吉本隆明 自著を語る

呉智英が、吉本は中身のなさを悪文で意味ありげに見せてるだけだ、「ドーダ」と言いたくて「イエス」を「ジェジュ」とフランス語にしてやがる、と書いてる本を後日検証するけど、その前に吉本はどう説明してるか引用。多分、呉はホラ自分で悪文だと認めてると言うだろうが、「ドーダ」ではないと思うけどなあ。
聞き手は渋谷陽一

なぜフランス語にしたか「マチウ書試論」

[戦後何をしたらいいかわからず]
戦争中っていうのは、学生の中での流行りは仏教なんですよ。(略)そうじゃなければ神道だったんですね。で、その時は両方ともなんだか見るのも嫌になっちゃった。そうすると、もう他にはキリスト教と聖書しかないわけです。
(略)
実際に教会に行って牧師の話を聞くと、馬鹿なことばっかり言ってるわけですよ(笑)。僕はもう「何言ってやがんだ、話にならん!」と思ってね(略)結局自分で文学的に読んで、それで自分なりに書くっていう。でもなんか照れくさくてか馬鹿らしくてかわからないけど(笑)、あからさまに新約聖書のマタイ伝について書いてあって、主人公がイエス・キリストだっていうふうには書く気がしなかった。だからなんとか違う名前にすればいいと思って、マタイ伝はマチウ書、イエスはジェジュっていうふうに言い直そうじゃねえか、って自分で決めて、そういうふうにしちゃったんですよ。それでのちのちまで「おまえ、そりゃ発音が違うぞ」なんて悪口を言われましたけど(笑)。

共同幻想論

僕は国家っていうものに対して戦中派で挫折してますから、国家を国家としてとか、政治を政治として論ずるっていうのは極めて苦手であって。なんかどっかに屈折を設けないと政治や国家や民族の問題は扱えないという感じなんですね。素直に政治のことは政治的な文章でやっちゃえという考えはなかなか持てなかったということはあったと思います。

人の言葉というのは共同体におけるパブリックな言語と個的なイマジネーションに属する言語というのがある。ただその二つだけではどうしても解けない問題があるんですね。(略)共同幻想的な言語と自己幻想的な言語を繋げるものが何にもないじゃないかと。だから共同幻想共同幻想でしかないし、自己幻想は自己幻想でしかなくて、結局世界は何も解けないんじゃないかって。だからこの対幻想っていう言語がきっちり設定されるならば、共同幻想と自己幻想との差をきっちり埋めることができるし

詩的?悪文?

 ――でも、一読者として言わせてもらいますと、吉本さんの批評文は、限りなく詩的ですよ。ものすごく詩的です。これだけ吉本さんの批評が多くの人に支持されて、読者をたくさん持ち続けているというのは、やっぱりそこが一番重要だと思うんですよ。(略)吉本さんの批評文の中における、非常に詩的でエモーショナルな部分というのに刺激されて、それにくっついていってるんだと、僕は思うんですね。
(略)
吉本 (略)以前に、フランスのポンピドーセンターかなんかに勤めてる日本人が来た時に、言われたことがあるんですよ。要するに、僕の原稿を仏訳するのに、「おまえの書いてることは、何を書いてるのかわかんねえ」 って(笑)。で、僕がわかるように説明を加えて、こういう意図で書いてあるんですよって言うと、「ああ、それならわかります」 って。でも、そういう説明したら、もう完全に味気なくなっちゃうんですね。それは好意的に言えば詩的な要素が文章にあるからってことになるけど、フランス語の論理整合性から見たら、わけわからんというようになっちゃう。

愛国無罪

[反日デモ愛国無罪を批判するキャスターに対し]
吉本 僕ならそう言わないなと思うわけ。つまり、そうすると今度また中国が愛国っていうのはおかしくて、日本が愛国を前面に出さないままリベラルを前面に出すのはいいみたいな、そういうことになっちゃうじゃないですか。愛国って言うなら、日本はずっと愛国の連続でさ、それでやってきたわけですよ。中国が今、愛国無罪だってデモやる人がいたって、歴史の段階から言えば近代化の途中ですから当然なわけです。愛国っていう事例が悪いわけじゃないんですよ。愛国は日本では、保守的だということを表わしているけど、僕はそう思わないわけです。つまり愛国とか民族主義っていうのは、歴史や文化史のある段階で誰もが通るわけですよ。で、今中国は、ちょうど愛国と社会主義的な理念がくっついたんだから民族社会主義、要するに日本の軍国主義と同じですよ。これを現実的な悪だっていうふうに決めつけると、それはほんとに昔ながらのリベラリズムになっちゃうわけです。それは間違いだと僕は思います。(略)


 ――吉本さんが『芸術的抵抗と挫折』をお書きになったのもそういうことですよね。

(略)
僕がそういうリベラリストとどう違うかって言えば、愛国でやれた自分も知ってるし、愛国でやられた日本国民も知ってるわけで。愛国っていうメッセージに対して、愛国は非常に保守的だとか何とかって言ってたって、全然勝てた気がしないわけです。絶対そこで負けちゃうわけだし、愛国というものが持っている現実的な力、あるいはお国のために死ぬっていうメッセージの持っている現実的な力、そこに自分は反戦だとかって言ったってやられちゃうわけです。その愛国っていうメッセージに対して何を出せるかっていう具体的な方法がない限り戦後なんてあリ得ないって思っていたわけです。で、結局、戦後のプロレタリア文学は戦前と同じことをやったわけなんですよ。プロレタリアートの味方って。それって愛国と同じなんですよ。そういうファシズム的な、ある意味全体主義的なものに対してどう桔抗し得るか、それはただのリベラリズムでは問題なわけで。愛国はありだよと。お国のために死ぬっていうロジックもありだよと。それは人間の心を打つわけだし、人々の心を持っていっちゃうわけだから。じゃあそれは何なんだっていうことを踏まえてやらない限り、次の理論ていうのは立ち得ないんだと思いますね。

マチウ書試論・転向論 (講談社文芸文庫)

マチウ書試論・転向論 (講談社文芸文庫)

 

三部作

専門家は「この言葉に対する考え方がちょっと違うじゃないか」とか、「文法的に言うとなってないじゃないか」とか、「ときどき順序が違ってたりするじゃないか」と言いたいんだろうけど、それはそうではなく、ちゃんと筋が通ってて、それから例も挙げろというんならばすぐにも挙げられますよと。そこを過小評価してもらっては困るというのはありますけどね。


 ――だからオリジナリティという点で言えば、専門家は誰ひとりそんなことは創り得ていないわけで。吉本さんは、喩えるなら何もない荒野に家を建ててしまうわけですよ。ただ、その家だけを論じてもしょうがないわけで、そういう家がいっぱい建っている街の中で吉本さんが何をやろうとしているのかっていう俯瞰した視点がないと、一個一個の建物も何の意味を特っているのかよくわからないんですよね。そうした吉本さんのグランドデザインを見ないとダメだと思うんですけど、みんななかなか見ないですよねえ。


吉本 ええ、そうですね、それは見てくれないですね。見てくれないし僕の文章は悪文ですから、たとえばこれをわざわざ翻訳して、どうだこうだと言ったって、何とも思わんでしょうし。ただ別に評価してくれるもくれないも、そんなことは第一義的な問題ではなく、いろんな結果や評価があってもなくても、ここまでは考えたなあっていうのはありますから。それはあんまリ人に「どうだ」って言ったって仕方がないことだという気持ちではありますね。