吉本隆明「幻想論の根柢」

今週中にはやるつもりの呉智英検証で必要かなと吉本隆明講演本から引用。

講演「幻想論の根柢」(1978)

 へーゲルの意志論の系では、自由の普遍性は共同意志の発現のなかにあるという考え方が特異です。だからこそ逆にマルクスは共同意志の発現のなかに自由の抑圧をみていったのです。わたしたちはどうしても個体の倫理とか善悪とか宗教とかから、この共同意志の世界を覗こうとして、そのはざまに矛盾と分裂にさらされてゆきます。けれど〈意志〉〈自由〉その共同的な発現の形態の概念にはすこしも倫理が介在しません。ただわたしたちがすくなからず倫理的に介在してしまうのです。
 そこのところをどうにか解除できないか、矛盾が倫理になってくるという在り方を、どこかで解除できないか、おおきな課題としてありました。
 ヘーゲルのかんがえた意志論のすべての領域は、うまく層に分けて関連性がつけられるならば、奇妙な形で理念に倫理的にしかかかわってゆけないとか、逆に無理に、倫理、道徳、人格の問題を捨象するとかいうことをしなくてすむのではないか、そうすることでへーゲルの意志諭は生かせるのではないかとみなしていきました。つまり、個人の意識(ぼくは「幻想」という言葉を使っていますが)、個人の幻想に属する層と、対なる幻想、(略)それから、国家とか法律とか社会とかに属する共同の観念の世界、共同の意志の世界というように、層に分離してその関連性をつけられれば、たぶんわれわれは、共同の目的、意志と個人の意志とのはざまに引き裂かれて苦悶するという、阿呆らしいことはしなくてもすむのではないか、そういう意味での倫理的なことは、解除されるのではないかとかんがえていったのです。

講演「喩としての聖書」(1977)

人間性にたいして幻想を抱いたり、おなじ信者だから、おなじことを信じてるのだから、その人を信じられるんだという、そんなことはありえない、人間はもともとそういうようにはできていないということをよく知ってる主人公イエスを通じて、マルコ伝の著者はある普遍的な矛盾の存在を述べています。
(略)
 ぼくがそういういやな言葉ばかり拾ってるのではありません。新約書というのは、いやな言葉において優れているのです。それが、聖書の思想のいちばん大切なところだとぼくにはおもわれます。同信者とか同志とかでも、人間はギリギリに追いつめられていったばあいには、そこでたがいに背反したり矛盾したり、裏切ったりすることはありうる、だから、もし、人を信ずるとか、なにかを信ずることがあるとすれば、肉体を信ずるような信じ方は本当の信じ方でないと云っていると理解すればできます。そこはたいへんなところでないかとおもわれます。

講演「シモーヌ・ヴェーユの意味」(1979)

 へとへとに疲れてなにもかんがえられないというような日々の工場生活について、ヴェーユが感じたことのうち決定的なことがひとつありました。はじめはゆきづまった政治思想、社会思想の問題をひとつひとつ〈個〉の側から解決していこうとして、労働者を実際、外側からでなく体験的に身をもって知ろうぐらいにかんがえて工場生活に入りました。けれど、他の労働者とまったくおなじように働いたら、反抗心をもったり、敵愾心を燃えあがらせるというふうになるかなとおもったところ、意外なことに、ぎゅうぎゅうと職制に押えつけられて、暇もなく製品作りに専念させられてという状態を、素直に受け入れていたとヴェーユは記しています。(略)抑圧を受け入れ、あたかも古代の奴隷のように嬉々としてこき使われるみたいに、そのことを心で肯定し、受け入れているという精神状態になったということが、じぶんにとって衝撃だったとヴェーユは述べています。(略)
ヴェーユが思想家として優れているのは、この種の小さな事柄についての〈気づき〉の仕方にあります。一般的に外側から大きく掴みますと、労働者の状態は、たぶん悲惨なんだろうということでおわってしまいますが、外側からかんがえることとはちがって、そのこと自体を肯定もしているんだという精神状態とか心理状態が、同時にあるというヴェーユの〈気づき〉方は、きわめて正統な掴み方だとおもいます。
(略)
〈知識〉を所有するということが問われているのは、これだけの制約でしか事物を感じられない抑圧された者が、現実社会ににいるのだ、ということを知るべきだということではありません。それは〈知識〉にとっては第二義的なことなんです。〈知識〉にとってもっとも重要なことは、現在にあってかんがえられるかぎり無限大に感じ、無限大に想像力を働かせ、無限大にかんがえるという義務をもっていることです。労働者大衆は、いろいろな社会的、経済的、知識的な制約のために、これだけの少量しか感じられないので可哀そうなんだというように同情するなんてことはどうでもいいのです。
  しかし、可能な最大限のことを感じたり、かんがえたりできなかったとすれば、そこで〈知識〉の怠慢ということが問われるのです。だから、同時代の人間が感じている自由の範囲というものがあるとすれば、その範囲よりもはるかに多くの自由の範囲を感じ、かんがえなければならないことが、〈知識〉にとって第一義的なことです。