書物の解体学 吉本隆明

読んだことのない人に勧める、読み易そうな吉本隆明・第二弾。1975年刊(51歳)。順番をとばして、一番わかりやすい「ヘンリー・ミラー」から。

書物の解体学 (講談社文芸文庫)

書物の解体学 (講談社文芸文庫)


ヘンリー・ミラー

ヘンリー・ミラーヘンリー・ミラーにしているのは、ただひとつ、かれが〈放棄〉の構造をもって、文学的に出発したという点である。(略)
ミラーは地獄の果てに、ほとんど完全に、なにかできそうなじぶん、という考えを粉々に砕いて、塵のように吹きとばしている。あとには、なにもできないじぶん、なにかしようとする〈意志〉をなくしたじぶんしかのこらない。ただ、わたしたちの〈風土〉だったら、一足とびに〈出家〉するところで、ミラーはわいざつさの行動についた、といえようか。(略)
ミラーは、まず文学とは、なによりも文学であることを〈解体〉することだ、〈解体〉する手つきも、理由も、その結末も、やはり文学だし、それ以外に文学などが、どこか架空の祭壇に造りつけられることなどないはずだ、とかんがえた。(略)
〈解体〉したヨーロッパの芸術家たちは、〈情況〉に政治的に参加しようとしたものと、シュルレアリスム表現主義も、キュービズムも、ただの意匠文様にすぎないというところまで退化したものとにわかれた。ミラーは、ただ、わいざつな浮浪者的な生活をもって、じぶんの中心に据えるという〈生〉の方法をえらんだ。(略)
ミラーにとっては、アメリカの都市は、いやな冷たい母親の影と、人間よりも威張った〈性器〉のような、高層ビルが支配しているところである。(略)
ミラーは〈大物〉らしく、〈ヨーロッパ〉はとか〈アメリカ〉はとかいう概念に大なたを、いたるところで振りあげては、びしゃっと音のでるほどの強さで、地面に叩きつけてみせる。たとえば「アメリカは平穏無事で、共食いをつねとしてきた、外見は、雄蜂がせわしげに群れかさなりながらうごめいている平和な蜜蜂の巣のように見える。だが、その内部をのぞけば、住民がたがいに隣人と殺しあい、その骨の髄から体液を吸いあっている精神病院なのである」(『南回帰線』)というように。

南回帰線 (講談社文芸文庫)

南回帰線 (講談社文芸文庫)

 わたしたちが、多少でも、「親切な、人のためになる人間になりたい」と思っている人物に、この世で最初に出遇うとしたら、それはわたしたちの〈親〉である。(略)だが、子供たちは、このとき〈親〉が、「親切な人のためになる人間になりたいと思う」ことに絶望したため、わが子に、それを注いでいるのだ、ということを知るべくもない。〈親〉という奇異なものが、この世にいて、どこから由来するのかまったく判らない〈親切〉や、無償の〈奉仕〉を、じぶんに振りかけているのを発見する。だが〈親〉のほうは、そのとき失うべきものは、みんな失っているのだ。(略)
 ミラーは、なせ、こういう関係に固執し、涙腺をゆるめるのだろうか? この循環のなかに、ミラーは〈真なるもの〉の原型を視ぬいているからだとおもえる。じっさいには、じぶんの子供たちが、じぶんの〈期待〉を打砕き、裏切るのは、子供たちのせいではない。子供たちは、ただなにものかの未熟な〈影〉にしかすぎない。子供たちを裏切らせているものは、じつは〈親〉にも〈子供たち〉にもかかわりないが、人間と人間との直接的な関係の外に、客観的に存在している〈なにか〉である。この〈なにか〉を、制度や社会機構に帰してもよい。ただ、制度や社会機構に帰する以前に、無数の小さな錯綜した原因が、ゆく先々の道に転がっていて、たんに〈親〉と〈子供たち〉を隔離しているだけではなく、個々の人間と、制度や社会機構のあいだをも隔離していることは間違いない。(略)
 ミラーの泣きどころは、必ずきまっている。この世界には、〈親切〉や〈思いやり〉も必ず溺れてしまい、〈冷酷〉や〈エゴイズム〉もまた、必ず溺れてしまう巨きな湖水があり、この湖水を渡り切るものは、ただ表層をかすめてゆくほかないことに眼覚めたとき、ミラーは泣くのである。

やがて何年か何十年かあとには、[路地の棟割長屋は]取壊されて、墓標のような味気ないコンクリート造りの公営アパート群にとって替られるだろう。そして進歩的な都市計画立案者は、貧民の福祉を増進させ、生活を向上させたとぬかすだろう。それをおしとどめることはできないし、おしとどめる理由もない。しかし、福祉を増進させ、生活を向上させれば反乱はおこらないなどという自惚れを、これらの立案者に与えてはならないのだ。わたしたちは、〈物化〉や〈進歩〉について、〈窮乏〉と〈非窮乏〉について、誤った理論を伝承している。(略)〈窮乏〉が〈非窮乏〉に変ることは、いつも〈絶対的〉に変ることなのだ。だが、この〈絶対的〉は、たんに〈自然的〉ということの別名にすぎない。
(略)
労働者が裸足で歩いてゆく後進社会主義国の状態よりも、自家用車ででかけていく状態のほうが、〈絶対的〉に〈非窮乏〉なのだ。だから、いずれは放っておいても、黒人街や貧民窟にも、この〈非窮乏〉は波及してゆくにきまっている。ただ、そのことは〈自然的必然〉にすぎないから、自然感性だけが救済されるにすぎない。自然感性に基礎をおいた〈社会〉の考察は、どんな語りロでやられても、牧歌主義にしかすぎない、ということを、ミラーは知らないのだ。


一人分で力尽きたので明日につづく、それとも別の本にするか。
とりあえず過去記事を二つリンク。
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