吉本隆明とアカデミズム・サブカル論のちがい

吉本隆明サブカル論とアカデミズムのオタク論(「前田敦子はキリストを超えた」の類w)は全く別物という橋爪大三郎の見解。2003年のインタビューを元にした本。

永遠の吉本隆明【増補版】 (新書y)

永遠の吉本隆明【増補版】 (新書y)

オタク的大衆文化研究がどうして起こってくるかというと、アカデミズムの方向感覚喪失や自己崩壊があります。
(略)
こうして、アカデミズムも、ファッションになるわけです。その結果、課題よりもプロセスが大事だということになり、どういう方法を使ったとか、他の人間よりも早くやったとか、そういうことが大事になる。そうすると、研究の対象は何でもよくなるのです。
 とはいえ、なかなかその変化は気づかれません。はじめは問題意識がないということを気づかれないように、問題意識があるフリをして、古典的伝統的なテーマを研究していくわけです。ただし内容は空疎になります。そのうち、問題意識がないことが見え見えになってくると、問題意識がないことに居直って、そのほうが新しいというスタイルをとり始める。問題意識がないことを見せびらかすためには、どんなテーマであれ、こんな方法ですばらしく料理できるという研究になります。たとえば、どんなテーマでも構造主義の方法で分析できるぞとか、どんなテーマでも権力分析、言説分析でやってやるぞとか、そういうスタイルになります。これはかなりのニヒリズムだと言っていい。
 どんな対象でもいいということを、ことさらに見せびらかすためには、サブカルチャーを対象にすればいいわけです。サザエさんとかウルトラマンとか、誰が見ても学問的に研究の価値があるとは思えないものを、研究の対象にすればいい。これはスノビズムです。こうしてアカデミズムが、堂々とサブカルチャーを対象とするようになった。
 さらに進んでいくと、サブカルチャーの活動と、アカデミズムの活動とが区別がつかなくなって、アカデミズム自身がサブカルチャーである、という意識になってきます。これがつまりオタク的学問、あるいは学問的オタクです。いまはこういう状態です。
(略)
[こういう人達には吉本がサブカルを論じているのは同じことをやっているように見え]
俺たちと同じであれば、新しくないから、読まなくてもいい、こうなります。オタク的学問と同じに見えてしまうわけです。
 ところが、吉本さんには倫理性がある。サブカルチャーを扱わなくてはならない、という必然があるわけです。サブカルチャーは、ハイカルチャーと同じように価値があり、あるいはそれ以上に大事だから扱っている。
 でも、アカデミズムオタクの人びとは、何に価値があり、何が大事であるかということを知らないわけです。そういう感覚がない。あるいは、放棄している。だから、自分にいちばんなじみ深いサブカルチャーを扱うわけです。同じようにサブカルチャーを扱っても、吉本さんは正反対なのだと私は思います。ところが学問的オタク、アカデミズムオタクからすると、吉本さんがなぜそうしているのかが見えない。

マス・イメージ論 (講談社文芸文庫)

マス・イメージ論 (講談社文芸文庫)

ハイ・イメージ論〈1〉 (ちくま学芸文庫)

ハイ・イメージ論〈1〉 (ちくま学芸文庫)

吉本隆明はメディアである(1986)

 吉本が未来社会を遠望するとき、なぜ世界視線を背にすることを有効と感じるか? それはたぶん、彼が、客観的な歴史というものを信じたことがあるからだ。マルクス主義の描くような、客観的・目的論的に確定した歴史のルート――これが信じられれば、未来の存在と方向は明らかである。それは、資本主義の向こうに、ない。それがどんなに豊かで、矢のように進歩していくと見えても。しかし、この歴史を信じつづけるためには、今日、あまりにも多くのことに目をつぶり、不条理な教条の鎧を身にまとわなければならない。どうにも、苦しすぎる。
 そこで、この歴史の外に出てしまう。と、その途端に、こんどはすべてが現象の渦巻きと見えるだろう。
 現象の渦巻くところ。そこでは、同時代が互いに覗きこみあう構造(情報化)が生まれ(それしか生まれず)、メディアがそれを加速する。過去の健忘症十未来への本質的無関心。関心が同時代へ圧着される。新人類の基礎的症候群。
 こうしたなかで吉本は、まだ客観的歴史の記憶を保っている。それをどうにか、この時代の足許から発掘しようとする視線を手放さない。(略)ランドサットからの空間的視線がもたらす、時間の拡張。
(略)
 ではなぜ、吉本ばかりが、世界視線の所在を感知できるのだろう? それは、逆説的だが、彼が「アジア的」ということを信じているからだ、と思われる。これはかつて、歴史が出発するまえの原点の位置を与えられていた。それゆえ、歴史が疑われるようになっても、無傷なのである。
(略)
〈日本〉資本制の特徴はと言えば、土着の堆積を巧みに温存しながら、生産システムを効率的に作動させてきたところにある。これをしも「アジア的」と称すのなら、最近の傾向は、この資本制が「アジア的」な特性と共棲し、それをシステムのなかで再現するという戦略をもつようになったことである。吉本はこの点をとらえ、世界都市=東京のもっとも先端的な様相として、アジア的なものと超モダンなものとの同時共在による異化効果をあげるわけだ。
(略)
 資本制がやがて、自然的自然よりも自然な自然を、人工的につくるに違いない、という。ならば、アジア的共和社会よりも共和的な社会をかたどることぐらい、朝飯前のはずだ。吉本は、資本制のまばゆい先端(の像)のなかに、彼の批評的根拠(「アジア的」なもの)が奪われてしまうのを見る。彼の思想は、もう新しさの源泉でない(かもしれない)。新しさは、外部にしかない(かもしれない)。その真偽を確認することに、いま吉本は吸いよせられているように見える。彼の根拠とともに、「解体の思想家」吉本隆明が解体を演ずる。人びとはそれを見て、時代を感得する。この意味で、吉本こそ、時代の最大のメディアなのである。そう言うべきだろう。

三島由紀夫吉本隆明(2007)
うーん、山の手の「大衆の原像」w

 私が非常に無残だなと思うのは――無残だと言いますか、ひどいことだと思うのは――このような[三島の西欧化への]防衛的動機そのものが、西欧的認識によって構成されているということなのです。
(略)
[おぼっちゃんエリートの三島の小説なんて]おれたちは関係ねえ、と沖縄の人も言うだろうし、アイヌの人も言うだろうし、東北の田舎の人も言うだろうし、大工のおっさんやいろいろな人たちがいろいろと言うだろう。こういう人たちに、三島さんは、非常に優しくふるまうのですね。
(略)
 彼が一番嫌いなのは、官僚とか政治家とか、マルクス主義者とか、青ヒョウタンの知識人とか、行動しない知識人とかなのです。行動しなくとも、生活している非知識人には非常に優しい。角度をとりにくいわけです。本来は、彼らを擁護するためのもののはずなのですね。でも天皇と同じで、本来擁護しているはずの彼らのほうからは評価されない。

橋川文三による三島の論理矛盾指摘

 三島さんから吉本さんがどう見えるかは、はっきりとはわからないのですが、たとえば橋川文三さんと三島さんのやりとりがあります。
(略)
「三島よ。第一に、お前の反共あるいは恐共の根拠が、文化概念としての天皇の保持する『文化の全体性』の防衛にあるなら、その論理はおかしいではないか。文化の全体性はすでに明治憲法体制の下で侵されていたではないか。いや、共産体制といわず、およそ近代国家の論理と、美の総攬者としての天皇は、根本的に相容れないものを含んでいるではないか。第二に、天皇と軍隊の直結を求めることは、単に共産革命防止のための政策論としてなら有効だが、直結の瞬間に、文化概念としての天皇は、政治概念としての天皇にすりかわり、これが忽ち文化の全体性の反措定になることは、すでに実験済みではないか」
 これに対して三島さんがどう言っているかといえば、それは認める。おっしゃるとおりで、ギャフンときた。きたけれども、だからなんだというのか、と。この矛盾は私の矛盾ではなく、天皇の矛盾である。そう答えています。要するに、言うとおりなんだけど、おれはそれでも構わないよ、と言っているわけです。