吉本隆明1968 鹿島茂

呉智英吉本隆明批判本がかなりヒドイという話をやる前に、そこに出てくる鹿島茂のこの本を引用しておいた方がよかろうということで。

鹿島茂が「永遠の吉本主義者」なんて意外と思ったら、評価してる点は、非インテリ家庭からインテリになった吉本へのシンパシーと、あの時代に反スターリン偉かった、インテリ道に邁進してよしと言われた感動だけのようなw。
でもとりあえず呉よりはずっと誠実に自分がアリだと思う、吉本について語っている。
順番を入れ替えて、大雑把に引用するので、流れが掴めないかも知れません、実物を読んで確認してください。

鹿島茂吉本隆明評価

耳慣れぬ左翼用語で「おまえは、プロレタリアの犠牲の上に胡座をかいているプチブル・インテリにすぎない」と恫喝されると、親掛かりであることに良心の疚しさを感じている学生は、真面目であればあるほど「はい、ごめんなさい。学生で悪うございました。これからは、私も一般学生を前衛党に引き込む勧誘員になって革命のために尽くします」と全面的に平伏することになったのです。
 吉本隆明が痛撃したのは、この異常なる「常識」でした。

学生というのは、前衛党によって組織され、プロレタリアの隊列に組み入れられることを「待っている」「そうなるほかないように位置づけられた」存在では決してなく(略)もし、学生が運動を起こそうとするなら、プロレタリアに奉仕するためではなく、「インテリゲンチャ大衆運動として自立」するしかないということなのです。

 思うに、吉本隆明が一九五〇年代から七〇年代にかけて偉大だった理由は簡単にいうと二つあります。
 一つは、フルシチョフによるスターリン批判以前に、断固として反スターリン主義を打ち出して、スターリン主義に搦め捕られていた左翼を覚醒させたこと。(略)
 もう一つの理由は(略)黒田寛一などの反スタ左翼に対して、「そんな〈説教師〉的な方法論では、大衆が解放されるわけはないじゃないか」と激しくかみついたことにあります。

 左翼政党やその同伴者であるマスコミが、「腐敗堕落している金権ブルジョワ」をどやしつけるために使うレフェランス(参照イメージ)は、いつの時代でも「額に汗して働きながら、永遠に報いられることのない労働者」、いまふうに言えば「ワーキング・プア」の人たちです。
(略)
[「党生活者」の主人公は寄生している「笠原」が立ち仕事のつらさを訴えると、女工哀史を語ってプロレタリア全体のつらさと考えろと説教]
左翼マスコミは、「笠原」のようなかなりつらい境遇に苦しむ読者がいたとしても、「党生活者」の「私」のように、「よく考えてみなさい。世の中には、あなたよりももっとつらい境遇に呻吟しているワーキング・プアがいるのですよ。あなたの苦しみなんかまだましなほうではないでしょうか? 彼らの苦しみと連帯する方法を考えなさい」と諭すことで、自分のいかがわしさを隠し、それと同時に、「笠原」が苦しみから抜け出す道を断ち切ってしまうのです。
 そして、日本が豊かになり、そうした「理想像」が国内に見つからなくなってしまうと、今度は、この「理想像」を求めて、アジアに、アフリカにと旅立ち、それこそ、草の根わけてもこれを探してこようと張り切るのです。

 では、こうした「絶対貧困」のイメージを利用した一種の恫喝は、いったいどこがどういけないと吉本はいうのでしょうか?
 思うにそれは、「引きずり下ろし民主主義」を正当化してしまうからです。つまり、抜け駆けは許さないぞという相互監視システムに通じる超低次元での平等ユートピア、冷戦時代のソ連、中国で機能し、北朝鮮ではいまだに健在の、いわゆる「収容所群島」の論理がそこから現れてくるのです。

[それ対し吉本はこう述べている] 

 個々のプロレタリアは「自分だけ」がつらさから逃れる環境をもったとき、一人でも多くそこから逃れなければならない。そういう論理によってしか個々の環境におかれたプロレタリアとプロレタリア全体とをつなぐ問題はでてこない。「私」という人物は、自分が「笠原」に寄生しながら、「笠原」をよりよい生活条件に引き出そうと考えてみたこともないくせに、いつも、「笠原」よりも劣悪な条件にいる個々の大衆の環境をひきあいに出して、いわば倫理的に「笠原」を脅迫し、生活費の甘い汁だけは守ろうとするのだ。

  • 大衆の原像

吉本は、次のようにはっきりと言い切っています。


 わたしのかんがえでは、庶民的抵抗の要素はそのままでは、どんなにはなばなしくても、現実を変革する力とはならない。
 したがって、変革の課題は、あくまでも、庶民たることをやめて、人民たる過程のなかに追求されなければならない。
 わたしたちは、いつ庶民であることをやめて人民でありうるか。
 わたしたちのかんがえでは、自己の内部の世界を現実とぶつけ、検討し、理論化してゆく過程によってである。この過程は、一見すると、庶民の生活意識から背離し、孤立してゆく過程である。
[以下引用者により略]


 この文章が書かれたのが昭和三十年(一九五五)十一月三十日発行の『詩学』であったことは、その後の吉本の思想的展開を知るわれわれにとっては驚異的なことのように思われます。なぜなら、ここには、吉本が「転向論」や一九六〇年の安保闘争を経た後に全面展開することになる大衆の原像論のエスキースが明確に描かれているからです。すでに、この時点から、吉本隆明吉本隆明であり、その後、ほとんどブレることはなかったのです。

 私は、一九六八年に、この知識人の定義を読んで、文字通り「ガーン!」となったことをはっきりと覚えています。
 では、なぜ「ガーン!」となったのでしょうか?
 それは、吉本が、知的過程に入り込んだ者は、いったん大衆の引きこもる生活領域を離脱したら最後、最終的には「世界認識としては現存する世界のもっとも高度な水準にまで必然的に到達すべき宿命を」もっているし、その宿命はまったくの「自然的な過程」であるとしたことです。
 これは、いかなる大衆であれ、条件が整えば、知的過程に入り込み、世界性や普遍性へと上昇を遂げてゆくことは、自然的過程であるということを意味します。いいかえれば、大衆が知識人となることは、それ自体として「良いこと」でもなく、また「悪いこと」でもない、「自然の過程」なのです。
(略)
私が知的上昇によって、自らの出自である下層中産階級から離脱することも、また、そこから乖離し、疎遠になっていくことも、「自然過程」である以上、「悪」でもなければ「善」でもないというわけです。

 では、なにゆえ、「大衆の存在様式の原像」は誤解を受けやすいのでしょうか?
(略)「大衆の存在様式の原像」もまた、自然過程であるのに「有意義性」を持つものと見なされがちであるからです。大衆が生活領域を出ることがないことは、知的過程に入ることが「偉い」わけでもなんでもないのとまったく同様に、「偉く」もなんともない、「自然」のことなのです。ところが、「大衆」という言葉に擦り寄って、それを隠れ蓑にしたい大衆迎合論者は、まさに「大衆イコール偉い」と思い込みたがり、その結果、贔屓の引き倒しの原理で、吉本を自分の仲間と見なして大いなる誤解をすることとなるのです。また、その反対に、知的上昇過程を「偉い」と思いたい人たちは、「大衆の存在様式の原像」にこだわる吉本を「大衆迎合論者」と切り捨てることになるのです。

私が網野史学に接したときに感じる違和感も、吉本が戦後プラグマチズムに感じたそれと同質のものでした。


[戦後プラグマチズムの言語思想は]土俗的な言語が原型ではあるがそれ自体ではなにも意味しないこと、あるいはなにも意味しないが原型でありうること、という矛盾した構造をもつことをとらええなかった。そこでは、大衆的な言葉がそのまま大衆的な思想の現実であるかのようにあつかわれてきたのである。


 そうなのです。網野史学が中世の職人や芸人や娼婦などの漂流民を取り上げ、そこに可能性としての「アジール」を求めたのは、「何となく被支配者的であり、また何となく原型的であり、そしてこの何となくということに大衆の発生期の状態(ナッセント・ステート)と可能性が想定される」からなのでしたが、実は、そうした仮説は、職人や芸人や娼婦などの残した俗謡や芸能の言葉をそのまま、彼らの思想の現実であると解することで導き出されたものではないでしょうか?
 しかし、吉本は、こうした戦後プラグマチズム(その後継者としての網野史学)的な大衆言語把握は、それ特有の結節や屈折や捩れや逆立ちというものを考慮に入れていないがために、失敗に終わらざるを得ないとして、次のように断言します。

うーん、疲れたので明日につづく。