伝えたいからだ。(評論家・呉智英