書物の解体学・その2 吉本隆明

前日のつづき。うまく引用できなかったのでガックリきて、この分量で終了、立ち読み代わり程度に。

書物の解体学 (講談社文芸文庫)

書物の解体学 (講談社文芸文庫)

 経済的に書物に悩まされたことのある者には、書物を解体するという意味は、スクラップにすることを含んでいる。書物をそのまま〈もの〉とみなし、表紙の片端をもって振りまわしてみたり、ゆさぶってみたりしてみる。悪質な造本だと、すこしつづけていると文字通り解体してくれる。また、この装ていは下手くそであるとか、すこしはましだとか、この活字はよくないとか、誤植がおおいとか、この名前の著者のものは、胸が悪くなるから、はじめから読む気などは起らないとかいうことで、すぐにお払箱にすることができる。(略)強いてそうしなくても、はじめに〈経済法則〉が、つぎには〈自然法則〉が書物を解体してくれる。いずれにせよこういう場合、〈自然〉の〈時間〉が処分してくれるので、人間はただ少しだけ手をそえるだけである。
 しかし、書物を通過する〈時間〉はいつも〈自然時間〉であるとはかぎらない。

ところで、むこう側へわたることをおしとどめる〈掟〉や〈愛惜〉の感じは、本質的にはなにを意味しているのか。このばあい、まだやりのこしている仕事や絆や生きることへの執着であるというのは嘘のようだ。ある高名な文学者は、〈死〉の病床で、やりのこした仕事をおもい暮夜ひそかに涙をながしたと日記のなかに書いていた。わたしには嘘であるとおもわれた。わたしたちは、やりのこしたために涙を流さなければならないような仕事を、この世でもつことを禁じられているはずである。まだ、なぜか生きたいのに〈死〉を受容しなければならない涙はわたしにあるかもしれないが、中断して惜しむような仕事をもったという自覚はすこしもない。またそういう仕事の可能性はどこにもないとかんがえてよい根拠がある。(略)
わたしたちを〈死〉へゆかせない内在的な理由であるようにみえる〈掟〉や〈愛惜〉の感じは、普遍的にいえば、〈関係〉の総体の世界、その背負わされた重たさ、鉄格子、網の目ではないのか。この世界は人間が好んで作りだしたものではなく、好ましくないにもかかわらず不可避的に背負わされた世界であるために、これから逃れよりとする〈死〉にたいして、つよくけん制する力をもっているというべきかもしれない。人間はこの意味では不快な存在であり、存在の梯子のどこかの段にとどまっていて、この鉄格子の世界は必要だから作りだしたのだとか、役立つから現に残されているのだとか云いふらしている。だが、人間は鉄板の下敷になって自ら圧死することはあっても、〈関係〉から圧しつぶされるために〈関係〉を拵えあげることなどありえない。

 〈言葉〉は書かれるとすぐに、共同の規範となって人間を拘禁する。この事態を、眼のあたり体験したいなら、〈法〉的な言語にじかに身を晒すにしくはない。わたしはそれを体験した。サド裁判の証人としてである。事態はこうであった。
 サドの諸作品をじぶんで体験してゆくと、ある激しい破壊力から持続的に内的世界を繚乱される。この破壊力は圧倒的であるために、読者はこの行からあの行までは〈性〉的に刺激され、この頁からあの頁までは、じぶんにのこった常識的な規範力を破壊される、といったことを数えあげる余裕はなく、まったくただひとつの強烈な世界を体験しつつあるのだという感に襲われる。(略)
 しかし、現存する国家の〈法〉的な言語は、世界のどこでも本質的に〈芸術〉に対立している。(略)
[〈法〉的な言語に抵触する個所を指摘し]この作品はワイセツ罪に該当する。そういう法家の論理こそが、サド裁判における〈敵〉の本質とみえた。(略)わたしが、抗わねばならないのは、たんに、わが国家の権力をささえている〈法〉的な言語の個々の個条だけではなく、実証主義的な言語観そのものである。そのなかには、ソシュールの言語理論からはじまり、構造主義言語理論にゆきつく一方で
(略)
フランス言語学の密輸業者が、まわらぬ舌でパロールとかメタ言語とかいうとき、わたしは、それをわが国家権力の〈法〉的言語と同一な水準にある〈敵〉としてみなすほかない。(略)
フランツ・カフカが、作品のなかで、もっとも抗ったのは〈法〉的な言語ではなかったのか。(略)
カフカは〈法〉的な言語を、けっして到達できないかのように、人間の〈言葉〉を却けてしまうもの、そういう手続きの無限の迷路の彼方にあるもの、かつてたれもそこへ到達したり、その裏側にまで貫きぬけたりしたものはない存在とみなした。(略)
近いようで果てしなく遠い〈城〉へのこの距離は、カフカの〈言葉〉が暗示する〈法〉的な言語への道のりなのだ。(略)


もしひろびろした野原が眼のまえにひろがるようなことがあれば、使者は飛ぶように前進し、間もなく君は、使者が君のドアーをたたく冴えたこぶしの音を、耳にするであろう。しかし実際は、むなしい努力にかれは精力をすりへらしているのだ、あいもかわらず、いちばん奥ふかい宮廷の部屋を、つぎつぎおしわけていく、これらの部屋を征服してしまうわけにはいかないであろう、それができたとしても、形勢は全然かわらない、今度は、階段をなんとかして降りねばならぬのだ(略)
そこにはじめて首都が姿を現わす、それは、沈澱物があふれてうず高く堆積した全世界の中心である。ここまでつき抜けてくる人間は、ひとりもいない、死んだ人間の密書を持っていてはなおさらのことである。
しかも、君は黄昏のころになると、窓辺にたたずんで、密書の夢をみるのだ。
カフカ「皇帝の密書」)


作品『城』をつめたく縮尺してみれば、きっとこうなるのだ。そしてここではカフカの〈言葉〉は、到達の不可能を〈暗喩〉している。