悲劇の解読 吉本隆明

ちくま文庫版ですけど。
添付したヘンテコ画像は、おまけの五センチ人形接写したら生きてるみたいや、てなピコ麻呂気分で作成した下の動画用素材。

悲劇の解読 (ちくま学芸文庫)

悲劇の解読 (ちくま学芸文庫)


太宰治(76年初出)

身に覚えがないのに、脳病院に入れられた。じぶんに覚えがないのに、褒められたり、けなされたり、愛されたり、憎まれたりする。じぶんが求めないのに、他者との関係が仕掛けられる。太宰にはそのひとつひとつが恐怖としてしか感じられない。
(略)
 ここである穴の底のような世界をかんがえてみる。その世界に陥ち込むと他者の姿が傍にあっても、感情が動かないかぎり、いつまでもおたがいに黙って、知らぬ貌でいるだけである。そして感情の動きがあれば、最小限のことをそのまま言葉にするだけで済ましてしまう。他者に通じても通じなくてもよいし、他者の応答がなくてもさしつかえない。ひとはひとを愛したいとか、関係をもちたいという感情は起らなくてよい。暗い沈黙を背負ってひとは影のようにのろのろと動いて、何かあてどのないことをやっている。ただたしかなことは、粉飾や過剰や体裁は本質的に意味をなさない。こういう世界があまりに無感動や無関心で冷たくなったら、そこに倫理や体温を与えればよい。
(略)
大宰はこんなじぶんの<陥ち込んだ>場所を人間失格の世界と考えた。けれどこういう場所だけが、本質的な意味で人間らしい関係が占めているのではないのか。この<陥ち込んだ>場所は同時に<願望>の世界でもあるのではないか。こういうとき太宰治には倫理といってよいものが現れた。
(略)
 無惨なことに太宰治が、夢にも忘れずに願った〈人間〉らしい世界への復帰は、生理的な成熟と外からの戦争に促されてやってきた。そして内部から溢れでたものでないため、ほんとうの〈人間〉らしい感情生活とは、こういう白痴的な明るさのことなのかという懐疑が、ときとして訪れてくる。
(略)
無気味なほど怖ろしかった隣人たちは、意外にもそれぞれが、いじましい温もりをもとめていることがわかった。思いつめてきたために、化け物のように歪んだ自画像も、塗り直してみれば案外に明るい色に修正できる。


宮沢賢治(78年初出)
[雑にブツ切り引用したので誤解を招くかもしれません]

 あとの方では如実に宮沢賢治の視線の特異さがあらわれる。読むものは少し遠方から空想の銀河の河原や河床の方をみている眼になる。この眼は作品中のジョバンニの眼と同一であるようにみえるがそうでないことがわかる。ジョバンニが走って銀河の渚にしゃがんで水素のような「水」に手をひたしても、読むものの眼は手をひたしているジョバンニも燐光をあげてさざなみたつ水をも同時に視ている。この読むものの遥かな遠方からの眼は、いわば作者の二重視の立体的な装置に依存している。この眼が景観を時間化している秘密である。
 こういうときに宮沢賢治の作品の景観は、いわば<記憶>や<追憶>や<夢>のように隔離された全体、しかも掌のひらに載せられて眺める光景のように小さく静態化される。しんと寂かな青色のイメージがやってくるとき、たいていはこういうメカニスムになっている。
(略)
 ここでも模型の地形図をみていると山裾の左側がゆれて灯りがつき煙を吐きだし、そのあとから黄いろな灯りがこぼれて熔岩の流れをあらわすといった体験を喚起される。そのあとはメタフィジカルな遠近法で、百合の花が模型の山や海とおなじくらいの大きさで迫ってくるし、風も吹いてくる。
(略)
 宮沢賢治の作品は特異な視線に切りとられた景観の、言葉によるモザイクという領域を出ようとはしなかった。(略)この人工的な景観の構築の面白さにもっとも酔いしれたのも宮沢賢治自身であった。そうでなければ詩と童話のほとんどすべてが、ある意味では燃えあがる空虚といってもよい自然現象の記述に満足されたはずがなかった。同時代の文学の前衛は自意識の微細な動きと陰りあいの上に、内的な人間関係の世界を築こうとしていた。宮沢賢治はほとんどそれと対称的なところへ出発した。独特の眼、その視線が切りとった自然断片の再構成の面白さと特異さ、その手つきを言葉のうちにみせることが、作品の出発でありまた変らない根源であった。
(略)
だが作者が偏執しているのはそのいずれでもない。あくまでも弱小なものさげすまれているもの<善意>や<無償>でなければ意味がないということなのだ。あるいは<善意>や<無償>の行為は、行為するものが弱小でありないがしろにされているときにだけ均整がとれるものだという思想だといいかえてもよい。
(略)
[「ほんたう」の構造]にあらわれる作者じしんの情熱、熱弁、懐疑と追求とに自身の生涯をつぶした思想があると、かれはみなしていた。それに触れるとき宮沢賢治は言語の美的な構成を、いつもぶち壊してしまった。暗喩はたちまちのうちに破れ、裂け目からは無類の信じ込みの白熱と稚拙さと、わたしたちの自意識をたじろがせたり、苦笑させたり、白けさせたりする生真面目があらわれる。むしろかれの最大の弱点であった思想の節約、経済学、能率主義さえあらわれるといってもよかったのである。
 もちろんこういうばあいでも、かれの作品をありふれた説教童話にしなかったものはかれのあの視線である。どこかに作品を統御しながら、登場者のすべて登場する風や雲や樹木や鳥や景観のすべてを、あたかも水槽のなかに見透しているような装置の眼であったといってよい。
(略)<弱><小><醜><卑>といったものがもつ「オロオロ」した<善意>や<無償>が登場した途端に、いつも作品のなかに巻きおこされる対処のしようもないほどおたおたした羞恥や狼狽や途惑いの鋭敏な感受性を、宮沢賢治はそのまま<天上>へもっていきたかった。けれどいつもそうとばかりはいかなかった。
(略)
こういうときの宮沢は弱小なもの、いじめられてうとまれているものに、恰好のいい嘘をつくことになっている。支配者や農本的な篤農家や労働者の味方づらをした道徳主義者が貧民や労働者の弱点につけこむためにつねに吐き出す嘘とおなじことになっている。能率、有効性、必要に強いられて生存しているものに、べつの有効性と能率主義を与えて解放できるとする思想はサギ以外のものではない。総じて抽象的な<論理>と<無効>性を身につけるながい道程のなかにしか弱小なものが解放される方向はない。
(略)<善意>や<無償>から宗教的な倫理や自己犠牲にと流れてゆく通路は、かれが心弱かったときに早急にいつも駆け抜けてゆく通路であった。そしてこれが感性の自然融着と拮抗して、宗教的な教訓家の共感と超近代主義者の黙殺をかってきた。宮沢賢治のもっとも通俗に流れたところだからである。